福岡藩主黒田氏の祖先


 
T 宗次郎様の調査・検討

1 福岡藩黒田氏は宇多源氏の流れか
 先日、大学図書館で姓氏家系関係の事典を調べたのですが、太田亮博士の著作を始め、どの事典も「福岡藩黒田氏は宇多源氏の流れ」とあり、家伝をそのまま鵜呑みにした内容ばかりでした。ただ、黒田如水の曽祖父にあたる高政については、本物の佐々木氏流黒田家の宗家に当たる京極系図には記述がないようで、その佐々木氏流黒田家も応仁の乱のころに活動した政光の代で絶えてしまったようです。このように断絶した同姓の名門に成り上がりの武将が系譜を接ぎ木する事例が多いことから、武家華族黒田氏は史料的にみても樹童様のいわれるように系図仮冒と見た方が自然だと思われます。
また、佐々木氏を代表する家紋である目結紋を用いた形跡も見られず、一貫して元主家である赤松支流の小寺氏と同じ藤巴紋を用いたことから、主に巴紋を用いた赤松氏との繋がりがあると見た方が比較的落ち着きがいいように思います。
 黒田如水から数えて十三代目の子孫でもある漫画家の本山一城氏も公式ホームページである「黒田武士の館」で、黒田家の重臣は播磨加古川付近にいた古来の豪族がほとんどで、加古川の流域に多可郡黒田庄があることから黒田氏もここの発祥であり、よって佐々木一族という系譜は疑問であるという見解を述べられていました。

2 広峯神社社家の黒田氏との関連性
 上記に加えて、出典がフリー百科事典なので信ぴょう性が問題なのですが、少し気になる記事を、播磨の広峯神社に関してインターネットで見ました。

「・・・・これら社家の他に、「手代」と呼ばれる当該社家に仕える神職の家が五十家程度あった。

 手代は一つの社家が数家を抱え、社家の禁裏への祈祷や檀那廻りの際に随行する他、平素は広峰山内にある社家所有の畑を耕作して生活していた。
  当社には、司馬遼太郎の歴史小説『播磨灘物語』にも採り上げられている黒田重隆(
黒田官兵衛の祖父)にまつわる伝説が伝わっているが、江戸時代以降、この手代の家の中で「黒田」を苗字とする家があり、家紋が福岡藩主黒田家と同様の「藤巴」であること、及びこの家の男子の諱(いみな=本名)や通称に「重隆」の「隆」の字や「官兵衛」の「官」の字を用いた者があることを確認できることから、黒田重隆の血統の家である可能性が高い。」
                                        (「ウィキペディア」広峯神社より) 
その黒田重隆の男子としては嫡男の職隆をはじめ小寺高友、井手友氏、松井重孝が挙げられますが、それ以外の男子については伝わっていないようです。

 広峯神社にはこれの他にも家伝の目薬といった黒田家にまつわる様々な伝承が残っており、関係性の深さからも、永正年間に近江から流浪し、備前、ついで播磨に土着したという播磨の中では比較的新興の一族であるいう家伝も怪しくなるところです。
また、上記の広峯神社の手代となった黒田一族が本当に福岡藩黒田家の早期に分かれた分流ならば、通称の「官」の字は貴HPの和邇氏概観にも掲載されている赤松氏の古い同族で赤松家臣となった美作菅党に何か関連があるのかもしれず、いっそう赤松氏との関係性が深いことを暗に示しているように推測できます。
貴HPの和邇氏概観には、山中鹿介を輩出した山中氏と黒田氏は同族であると記載されておりましたので、山中氏に関しても大学の史料を調べてみるつもりです。
  (宗次郎様より)09.11.2受け
 

  U 樹童の感触・検討など
 
 ご指摘のように、各種の姓氏家系関係の辞典類や刊行物では、福岡藩主家黒田氏について、近江佐々木一族の黒田氏の流れだとするもので、ほぼ一色といえますが、インターネット上では、これに疑義を唱える説もいくつか見られており、この場合には播磨の赤松一族の出だとすることで、ほぼ一致するようです。だから、この二説を中心に福岡藩主家黒田氏の出自について検討してみます。
 結論から先に言うと、近江佐々木一族の黒田氏の流れではないことは確かで、播磨の赤松一族の出だとみる見方に大きく偏りますが、中興の祖的な存在である黒田高政より前の系図は不明であって、きちんとした系図復元には至らないことに留意されます。したがって、以下に記すのも一つの試論であることを先ずお断りしておきます。(以下は「である体」
 
