荘厳寺本「黒田家略系図」についての試論

(問い)貴HPで、「福岡藩主黒田氏の先祖」を拝見しました。
 
 この黒田氏の先祖については、諸説ありますが、インターネットの下記のページに詳細な研究が公開されており、私見では、これが最上のものと見ましたが、いかがでしょうか。ご意見をうかがいたいと存じます。
 黒田家前史小論
 
 (黒田重治様より。2011.08.17受け)

 (樹童からのお答え)

  福岡藩主黒田氏の先祖の系譜については、諸説ありますが、本文(福岡藩主黒田氏の先祖)でも触れましたように、近江佐々木一族の黒田氏の出というのは、系譜仮冒とみられ、播磨古来の武家と考えられます。
 それでは、播磨のどの流れかというと、多可郡黒田に在った赤松一族支流とするのが、自然ですが、その具体的な系図は判じがたいものがあります。貴信御紹介の「黒田家前史小論」に掲載の「荘厳寺本「黒田家略系図」」でも赤松支流ですが、別所支流とされます。その検討をしたところでは、同系図は初期部分などを含めてかなり疑問が大きい系図だと思われます。
 同系図を「荘厳寺本」とここでは呼ぶことにしますが、播磨屋さんがそのHP「地方別武将家一覧」黒田氏のなかで、「黒田庄町黒田の区有文書のなかに、従来の説と趣を異にする「黒田氏系図」が伝わっている」とする系図とほぼ同じ内容となっています(ただし、区有文書系図のほうには、重勝より前は記載しない)。以下に、その疑問点と根拠を記してみます。
 
 室町期の黒田氏の一族が播州多可郡の比延・黒田に在って、黒田氏・比延氏を名乗ったと伝えますが、「荘厳寺本」には比延氏の話は、男系では出てこず、姻族として見える。かつ、「荘厳寺本」の記事に見える黒田氏の歴代(重光から重範までの世代)や一族が他の史料や赤松氏などの系図類にまるで出てこず、その記事に信頼性や裏付けが大きく欠けるからです。他の史料などに裏付けのない系図史料を信頼することは、疑問が大きい姿勢といえます。
 「荘厳寺本」に見える黒田氏歴代がみな「従五位下」という叙爵をしているのも、きわめて不自然で、官位に虚飾があります。室町期の『歴名土代』には、播磨の黒田氏の叙爵はいっさい見えません。もう一つ、系図として不思議なのは、同本の黒田氏歴代が各々誰に属したという記事がないことです。播磨黒田氏の通字は、「荘厳寺本」に見えるような「重」であったとも思われません。
 
 多可郡に在った黒田氏本宗が戦国期に三木の別所氏に属したのは確かなようで、例えば、明治期に鈴木真年翁が採集・整理した『百家系図稿』第19巻に所収の「鴻池家系」(これと同系の系図として中田憲信編の『諸系譜』第八巻の「山中氏世系」がある)では、黒田新一郎治重が別所則定・就治に属し、その子の出羽守治高が属安治、その子の右兵衛尉幸隆が属安治・長治、と見えます。ただ、この系図では佐々木黒田の流れとされており、別所支流にはなっておりませんが、それはともあれ、「荘厳寺本」の黒田氏歴代の名前が他系図に見える黒田氏歴代とも大きく異なります。「荘厳寺本」では、末尾に「治隆 左衛門尉、黒田城主」が見えて、として「孝隆 官兵衛尉」の兄に掲げるくらいの共通点しかありません。
 なお、「鴻池家系」では、黒田新一郎治重の妹弟に「黒田右近允高政の妻」及び「山中弾三郎貞幸(鴻池の先祖・鹿助幸盛の祖父)」の二人をあげます。新一郎治重の父は治宗、その父が出羽守宗政、さらに備前守政宗と遡りますが、同系譜の記事から総合的に考えると、どうも治重の実父は山中志賀之助宗高らしい面もあって、この者が出羽守宗政の娘を妻として治重を生み、治重は外伯父黒田治宗の養嗣になったのではないかともみられます。山中志賀之助宗高の父は不明ですが、宗高は治宗の従兄弟(宗明の子)か又従兄弟(下記の小二郎高門の子)かになると思われ、前者の可能性がやや大きいかと思われます。
 この「鴻池家系」には、嘉吉の頃の備前守政宗の弟として高安及びその子・高門が見えますが、中田憲信編『諸系譜』巻8掲載の「石田系図」には、摂津国長田庄の長田神社祢宜・石田石見守之清の妹について、「黒田左馬允高安妻、小次郎高門」と記載があって、相互に裏付けがあるとみられます。また、嘉吉の乱の余波で、享徳四年(1455)五月に、山名宗全の軍勢に攻められて、備前の角居島で自殺した赤松常陸介則尚に殉じ、一族郎党が同時に自害したなかに黒田宗明という者もいたが、この宗明は上記出羽守宗政の弟として「鴻池家系」等に記載されます。
  上記の黒田城主の幸隆については、「山中氏世系」に、山中鹿之助幸盛の長子・多々納平兵衛幸範は、乳母の族・播州黒田城主黒田右衛門佐幸隆のもとで生育したと記される事情もあります。
 
