平岩親吉一族をめぐる系譜

(問い) 推古天皇二年(594)に物部守屋の次男という真福が願主となって建立したという伝えに因む真福寺が、愛知県岡崎市の市街地北方(真福寺町薬師山)にあり、明治か大正迄、真福寺の横には物部神社がありましたが、いまは神社としての形はありません。南にはアチワ(謁播)神社(岡崎市東阿知和町)が在りますが、別系統だと子供の時に聞いたように思います。物部神社を管理していたという本家の苗字は、江戸時代前期頃に徳川家より改名依頼がきたので、物部から変わりました。もともと、三河には別の物部がいたのですが、戦火により三河の地を頼り逃げて来たと聞いてます。

 三河物部との関連も含めて、平岩氏について、詳しく教えて頂けませんか。
 
 (jintan様より、09.9.18受け)

※この質問は趣旨を踏まえて、表現を少し変えています。
 

 (樹童からのお答え)

 平岩親吉という人物
 平岩親吉(ちかよし)は、幼名七之助、後に主計頭従五位下に任じた。幼時から徳川家康の側近で人質時代から共に行動して信頼が厚く、その覇業を支えた功臣の一人であり、家康と同じ天文十一年(1542)に、庄左衛門親重の子として三河の額田郡坂崎(現愛知県額田郡幸田町北部。岡崎市の南隣)に生まれた。小田原征伐などの軍功が多くあり、徳川氏関東入国に際しては、上野国厩橋三万石余を与えられ、関ヶ原合戦後には甲府で六万石余となった。親吉には嗣子が無かったので、平岩氏断絶を惜しんだ家康から、八男・仙千代を養嗣子として迎えたが夭折し、次に九男義直の補佐役となり、その尾張転封に従い付家老として犬山城十二万余石(一に九万石)を領したが、慶長十六年(1611)に七十歳で死去した。仙千代亡きあとは跡継ぎをあえて求めず、大名家は無嗣絶家となったが、一族は旗本や尾張藩士として残った。
 
2 平岩氏の先祖の所伝
 平岩氏はもと弓削氏といい、四、五代先の氏重のときに館(額田郡坂崎郷の地か。窪田の山麓と伝える)の傍らに一大岩があることに因んで平岩殿と土民が呼ぶことから、これが苗字となったという所伝がある。このため、平岩という地名は額田郡にはない。 
 平岩氏の先祖について、『姓氏家系大辞典』では、家伝に弓削氏の族が河内に繁衍し、これが零落して三河に住み、三男子が平岩・長坂・都筑にそれぞれ住んで、その地名を苗字としたといい、『寛政譜』では守屋大連の後裔で、碧海郡平田庄上野城主の右衛門尉照氏がはじめ上野を称し、氏信のときに弓削に改め、隼人正氏貞のときに平岩になったとされる。この系譜では、南北朝期の人で新田義興(義貞の子)に仕えた上野右衛門尉照氏が直接の祖であって、この子孫に氏信、氏貞、親吉らが出たことになっている。『塩尻』にもほぼ同様に記される。なお、上記の長坂・都筑についていえば、長坂は後述するが、都筑は利仁流藤原氏という系図があり、三河で平岩氏と養猶子関係ができたものか。
 碧海郡平田庄上野とは、矢作川中流西岸の碧海郡上郷村上野(現岡崎市西本郷町平田辺りか)とみられるが、そこから坂崎までは西南に八キロほどとなる。近隣の碧海郡矢作町坂戸が親吉の出生地とも伝え(『二本松』)、当地坂戸や同郡新堀村の土豪長坂氏も平岩一族だという。これらの地域は、大掴みでいえば、JR東海道線の西岡崎駅を中心とする地域ということになる。西岡崎駅の北側の住宅街の中にある妙源寺岡崎市大和町)の建武三年(1336)十二月五日付けの文書「物部氏寄進状」があり、三河国平田庄を寄進すると見える。この「物部氏」が年代的に見ても上記の上野右衛門尉照氏に当たるとみられるから(「照」のほうが妥当か)、このあたりから平岩氏の沿革が確認できるとしてよかろう。
 
 中田憲信編の『諸系譜』第十五冊には平岩系図が見えるが、この系図では、照氏の七代先の物部弓削連光武から始める。その譜には、「物部守屋連の子、真福が三河国に住み、その後なり」と見え、光武は頼朝公に仕え三河国碧海郡上野地頭となると記される。次に、照氏については、「上野右衛門尉、居上野城仕新田氏、元弘建武ノ乱に武功多く、正平十三年(1358)十月十四日、武蔵国矢口渡において主人義興と同じく、船中自殺」と記される。これとほぼ同じ内容を記す系図が静嘉堂文庫所蔵の『姓氏分脈』廿九の「物部弓削大連姓、平岩」にあり、上野九郎光武とあるから、これが具体的に知られる平岩氏の先祖となる。頼朝将軍のときの上野九郎光武より先は不明である。
 なお、九郎光武から右衛門尉照氏までの間に六代が入り、世代数が二代ほど多い。このなかに、「八郎、九郎」を名乗る者が多いが、若干の傍系相続があって、それが直系に記されているため世代数が増えた可能性がある。
 