 1 近江佐々木一族の黒田氏の流れ
(1) 黒田官兵衛孝高を出した黒田氏は、多く佐々木一族の出とされるが、苗字の地は近江国伊香郡黒田村(長浜市〔もと伊香郡〕木之本町黒田)であって、鎌倉時代末期に、佐々木京極佐渡守満信の子・四郎左衛門尉宗満が、当地に住んで黒田を称したのが始まりとされる。
 『尊卑分脈』によれば、黒田宗満は延文二年(1357)に七九歳で死去したとされるから、南北朝前期頃に活動した人であった。同書では、宗満の後はその子の代に二流に分かれ、@「高満−満秀−高清」、A「宗信−高教−高宗」とそれぞれが続いている。高清・高宗については、ともに「八幡社参記」の応永十九年八月十五日の記事に見えている。

 これらの後については、管見に入ったところであげると、中田憲信編『諸系譜』第8巻などでは、@系統は、高清の後はその子の「刑部少輔高政−高重−行高−満高−高教」で、最後の高教は六角承禎に仕えたとされる。Aのほうが黒田嫡流であったようで、備前守高宗の跡は弟の備前守高信が継ぎ、その子の兵庫助清高に子がなかったので、京極宗家から四郎政光を迎えたものの、京極家督を巡って弟・政経らと争い、折からの応仁の乱の時に西軍に走って政経らと対立した。それも、文明四年(1472)には享年三四歳で死去し(『寛政譜』等に享年二四歳説があるが、三四歳が妥当か)、その子に高国や貞長があったが、次第に黒田氏が衰えていった。また、Aの支族に大鹿氏があり、高教の弟の大鹿六郎・左馬助信長が初代であって、その子の高長、更にその子の信秀まで系図に見える。
 室町時代には、黒田氏嫡流は宗家京極氏から自立して幕府奉公衆になった名門であり、永享五年十月には奉公衆として黒田備前守高光(年代的にみて、備前守高宗に当たるか)が見え、将軍義教に対する献上物の件で不興を蒙っている。備前守高光は「永享以来御番帳」にも、佐々木黒田備前守高光として見える。

 近江黒田氏の活動は以上のようなものであるから、福岡藩主家の中興の祖とされる黒田高政は、信頼できそうな近江佐々木氏の系図のなかには見えないとしてよさそうである。
 
(2) 後世に手が加わった系図ではないかともみられるが、近江佐々木氏の系図につなげて黒田高政をあげるものもないではない。例えば、上記の京極政光の子としてあげる系図や清高の伯父の高宗の子にあげる系図があり、『黒田家譜』の「源姓黒田氏系譜」などには後者の形で記されていて、こちらのほうの所伝が多そうである。しかし、中興の祖・高政は十五世紀後葉から十六世紀初め頃に活動した模様であり(後述)、年代的にみれば、政光の子とする方が自然だが、政光の死亡年齢と高政の備前福岡移遷から考えると、ほとんどありえない話である。もちろん、高宗の子とするのも、高宗が弟の高信に家督を譲った経緯から考えても、ありえない。
 