 黒田重隆(官兵衛孝高の祖父)の兄弟に宇喜多氏に仕えた源三郎定隆がおり、その孫の定重が天正七年(1579)、美作国久米郡宮部に土着したと『姓氏家系大辞典』に見えますが、この定隆についても「荘厳寺本」に見えません。
 
 別所氏の室町初期の系図部分については、必ずしも確定した信頼できるものとはいえないのですが、赤松円心の弟・別所五郎円光(名は敦忠か敦光)の子には黒田七郎重光は見えません。敦光の子には、小林助五郎光義・飽間(秋間)九郎左衛門光泰・蘆田弾正少弼宗光・則重が見えるものもあります。「荘厳寺本」では別所円光と五郎敦光を別人として、親子とするが、この取扱いも疑問があり、両者は同人とみられます。
 また、「荘厳寺本」には野中氏祖として野中六郎光氏が黒田一族に見えますが、赤松一族野中氏は、南北朝期の野中八郎貞国(別所円光の従兄弟か。一伝に円光の叔父)を祖とするもので、この辺も一般の赤松系図とは異なります。
 
5 『寛永諸家系図伝』では、黒田氏は近江佐々木黒田一族の高宗の後は「此間中断」として重隆から始めており、一般に始祖とされる備前福岡に住んだ右近大夫高政(重隆の父とされる)の名は見えないから、江戸期では先祖が不明になっていたことが、分かります。『寛政重修諸家譜』編纂のときの呈譜では、高宗の子に右近大夫高政をおき、その子に重隆をおくが、編纂者は推考するに代数がまだ足りないから「しばらく舊きに従ふ」という記事をつけて、系譜部分では中断の後は重隆から始めています。
  黒田氏は主家筋の赤松一族と共に嘉吉の変で没落して、いったん本拠の黒田城を退去しており、一族の宗明が備前の角居島で自害した事情もあるから、先祖の備前居住は信頼してよいと思われます。「鴻池家系」等でも、黒田備前守政宗は嘉吉の乱の時に討死し、その子の出羽守宗政は伊勢で主君教康とともに自害、その弟の宗明が備前の角居島で自害、宗政の子の治宗は諸国流転の後に赤松政則の復活とともに故地の黒田に戻り、別所氏に属したと見えます。
 ところが、これについて、「荘厳寺本」では歴代が一貫して黒田城主として続いたと記しており、嘉吉の時期にあたる光勝も黒田城主で宝徳二年(1450)に死去しており、播磨の赤松一族の苦難時期の動向とも符合しないものとなっています。
 
6 官兵衛孝高の近親についても、「荘厳寺本」は疑問な内容を伝える点があります。
 (1)孝高の父について、下野守重隆とし、官兵衛尉孝隆が小寺美濃守職隆の猶子となった、重隆の卒年が永禄十年(1567)八月と記されるが、これらの是非である。これに対して、『筑前福岡黒田家譜』では、永禄七年(1564)二月卒、年五十七(すなわち、生没が1508〜64)とし、その子の職隆の生没(1524〜85)、孝高の生没(1546〜1604)、長政の生没(1568〜1623)とつながり、小寺は父・職隆が主家から許されて称したとされる。孝高の叔父・小寺千大夫高友は、小寺休夢として秀吉の御伽衆として活動が見えており、職隆の世代から小寺が称されているから、孝高が初めて小寺を名乗ったわけではない。この家譜では、重隆と職隆との間の年齢差が満十六歳ということで少ないことが気になるが、重隆の生年をもう少し前とする異伝もある。
 例えば、『赤松諸家大系図』(東大史料編纂所蔵)に所収の「黒田氏系図」では、重高の生年を永正元年(1504)とし、小寺加賀守則職に仕えて小寺姓を許され、その卒年を永禄三年(1560)二月として、孝隆を重高の子、小寺職隆の女婿として記されるが、孝隆の生年(1546)から見ると、祖の重高との間に一世代の欠落があるともみられる。また、『諸系譜』巻八所載の「山中氏世系」では、重高の卒年を同じく永禄三年(1560)二月で、年五十七としており(従って、1504〜60)、その子の職隆の生没記事(1525〜85)からは、これが世代として穏当な内容となっている。
 (2)『黒田家譜』では、孝高に兄は記さず、その弟たちに利高・利則・直之があげられるが(この三名の事績は、阿部猛等編『戦国人名事典』に各々詳しい)、こうした孝高の兄弟の記事がない「荘厳寺本」と大きく異なる。
 
