浅野長政の実父系・安井氏

(問い)貴HPの美濃土岐一族の系譜を拝見しました。その中に武家華族となった広島藩浅野氏や忠臣蔵で有名な浅野内匠頭長矩を輩出した浅野一族が土岐一族の出自という家系が本当ではないのかという議論に大変興味を持ちました。
 そのことに関連してなのですが、浅野長政は養子であり、その実家は安井氏という尾張の豪族のようで、その安井氏の系譜を太田亮博士の『姓氏家系大辞典』で確認したところ、「逸見清光の四男・清隆が安井姓を名乗り隆頼、弥次郎有朝、小次郎光朝と続いてその後裔が尾張に土着した。その系統から浅野長政に実父である安井重継が出た」といった内容でした。
 確かに逸見(源)清光の四男に清隆という人物はいたようですが、実際の清隆自身は安井氏の遠祖というよりは甲斐源氏二宮氏の遠祖として位置付けられているようです。そのうえ、小次郎光朝から長政の祖父弥兵衛重幸までが空白になっており、逸見氏の後裔を称する点、系図の空白が多い点などで、以前ご教授いただいた尾張溝口氏との共通点があるように思いました。
 それに関連して安井姓の家紋を調べると、同じ尾張国内発祥で、貴HPにも多氏族概観に尾張丹羽臣・島田臣の流れとして掲載されている武家華族奥田氏と同じ「亀甲内に花菱」を用いている者があり、全くの個人的な推測ですが多氏との関連性もあるように感じました。

 尾張の安井氏は本当に甲斐源氏の流れなのか、それとも現地古族の系統なのかご教授お願いいたします。
 
  (宗次郎様より、09.10.11受け)

 (樹童からのお答え)

1 浅野長政の父母と生地
 秀吉の縁戚で五奉行の首座であった浅野長政(長吉)については、養父系の浅野氏、実父系の安井氏ともども不明な点が多い系譜である。浅野氏については諸伝が多く、安井氏については少ないという事情が違うが、信頼できる史料には、この辺の武家のレベルまでは出てこないことが多く、判断・確認がしがたいというところである。
 浅野本家の広島藩主家が明治に提譜した『浅野家譜』では、家祖の長政(弥兵衛、弾正少弼)について、父は浅野又衛門源長勝で、その娘(註:実際には養女で、秀吉夫人北政所の妹)が室であり、実父は安井五兵衛源重継、実母が浅野又兵衛源長詮の娘であって、尾張に生まれたと記される。
 長政の実父が安井五兵衛重継で、実母が浅野又兵衛長詮の娘ということについては異説がないようであるが、実父の姓が源氏なのかどうかについては、問題がある。また、生地についても、尾張国春日井郡北野(現在の愛知県北名古屋市北野)のほか、『浅野長政公伝』(明治四三年〔1910〕)では近江国浅井郡小谷とされるが、生母の事情も考え併せると、『浅野家譜』もいう「尾張」のほうが比較的に自然であろう。浅井郡小谷は、長政の長男の幸長が生まれた地ではあるが。

 なお、「安井」の地名で管見に入ったところでは、庄内川中流南岸に名古屋市北区安井の地があり、東海地方では、ほかに岐阜県大垣市に安井町があるくらいなので(京都・大阪など近畿地方にはかなりある。滋賀県は地名は管見に入っていないが、蒲生氏郷家臣に安井氏がいあた)、北野や宮後にも割合近い北区安井(旧山田郡か)の地名に因んだ可能性がある。後述するが、近隣の愛知郡の諸社祠官家に安井氏がいくつか見られる事情もある。
 
2 安井重継の父祖についての二伝
 安井重継の祖先の系譜については、ほとんど知られない。『姓氏家系大辞典』に示される「安井氏系図」には、五兵衛尉重継の父が弥兵衛尉重幸とされ、重継の弟に善左衛門重知(その子に忠知)、重継の子で長政の弟に弥次兵衛尉がいたとされる。その先は、甲斐武田の一族、逸見冠者清光の子の安井四郎清隆とされるが、清隆の曾孫の小次郎光朝から後は安井氏歴代の名前が伝わらず、こうした系の断絶あるいは中間省略には大きな疑問も感じられる。
 一方、『尾藩諸家系譜』所収の浅野系図には、安井善左衛門から始めてその子に弥兵衛、さらにその子に善左衛門氏次・弥兵衛長政をあげ、善左衛門氏次の子に善左衛門長氏・大炊介長勝・金右衛門某の三人をあげ、長勝の子孫が尾張藩にあったとされる。この系譜では、同じ清和源氏でも土岐一族の浅野次郎光時が浅野氏の祖で、その後裔の浅野又右衛門長利が尾州浅野村にあったと見えるから、安井氏も本来は浅野氏の一族であったという主張なのであろう。ここでも、安井善左衛門の直接の父祖の名前はあげられていない。
 ともあれ、長政の父祖については、具体的には「弥兵衛尉重幸(善左衛門)」−「五兵衛尉重継(弥兵衛)」−「弥兵衛長政・弥次兵衛尉(善左衛門氏次)兄弟」(以上のカッコ内が『尾藩諸家系譜』の表記)、ということになるが、善左衛門・弥兵衛尉という通称が頻出していることに注目される。
 ところで、「安井弥兵衛」(具体的に誰を指すのか不明だが)が尾張国春日井郡宮後村に居たといい、『尾張志』には丹羽郡宮後村の士・安井弥兵衛が浅野長政の実父だと見える。また、後世の偽書であるため、どこまで信頼してよいかどうかが不明であるが、『武功夜話』には、文和年中(1355)に美濃守護の土岐氏が尾張へ進出して、尾州の上郡の宮後(現江南市宮後町)の地に出城を築き、そこに安井小次郎を城主として入れて、その後は安井弥兵衛が代々住居としたが、この安井氏の源は甲斐国武田の逸見冠者の流れと聞く旨が記される。蜂須賀小六正勝の母は安井氏の出であったともいう。
 