 2 播磨・備前で活動する黒田氏
(1) 中興の祖・右近大夫高政が備前国邑久郡福岡(岡山県瀬戸内市長船町の福岡)に遷住したことは確かなようでもあるが、疑問がないでもない(後述)。その年代と遷住の経緯については諸説あり、例えば、明応元年(1492)八月に六角高頼が将軍家の命に背くことがあって、高政がこれを諫めたことから、その功により備前国邑久郡のうちに領地を賜って福岡に移住した(鈴木真年『華族諸家伝』)とも、永正八年(1511)に山城国船岡山の戦いに参陣したときに、軍令に背いて将軍足利義稙の怒りを蒙って浪々の身となった(『黒田家譜』)、ともいう。しかし、このどれも裏付けのない所伝にすぎない。近江北部から備前あるいは播磨への遷住は不自然であり、もともと播磨に在って、嘉吉の乱で赤松一族が衰勢のなかで、仮に備前に行ったとしても一時期だけであって、赤松政則の赤松氏中興などで、また播磨に戻ってきたとみるほうが自然である。
 高政は備前守重宗とも見えるが、重宗自体は、高宗と高政の子の重隆(重職)とをつなぐ名前として考案された可能性も考えられるから、中興の祖の名前は高政としておく。高政の後は、その子の「下野守重隆(重職)−美濃守職隆−官兵衛孝高」と続けられるが、官兵衛孝高(1546〜1604)の父の美濃守職隆(所伝によると、1524〜1584)は姫路の小寺藤兵衛政職に属してその老臣となり、主君から許されて小寺を名乗った。このためか、職隆は小寺加賀守則職の子で、官兵衛孝高はその養子とする書(「普光院軍記」など)もある。「赤松盛衰記」には、小寺藤兵衛職隆、入道して安賀の玄海の婿養子が官兵衛孝高であったとも記されており、この小寺氏の養子の場合には、一般に祖父とされる重隆(同、1508〜60)が実父とされるものか。この辺の関係は、『姓氏家系大辞典』にも見えるが、一応、通行するところに従っておく。
 
(2) ところで、播磨国多可郡には黒田という地があり、そこに赤松一族とみられる黒田氏が起こった。赤松氏関係の史書には、赤松の一族郎党としていくつか黒田の名前があげられており、「赤松盛衰記」巻之中には赤松満祐の与党として、飾東郡御着山の城主として黒田刑部太郎直隆の名もあげられる。すでに嘉吉の時点で、黒田氏が播磨に在ったことが知られる。
 また、嘉吉の乱の余波で、享徳四年(1455)五月に、山名宗全の軍勢に攻められて、備前の角居島で自殺した赤松常陸介則尚に殉じ、一族郎党が同時に自害したなかに黒田宗明という者もいた。

 なお、インターネット上の資料に拠るが、黒田庄町黒田の区有文書のなかに「黒田氏系図」があり、明徳二年(1391)に内野合戦に参加した黒田重勝を初代として始まり、その子の「重康−光勝−重貞−重昭−重範−重隆」と続くとのことであるが、重隆より前の歴代は裏付けがなさそうである。ただ、二代目の重康の妻が比延掃部助頼兼(後述)の妹とされるから、「重範−重隆」という親子関係は疑問としても、これが古来の黒田氏(一族支流)であった可能性もあるのかもしれない(別途検討)。
 
(3) 断片的な黒田氏関係の系譜資料からの模索
 まとまった系譜資料が播磨の黒田氏にないため、いくつかの断片的な系譜資料からの模索を試みてみる。その場合、中心的に考えてみたいのは、豪商鴻池家の系図である。明治期に鈴木真年が採集・整理した鴻池家の系図では、尼子氏の忠臣として名高い山中鹿助幸盛を祖として、その孫の善衛門正成が鴻池家初代になったと伝えるが、その系図が『百家系図稿』巻19に「鴻池家系稿」として所収されている。
 それに拠ると、山中鹿助の祖先は播磨の黒田氏から出ているといい、近江佐々木一族の黒田宗信が赤松円心に属して播州多可郡のうちに三千五百貫を領して、上比延村の黒田城に居したというのである。近江の黒田宗信が播州多可郡に居たわけがないから、誰か別人の置換えがあったとみられるが、この系譜では、黒田宗信の子に則高・高秀・高誠の三人の男子と二人の女子があげられる。則高の兄弟姉妹が、赤松一族萩原氏の女性(則村の弟・光則の娘)を母として、赤松一族と通婚・入婿していた事情(高誠が櫛田氏の養嗣、二人の姉妹は広瀬・広岡氏の妻)、赤松則祐・義則・貞範に属した事情があって、これらはどう見ても赤松一族であったことを示している。福岡藩の家臣には櫛田氏がいた事情もある。
 比延山城の初代城主は比延掃部助頼兼ともいわれ(本郷弥三郎とも称したようだが、両者の同一性は不明)、その弟に黒田四郎左衛門尉頼満がいて、延元元年(1336)五月に死去したと伝えるから、この頼兼・頼満兄弟が則高ら兄弟の先代にあたる可能性もある。赤松一族には本郷氏がおり、赤松則祐の甥に本郷信濃五郎直頼(七条範資の子)が系図に見える。しかし、直頼の兄弟の広瀬美作権守師範及び広岡刑部少輔則弘は、黒田則高の姉妹を各々妻としているから、むしろ本郷弥三郎頼兼の跡継ぎが本郷直頼なのであろう。そうすると、黒田則高の父は黒田頼満かその兄弟とするのが自然となろう。黒田頼満らの先祖は不明であるが、名前などからみて、赤松頼範の弟の別所頼清の子の喜多野二郎頼遠ではないかと推している。