7(一応のまとめ)
 ネット上の「黒田家前史小論」の記事でも、黒田村の荘厳寺には「黒田家略系図」という系図一巻が伝わるが、この系図の作成時期は年代が新しいこと、「荘厳寺は、法道仙人開基、空海中興という古刹であるが、過去何度も火災に遭い文書も焼亡した」ことも記されるから、これらの諸事情から見ても、現段階では、「荘厳寺本」は後世(おそらく十九世紀代くらい)に作られた近世系譜であって、上記の諸事情から、史料価値をきわめて低く考えざるをえないところです。
 ただ、「荘厳寺本」が一概に捨てきれないのは、二代目の石見守重勝について、妻が「比延掃部助頼兼妹」と記載があることであり、比延山城初代城主の比延掃部助頼兼は、その兄弟に黒田四郎左衛門尉頼満がいたと別途、伝える事情もあります。この兄弟が福岡藩主家の実際の先祖ではないかとみられますが、「山中氏世系」では、黒田頼満の兄の名を「三郎宗信」として、多可郡の上比延村の北の山頂に築城して居り黒田城といい、加茂郡別所山村の別所五郎入道円光に付属したと見えます。おそらく、このあたりで佐々木黒田の系と別所黒田の系が接合されたとみられます。
 黒田村の近くに「喜多」の地名もあるので、その先は鎌倉時代の別所一族の喜多野三郎頼遠ではないかともみられます。喜多野頼遠の父は別所次郎頼清で、その兄が赤松氏の祖・山田入道頼則となりますから、黒田一族は別所氏の支流であっても、南北朝期ではなく、それより随分早い平安後期に分かれたというのが実態であったのかもしれません。鎌倉末期〜南北朝前期頃のの別所円光は、古い別所氏の家(別所民部少輔範光と伝える)に養嗣として赤松本宗から入ったとみるのが妥当だとみられます。
 
 黒田頼満については、延元三年(1336)五月に死去したとも伝えるから、応永五年(1398)二月に卒したと伝える黒田重勝(円光の孫とされる)と少し世代のズレがあるかもしれないし、以上に記してきたように、「荘厳寺本」のどこに信頼がおける部分があるかは分かりません。なお、好意的に考える場合には、「荘厳寺本」はまったくの造作・戯作と考えないで、重光を初代とする黒田支流の系図がなんらかの基になっているのかもしれず、その系図の末尾に治隆や孝高を追加したのかもしれないという可能性がないともかぎりません。現段階では他の系図や史料に裏付けとなるものが出てこない限り、同本は信頼しないほうがよいとみられます。
 
 (2011.9.9 掲上)


   黒田頼満に関すること
 
 <熊野三山さんからの再信> 2011.9.9及び9/10受け
 
1 黒田頼満については、
に登場しますが、近江源氏で薩摩に栄え、宝暦治水の薩摩義士黒田氏、や明治期の黒田清輝、黒田清隆らも皆その子孫と鹿児島県立図書館所蔵の黒田系図に記載されていました。

 ※上記アドレスから直接に開くことができないこともありましたので、そのHPの摘要を次ぎに記しておきます。
 九州に発達した水泳の流派に薩摩の「神統流」があり、十五世紀後葉に頼宗(8代)と二子頼房(9代)・頼定(10代)父子三代にわたって水芸を練成し、水迫仙法『業三品』が成立した。その記事は、「文保2年(1318)、父黒田宗満の命を受けた黒田頼満は島津家犬追物執事役として、近江より薩摩に下向した。この頼満が薩摩黒田家の初代である。その後、頼重(5代)から頼広(6代)、頼季(7代)を経て頼宗(8代)まで、特に水芸を練り、頼宗は明応2年(1493)水迫仙法『捨の業』を成就した。頼宗と二子頼房(9代)頼定(10代)父子三代に亘って水芸を練成し、明応5年(1496)兄頼房が『抜の業』を成就し、明応7年(1498)弟頼定が『差の業』を成就して、水迫仙法『業三品』が成立した。さらに頼定は大永5年(1525)「大永文書」を記し、天文2年(1533)には「神統流道本の巻」(天之序、地之序、人之序)を示した。この頼定を神統流初代宗家とし、代々家伝として受け継がれてきた。」とある。
 この神統流は現代まで続き、その後、第16代宗家清光は、昭和8年(1933)、日本游泳連盟への加盟申請に当たって初めて、神統流の泳法を世に公開し、昭和10年(1935)に加盟承認を得た。現在は、黒田清恒氏が第19代宗家として神統流保存会の会長を兼務し、普及活動を推進している。
 