3 善滋朝臣姓説
 前項までで、甲斐武田の一族安井氏という所伝と美濃土岐・浅野の一族という二つの系譜が出てくるが、鈴木真年関係の史料には、これと異なる「善滋姓」という所伝が見える。これによると、「江州浅井郡小谷地士の安井五兵衛尉善滋重継」が浅野長政の父だと中田憲信編『諸系譜』第二冊(北政所系)に見えており、またほぼ同じことが鈴木真年著の『華族諸家伝』の浅野長勲条に見える。
 善滋(ヨシシゲ)姓というのは、平安中期に賀茂朝臣忠行の子の保胤・保章・保遠の三兄弟が賜姓した慶滋朝臣のことであり、年長の慶滋保胤931頃?生〜1002没)は、浄土教受容の代表者であって、詩文は『本朝文粋』に収められ、同書所収の『池亭記』や『日本往生極楽記』の作者としても名高い文人であった。賀茂朝臣氏は三輪君同族の鴨君の後裔であり、陰陽博士賀茂忠行の嫡子保憲の子孫は暦道・陰陽道の大家を輩出し後世までこの職掌で朝廷に仕えたが、慶滋氏の系統は史料に見える二代ほどは外記・内記など文章道関係の職に任じていた。その後の系譜は、伝わらないし、氏人もほとんど史料には出てこないくらい零落したものであろう。
 筆者は、かつて某地(箱根?)で、あるウエイトレスさんが「慶滋(かも)」という名札をつけていたのを見たことがあり、現在まで苗字としても慶滋が残り、かつ、それが「かも」と訓まれることに驚いた経験が記憶にある。もともと、「慶滋」は本姓賀茂の読替えであったとされる。

 ところで、『姓氏家系大辞典』安井条によると、尾張の国内には安井姓の祠官家が多く、愛知郡の泥江県神社(「ひじえあがた」。広井八幡宮とも呼ばれ、名古屋市中区錦にある古社。北区安井の南西約五キロに位置)、同稲荷社や若宮八幡宮、白山社等の社家が安井氏で、いずれも源姓だという。同書には、『寛政譜』に見えて源義光流に収める安井郷左衛門秀勝(五左衛門信重)の家を賀茂氏族と分類して、家紋に「亀甲内に花菱」を用いたこともあげられる。これらがほとんど皆同族同流であったのであれば、安井重継の家も同様に実際には賀茂氏族、すなわち善滋朝臣姓であるとするのが比較的落ち着きがよい。そして、安井氏の歴代の通称のなかに多く見える「左衛門」こそ、善滋朝臣姓出自を示す傍証ではあるまいか。
 
 以上、管見に入ったところのものを整理してみたが、濃尾の現地にはもう少しなんらかの資料がありそうでもある。

 (09.10.17 掲上)



 <宗次郎様よりの返信> 09.10.11受け 

 私も寛政譜を見たのですが、ご教授いただいた通り、幕臣安井家は源義光流の巻に掲載されているもかかわらず、賀茂朝臣をもって祖とするが、その系譜は詳でないとありました。
  ただ、今回の樹童様のご意見と、鈴木真年氏の史料に見える(安井氏は近江の郷士という内容ですが)善滋姓ならば幕臣安井氏が賀茂氏を主張しているということ、通称に善の字を使用する者が多いといった事情にしっかり当てはまると思いました。 

 (09.10.23 掲上)



 (追補)安井重継の父祖

  その後に気づいたが、鈴木真年編の『百家系図稿』巻12に簡単な安井氏系図が掲載される。
  それによると、安井重継の祖父に善滋宿祢重時をあげて、そこから始まる四世代分の系図であり、その長子が次郎右衛門尉重長、次子が五兵衛重英であって、重英は浅井郡小谷に住み、その子に五兵衛重継・与吉重真、五兵衛重継の子に重善・長政・女子の三人をあげる。
 なお、次郎右衛門尉重長の系統も孫までの三代を記しており、重長の長子が三助重孝その子金助重近、次子が源五郎重常、三子が茂左衛門重正その子に茂大夫重久・女子、ということである。
  以上のように簡単なもので、記事もこれ以上記されず、その出典も知れないが、かなり信頼できそうではある。

 (09.11.3 掲上) 

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