 黒田則高の後は、その子の「政宗−宗政(その弟に宗明)−治宗−治重−治高−幸隆」と嫡流は続き、最後の黒田右兵衛尉幸隆は別所安治・長治親子に属し、慶長八年に五七歳で没した(1547〜1603)と見える。
  ※黒田幸隆は、中田憲信編『諸系譜』第五冊の「別所氏家譜」に見える。別所安治の従妹にあたる女性が、「多可郡比江山黒田城主黒田右衛門佐幸隆」の妻か母か(この続柄が不明)にあたるという記事であり、播磨の黒田氏嫡流は戦国末まで比江山の黒田城主であったことが知られる(09.11.18追記)

  注目すべきは、治重の弟妹として、黒田右近允高政妻と山中弾三郎貞幸が見えることである。山中弾三郎貞幸が山中鹿助の祖父にあたる者である。治重とその弟妹の三人については、治重の母が「黒田左衛門尉宗政女」とあり、治重の父・治宗には「初山中志賀之助宗高」という記事があるから、この辺の親族関係が混乱しているように思われる。これを整理してみると、治重ら三人の父が山中志賀之助宗高、母が黒田左衛門尉宗政女ということであろう(この宗高の名が転訛して近江の黒田高宗に結びつけられたものか)。宗高の父とみられるのが、名前と世代から考えると、黒田左衛門尉宗政の弟・次郎左衛門尉宗明という可能性があろう。
 この次郎左衛門尉宗明こそ、先にあげた享徳四年(1455)に備前の角居島(鹿久居島岡山県備前市に属)で自殺した黒田宗明であった。宗明の孫の高政が備前国邑久郡福岡に在った事情は、嘉吉の乱で零落して播磨から出ていたという事情だったとみられる。先祖高政の住んだ福岡の地名は、筑前に移されて城下町の名前となった。高政の子の源三郎定隆は備前にあって宇喜多氏に仕え、その子孫は美作国久米郡にあった(『姓氏家系大辞典』)。
 
(4) 播磨に移住した重隆は、広峯神社の御使と組んで家伝の目薬の製造・販売を行い、得た財を低利貸しして財をなし、土豪として成長を遂げていったという経緯からは、黒田一族が広峯神社に入る可能性も考えられる。
 
 以上、福岡藩主黒田氏の祖先の系譜と行動について、もっとも自然な経緯を考えてみたものである。資料が乏しいうえに、どこまでが信頼できる史料かどうかの判断もつきにくい面もあるため、新しく史料が見つかった場合には再考の余地が十分あるが、少なくとも近江の佐々木一族の出だという通説は、まるで根拠のないものであることは明確化したものと思われる。
 
  (09.11.4 掲上)