 もう一流あった三河の物部弓削連氏
 三河にはもう一流、物部弓削連姓を名乗るものがあるので、これとの関連も考えてみる。こちらは平安後期頃の物部弓削連季定の流れで、季定は竹矢(竹谷?)四郎を名乗り、加茂郡荻生庄に住んだが、その子の荻生次郎季明の後裔が戦国期まで続いていたとされ、松平信光と戦って降った荻生季統の孫が乗元で、松平親忠(信光の子。家康の五代祖)の婿となって松平加賀守と号し大給松平の祖となった。
 荻生季統の一族に義統がおり、その子孫が伊勢白子に行って北畠氏に仕えた者があり、この流れから出たのが学者として名高い荻生徂徠だという。徂徠は物部氏の子孫だとして「物茂卿」とも名乗った。
 これら荻生の系統は、住んだ地域が加茂郡といい、また竹谷・大給といい、松平氏との通婚といい、加茂郡の松平氏とかなりの縁由がありそうである。
 鈴木真年によると、陰陽頭弓削宿祢是雄の子孫は世々陰陽師であったが、加茂郡に陰陽寮の領地がある故に下司として移り住んだもので、荻生・平岩等の祖だと記される。これは『史略名称訓義』の平岩親吉についての記事であるが、『華族諸家伝』大給近道条には「大給家ハ元ト荻生氏平岩氏ト同宗ニシテ物部守屋大連裔也、越前守物部弓削連季定、鎌倉殿ノ時、三河国加茂郡荻生ノ庄ノ地頭トナリシヨリ世々之に居、其十一世ノ孫荻生季統、松平信光ト戦ヒ終ニ降リ仕フ、其孫加賀守乗元、松平西忠入道ノ婿ニシテ松平氏ヲ冒シ猶子トナルト云ヘリ」と記されている。
 
 弓削宿祢是雄生没が848〜908)とは、守屋大連の子の忍人の七世孫にあたる者であり、はじめ父・安人とともに播磨国飾磨郡から河内国大県郡に貫付し、次いで右京三条三坊に貫付したが、元慶元年に弓削連から宿祢姓を賜り、陰陽頭になったことなどが『類聚国史』などに見える。その系譜は、『諸系譜』第十三冊所収の稲生系図に見えるが、物部弓削連季定の名は同系図には見えない。季定が弓削是雄の後裔になるのなら、すでに弓削宿祢姓を賜っているので、物部弓削連という姓氏は不審だが、この辺にはなんらかの誤伝があるのかもしれない(別族という可能性も残るが)。
 鈴木真年の上記著述を裏付けないし傍証する系図があるが、端的に光武や季定につながる系図がないのが惜しまれる。従って、真年が何を根拠に記したのかは不明である。ただ、季定(季貞)が仮に弓削是雄の後裔に出たのだとしたら、平安後・末期頃には、番長貞鑑、左近将監貞以といった武官も系図に見えているので、これらの子弟であった可能性も考えられなくはない。また、光武と季定とが同族であったかどうかは不明であり、光武のほうは遠江国佐野郡弓削庄にあった弓削宿祢氏から出た可能性も多少考えておきたい。
 
 ただ、長坂氏のことも気にかかる。長坂氏では、家康家臣の長坂血槍九郎信忠(信政)が著名であるが、その五代祖・信重を祖としており、信重は平岩氏重の弟という。一方で、清氏の子孫ともいわれるが、平岩氏と同族であったことは、その居住地・碧海郡坂戸村などからも窺われる。長坂氏は加茂郡にもあって、松平信光に攻略された長坂新左衛門(荻生季統との関係は不明)も同郡大給城(豊田市大内町で、松平町の西北近隣。大給尻の小字が残る)にいたとされるから、加茂郡という関係で荻生氏とも縁由がありそうでもある。加茂郡の山の中には平岩という地名が旧小原村(現豊田市平岩町)にあって、この地が平岩氏発祥地という説もあるようである。ここはあまりにも僻地すぎて、ちょっと信じがたいが、平岩氏自体は先祖が加茂郡のどこかにあったという可能性も残る。
 
4 三河国造一族の物部
 三河国造は物部一族の知波夜命から出たとされ(「国造本紀」)、その系図も『諸系図』第十三冊に「秋野系図」として見える。この一族から出たものに、秋野、筧(額田郡欠村に起るか)、多門、桜井(碧海郡桜井村)などの苗字が見える。上記の式内社・謁播神社も、祭神を知波夜命というから、国造一族が奉斎したものと考えられる。国造家本宗は西の碧海郡のほうに居て、知立市西町神田に鎮座する式内社の知立神社を奉斎するといい、この祠官家は三河連姓を名乗る永見氏がつとめ、この一族から家康の子・結城秀康を生んだ小督局を出していて、越前福井藩士に永見氏が見える。
 なお、平岩氏や長坂氏が弓削氏というものの、守屋大連の後裔という称に因むということで、たんに三河物部の後裔だったものかもしれない。秋野系図の古代部分はかなり詳しく、そのなかには「真咋、真鎌、真主」という名前は見えるが、「真福」なる者は見えないものの(そもそも、その実在性は確認できない)、謁播神社の近隣に物部神社があり、その祠官家がもとは物部ということであれば、両神社とも同じ物部一族が奉斎した可能性も考えられる。
 
 以上、平岩氏と三河の物部弓削連をめぐる問題は多くかつ難解であるが、少なくとも鎌倉初期頃から当地にあって活動していたことが知られる。
 
 (09.9.26 掲上)
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