2 次のアドレスには、本家筋のみが掲載されています。※とくに「神統流沿革」と黒田氏系譜に留意される。
 
 
 <樹童の感触など>
 
 貴重な情報をありがとうございます。黒田頼満がインターネットの検索で出てくるような人物という認識がなかったので、これら情報で黒田氏研究への展望が大きく開けたようにも感じます。以下に、現段階での感触を記してみます。
 
 黒田頼満については、「山中氏世系」に黒田宗満の子のなかに追記的に記入されており、「黒田四郎左衛門尉、延元元年五月肥後(イに肥前)戦死」と記事がありますが、なぜ九州で戦死したのか、事情が分からなかったので、先の記事にはあげませんでした。
 貴ご教示の記事の「神統流沿革」には、黒田頼満について、「薩摩守護職、島津忠宗(第四代)の知るところとなり、小笠原長氏の推挙もあって、父宗清の命により、文保2年(1318)頼満十八歳の時、薩摩に下向したのが、薩摩黒田家初代である。元弘3年(1333)2 月薩摩守護職・島津貞久が、隠岐の後醍醐天皇の密勅を受けて、日向守護職を兼ね、筑紫の争乱平定を命ぜられた時、頼満は黒田郎党分幕紋130騎の精鋭を引き具し、貞久軍麾下に入る。更に、建武元年(1334)7月には少貳頼尚、規矩高政等の乱を平定して、翌 2年4月、足利尊氏東上の時、島津軍勢の精鋭を求めてきたので隅州清水城(現在の国分市・清水(キョミズ))本田郎党と共に頼満一統も尊氏軍に従い東上、5月には湊川に補木正成を敗死せしめ、新田義貞を京都に走らせた。 正平2年(貞和3年(1347))薩摩の島津貞久の危急が伝えられたので急ぎ西下し、貞久の為に転戦、正平12年(延文2年(1357))正月、大隅加治木の合戦に畠山直顕の軍を撃破したのを最後に、天授2年(永和2年(1376))七十五歳で生涯を閉じている。」(誤字修正済)とあるが、死亡年が少し異なります。
 
 薩摩藩士から明治期に立身出世して華族に列した黒田家が二家あり、総理となった黒田清隆の家と有名な洋画家黒田清輝の家があり、華族に列したときに宮内省に提譜した『黒田家譜』が現在、宮内庁書陵部に所蔵されていることは承知していたが、残念ながらまだ実見には至っていない事情にあります。鹿児島県立図書館に同様の内容の「黒田系図」が所蔵されているのですね。
 
 明治17年華族 伯爵黒田清隆(総理、枢密院議長。仲佐衛門清行の子
 同 20年華族 子爵黒田清綱(喜右衛門、嘉右衛門。枢密顧問官。清直の子で、甥の洋画家・帝国美術院院長黒田清輝〔清兼の子〕の養父
 
 黒田頼満の位置づけとその後裔
 (1)黒田頼満の後は、その子の「頼房−頼秀−頼長−頼重−頼広−頼季−頼宗−頼房、その弟頼定−頼綱−頼経、その弟頼詮……」と続くが、頼経・頼詮兄弟のときに戦国末期で島津義久に仕えており、江戸中期頃から黒田氏は「清」を通字としています。
 (2)黒田頼満は『尊卑分脈』には見えず、実際に近江佐々木一族の出かどうか、確認しがたい。鹿児島市本名町の稲荷神社(無格社)は、建武年中に領主黒田頼満が創建し、同家の崇敬が篤かったと伝える祭祀事情から見ると、赤松一族としてほうがよいかもしれません。別所氏の三木城址には、現在、上の丸稲荷神社が鎮座しています。
 
 (2011.9.10 掲上)

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