 <宗次郎様からの返信> 09.11.7受け

  黒田氏に関して太田亮博士の『姓氏家系大辞典』をもう一度じっくり見直したところ、太田博士も、播磨黒田氏は一応家伝通りに宇多源氏に分類されていましたが、多可郡の黒田は古くからの文書・史料にも確認できる地名であるため、近江の黒田村とは何の関連性もない。もし黒田家が播磨発祥の豪族ならば、佐々木一族との関係はないという見解でした。
  また、『黒田家舊()記』という書物のことも掲載されており、そこから抜粋したものとして「姫路城は元々黒田氏の物であり、戦の際には五着(御着)まで押し込まれることもあった」という記事も挙げられていました。黒田家は重隆の代に姫路城の「城代」として入ったはずなのに、「元々」という言葉を使って、さも所有していたかのように表現しているのか疑問です。どうも暗に黒田家が播磨発祥であることをほのめかすように感じられます。
  さらに、黒田家の主な家臣の名字を見てみると、やはり本山氏の指摘通り、播磨の豪族が非常に多かったようでした。樹童様の挙げられた櫛田氏を始め、栗山大膳を出した栗山氏、櫛橋氏といったところが赤松支流を称しており、黒田家も赤松一族であることを示しているようです。
  ちなみに旗本名鑑も見たところ、貴稿にも少し名が登場した黒田高清の後裔を称する幕臣の黒田氏がいました。こちらは大名黒田家と違って替え紋に四つ目結紋を用いていましたが、本紋はやはり藤巴でした。これを見ると黒田家の家紋の藤巴は小寺氏由来ではなく、元々赤松氏の代表紋である巴紋をモチーフにした藤巴紋を早期から持っていたものと考えられます。

  気になっていた山中氏についても姓氏家系大辞典で調べてみましたが、鹿介幸盛の出雲山中氏は、なぜか後裔の鴻池家ともども橘氏に分類されていました。おそらく橘紋を用いていたことと、主家の尼子氏が近江発祥であることに合わせて、近江人の称橘姓山中氏に由来していると太田博士が判断したのかもしれません。しかし通称の共通性から見ても出雲山中氏はやはり黒田(山中)志賀之助宗高の子孫である方が私も自然だと思います。(なお、黒田山中氏とは別の赤松氏族山中氏が掲載されていましたが、赤松則祐の末裔を名乗る広島藩家臣のものでした。
 今回の樹童様のご意見と文献調査で、私自身も、改めて黒田氏は赤松一族の可能性が高いという認識を持つに至りました。

  最後に、全くの余談ですが、昨年、姫路を訪れた際に先代の黒田家当主だった故・黒田長久氏の個展が開催されており、立ち寄ったところ、係の方と黒田家の先祖について話をする機会がありました。私は、宇多源氏の紋を使っていないことと、赤松一族由来の巴紋にちなんだ藤巴紋を使用していたことから家伝と違って赤松氏の流れではないでしょうかと話を展開し、このような説もあるのですねとのお言葉を頂きました。今思えば「変わった人だな・・・」と思われていたかもしれませんが。なお、私が訪れる前日には現当主の長高氏と御家族が訪れていたとのことでした。



 (樹童の感触など)

 大名家の黒田氏は、近江の佐々木一族の出ということで安土の沙沙貴神社を崇めていたことが知られますが、本来、異なる祖神であったはずであり、先祖に対して問題が大きいのではないかとも感じます。

 近江の黒田氏は、佐々木一族の出ではなかった元来のものがあり、鈴木真年は『苗字尽略解』で「黒田 角朝臣姓、近江国高島郡人」と記しています。これは、実際には角臣同族の都努山君(角山君)の後裔とみられます。
 近江番場で北条仲時とともに自害した京都六波羅探題関係者のなかに「黒田新左衛門尉俊保、黒田次郎左衛門尉憲満」が蓮花寺過去帳に記載され、この両人は『太平記』のなかにも見えます。太田亮博士は、かれらを佐々木氏流とみるが、命名が佐々木一族とは異なるので、別族とみられます。その場合、近江古族の流れか、あるいは記事では少し後ろに「竹井・寄藤・皆吉・浦上・糟谷・櫛橋」などの諸氏が続くので、播磨の黒田氏のほうではないかとみられます。佐々木一族のほうは、「佐々木黒田判官」(上記の宗満の子・左衛門尉高満にあたるか)が『太平記』に見えます。
 もっとも、播磨には明石国造後裔で、大和赤石連の一族に黒田氏があったというから、これも一筋縄ではいかないことになります。しかも、如水孝高の母は明石正風の娘とされる。

