□ 「若子命」と大幡主との関係 (問い) 中臣連一族の大鹿首氏の系譜には、相鹿津臣命の子に若子命をあげて「大鹿首・川俣連の祖」と記し、その後は系図史料に見えません。 この「若子命」は、『大若子命=大幡主大神』とは別の方でしょうか?
また、『乙若子命』『小若子』など、伊勢に関係すると伝える方々と「若子命」とは無関係なのでしょうか?
(大鹿様より 09.8.28受け) |
(樹童からのお答え) この関係についてはあまり資料がなく、現段階で分かる範囲でお答えしておきます。(以下、である体で記します)
1 「若子」というのは一般名詞であり、兄弟が何人かいるうちの末子の男子について古代の通称に用いられている。『記・紀』や系譜資料に見える「若子」をあげてみると、 @男浅津間若子宿禰命 仁徳天皇と磐之媛皇后の末男(四男)で、即位して允恭天皇となる(『記・紀』)。
A若子宿祢 武内宿祢の末男(七男)と伝える者で、加賀の江沼臣等の祖とされる(『記』及び「紀氏家牒」逸文)。
B大若子命とその弟・乙若子命 大若子命は垂仁朝に越(北陸道)の賊徒阿彦を討伐する功績があったが、そのときに大いに旗(幡)を挙げて戦い勝ったので、大幡主命(おおはたぬしのみこと)の尊称を与えられたと伝える。その弟・乙若子命は伊勢外宮祠官の度会神主の祖とされ、兄弟は伊勢国造の祖・天日別命の後裔と伝える。
伊勢国造は中臣連の初期分岐であるが、度会神主の実際の系譜は伊勢国造一族ではなく、海神族出自の丹波国造一族の出であり、大幡主命こと大若子命は越道の北陸諸国造や道君・江沼臣等の諸氏の祖となっている。従って、江沼臣等の祖・若子宿祢は、その実、大若子命の子孫であったとみられる。この関係の詳細は、宝賀会長の著『越と出雲の夜明け』に記述されるので、参照されたい。
2 伊勢の大鹿首の系譜は詳しくは伝わらず、中臣氏の系図には、国摩大鹿島命の子の相鹿津臣命、その子の若子命が「大鹿首・川俣連の祖」と記されるものの、それ以降の系譜は伝わらない。『倭姫命世紀』は後世の偽書ではあるが、そこに記載される倭姫関係の人名は必ずしも造作されたものとは思われない面がある。そのなかには、「川俣県造祖大比古命」と見える者がおり、これが上記の相鹿津臣命(相鹿は大鹿に通じる事情もある)に当たるとみられる。このように考えると、ここに「大彦−若彦」の対応が考えられ、「若子命」とは「若比古命」の意となろう。だから、ほかに兄弟があげられなくとも、「若子」という通称もでてくることになる。
年代的に考えると、国摩大鹿島命は垂仁紀に中臣連遠祖大鹿島が五大夫の一と見えており、相鹿津臣命が垂仁〜成務朝頃の人で、その子の若子命は応神朝頃の人と推される。
以上のように見ていくと、大鹿首の祖・若子命は、伊勢大幡主命こと大若子命とは別人ということになります。
(09.9.2掲上)
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