 このほか、伊賀国名張郡から起こった大江姓と称する黒田氏や但馬国の出石神社の社家の黒田氏、遠江から起こった橘姓の黒田氏(丹党中山氏から養嗣を迎え、後に上総久留里藩主家になる)、鹿児島藩士の黒田氏(華族となった清隆や清綱の家)など、各地に黒田氏があるので、このなかでの識別に留意する必要が感じられます。

3 黒田家重臣の栗山大膳の系譜
 宗次郎様ご指摘の栗山大膳利安・同利章親子を出した栗山氏も、たしかに赤松支流で、飾磨郡栗山邑に起こりました。
 その系譜は、『姓氏家系大辞典』クリヤマ条第3項に見えますが、太田亮博士の採録したものはやや不完全であり、管見に入っているかぎり、良本は愛媛県立図書館に「栗山家系図」として所蔵されます。私がかつて写してきたメモは、やや不完全なものですが、上記クリヤマ条第3項と対比して示すと次のような諸点に留意されます。

 (1) クリヤマ条では、栗山家の起源を「赤松三左衛門尉光範−三郎師範−栗山備中守利宗」とするが、「栗山家系図」では、赤松則景の弟の「宇野新大夫則連−同孫太郎為頼−同孫太郎(刑部少輔)景頼−同左衛門次郎頼定(元弘三年摂州摩耶合戦討死)−同左衛門太郎宗清−栗山備中守利宗(延元元年摂州湊川で有戦功)」と記される。
 (2) 栗山備中守利宗以降では、その子の「次郎左衛門利清−孫太郎利忠、その弟・善右衛門利貞(仕赤松満祐)−次郎左衛門顕利」とし、この顕利は、享徳四年(系図には康正元年と記)五月に赤松常陸介則尚の一族郎等が備州で自害をとげたと記されている。このときに、黒田宗明が同所で自害したことは先に述べたとおり。
 (3) 顕利の子の孫左衛門利信は、康正の乱の時には幼少で、従者に連れられて伊予へ下向し、その子の覚左衛門利行(法名浄覚)の子孫がこの系図を伝え、以降につながっている。
 (4) 覚左衛門利行の子孫については、メモをとっていなかったが、この子孫に栗山大膳(備後守)利安が出たはずである。利安(1550〜1631)は、黒田孝高・長政親子の重臣で一万五千石を与えられた。栗山大膳利章は、父・利安の死後、二代藩主忠之を家老として補佐したが、後に忠之と対立し、主君忠之に謀反の企てがあると幕府に訴え出たものの、言い分が通らず、盛岡藩に預けられた。

 この系図に見えるように、黒田氏と栗山氏の先祖が一緒に備前の角居島で自害している経緯は無視できない関係だと考えられる。

  (09.11.8 掲上。11.9.9、12.2.17補訂) 


 <追補>

  東大史料編纂所に所蔵の「赤松系図」に興味深い記事が見えますので、紹介しておきます。同系図は、原蔵者が赤松豊右衛門(兵庫県気多郡国保村) で、元和2年(1616)8月の奥付がある。
  それに拠ると、十五世紀後半の応仁・文明頃の赤松政則の重臣として、筆頭の備前三石保石堂城主の浦上美作守紀則宗の次ぎに、播磨国多可郡黒田村多田城主として黒田右近大夫源高政、その次に衣笠、石見、中村、間島、平井の諸氏があげられ、七騎とされている。
  次の代の赤松政村の重臣としては、石堂城主浦上村宗に次ぎに御着城主黒田下野守源重隆が見え、以下は衣笠・平井で四騎とされる。
  さらに、赤松義祐の代には、宇野・別所・佐用・小寺(伊賀守政職・御着城主)を四伯家として、その下の諸大夫に姫山城主小寺美濃守職隆及び倅官兵衛尉孝隆(同別府一郷住)、続いて浦上宗景、宇喜多直家・神免宗貫などが続いている。

  この記事が正しければ(まだ確認がとれているわけでもないので)、赤松氏没落のときに黒田氏も没落し、政則の中興で黒田氏も復興したことが想起される。

  (2010.10.12 掲上)



 さらに  荘厳寺本「黒田家略系図」についての試論  をご覧下さい。

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