諏訪社の奉斎氏族

(問い)今回、ご教示願いたいことが2つあります。
 一つは、信濃の上諏訪神社大祝の神氏についてです。現状の私の知識では、上社初代大祝有員以前から、上社に神氏の先祖がいたと判断できる材料が見つからないのです。特に「須羽君」についての事情や原典がまったくわかりません。HP未掲載の三輪氏系譜のほうで登場する名前なのでしょうか?
 三輪→神(みわ)と判断しうる系譜上の根拠、また、有員以前の神氏についての資料があれば、ご教示ください。
 
 「長髄彦の後裔とその奉斎神社」も非常に興味深く拝読させていただきましたが、知識不足ゆえ納得しきれない面が残ってしまいました。ひとつ書き添えますと、諏訪には、元は一社だったと伝わる「手長神社」と「足長神社」が諏訪大社の境外摂社としてあり、祭神はそれぞれ手摩乳、足摩乳なのですが、なぜか先住神であるとの伝承があります。
あまり関係ないですか?
 
 もう一つは、下諏訪神社武居祝、武居氏(のち今井氏)についてです。前提として、金刺氏と他氏との系統の混淆が激しいことは承知しています。近世作の武居祝系図以外の手段で中世以前に遡ることが困難なことも承知しています。
 ゆえに、お願いしたいのは、よその系譜に武居祝家の者が入り込んだという痕跡探しです。特に神官家同士の出入りは多々あるでしょうし、一例として木曽御嶽神社の神官家に入ったことだけは把握しています。
 しかし、私に、その先の探索はお手上げ状態なのです。特に気になっているのが、「武井神社」ほか多くの諏訪社にぐるりと取り囲まれている水内の善光寺周辺、中でも武居祝との関係が伝承として伝わる中衆の若麻績氏です。となると、若麻績氏も当然関わってくるのですが……。

  (L.Frog様より、10.1.22受け)

 (樹童からのお答え)

 記述の基礎
 『古事記』に見られるように、諏訪地方を中心に信濃国には上古から諏訪神・建御名方命の後裔と称する氏族・諏訪神族が繁衍していましたが、諏訪神族の入部以前から当地にあった洩矢神の後裔と伝える氏(神長官守矢氏)もあり、これらに加え、崇神朝に信濃北部に入った科野国造一族があって、これら諸氏がみな、諏訪神奉斎に関与し、系譜的にも多くの混淆があったようです。本来、三輪一族の諏訪氏(神氏、神人部宿祢氏)と皇別・多氏族系の科野国造一族という異系統の諸氏族が同じ諏訪神を奉斎するのは不思議な感じもありますが、狭い地域のなかで長期間、多くの混淆・通婚・養猶子があって、女系まで含めると、これら氏族は古代からほとんど同族化していたということなのでしょう。
 こうした諸事情で、ご質問も多岐にわたりますので、お答えはきわめて難解ですし、長くなることが予想されますが、現段階での一応のお答えを、試論として次ぎに簡潔に記してみました。大掴みで書いて、個別に論拠をあげていないので史料出典も含め、分かりにくいかも知れませんが、系図史料は次ぎに掲げるものに拠ります。
 諏訪氏一族関係の系図については、前田家本『神氏系図』や『諏訪史料叢書』のほか、地元の飯田好太郎・延川和彦という研究者の諸著作(『修補諏訪氏系図』『諏訪史料名家系譜』で、県立長野図書館に所蔵前者は国会図書館でも閲覧可能)や中田憲信(『諸系譜』巻13・28や『好古類纂』に所収)などが上古代からの系図を残しており、種々参考になります。それでも、金刺氏関係はかなり問題が大きいものしか残されておりません。また、以下の記述の詳細は、宝賀寿男編著の『古代氏族系譜集成』も参考にご覧下さい。
   (以下はである体で記します
 
1 上諏訪社大祝の神氏の流れ
 諏訪神・建御名方命の一族は、『古事記』にいう天孫降臨の時ではなく、神武の大和侵攻の時にこれに抗して敗れ、東海道の参・遠地方などを経て信濃の諏訪地方へと遷住したが、その子神たちは多く、名前が様々に伝わるものの異名同人なども判別できず、系譜の世代関係を明確に把握することができない。従って、その子の伊豆早雄命(片倉辺命と同神か近親。諏訪等への東遷の主導者だったか)からその四世孫にあたるとみられる会知速男命までの歴代は不明である。会知速男命の娘(会津比売)は崇神朝に大和から信濃北部に来て科野国造に任じられた武五百建命(多臣の一族)の妻となり、その間の子の健稲背命からは科野国造の一統がつながるが、その後も洲羽(諏訪)・科野(信濃)の両系統の通婚が多く見られる。
 一方、会知速男命の子の真曽我男命から洲羽国造の流れが始まり、その子の武国彦命(建大臣命)が景行天皇朝に洲羽国造に任じられたと系譜に見えるが、「国造本紀」にはこの関係の記事が見えない(同書では、須羽国造の痕跡が窺われるが、上州の那須国造と混同されて、記事が消滅したか)。
 武国彦命の孫とみられる武隈照命は、科野国造第二代健甕富命(健稲背命の子)の娘を娶って武背男命を生んだが、健甕富命が比較的早い時期に亡くなった模様で、その子の武諸日命は武隈照命に養われたと伝える。
 洲羽国造系統では、武背男命の子の武河隈君が洲羽君姓を負ったと伝え、その二,三世孫にあたる倉見君は用明朝に敵人に害されて洲羽嫡流の男系が絶えたので、その娘が科野国造麻背君(武諸日命の五,六世孫で姓は金刺舎人直)に嫁して生んだ外孫の乙穎(神子、熊子)が幼少にして洲羽氏嫡宗を継いだ。乙穎は、始祖の建御名方命が化現(影向)して脱いだ御衣を着て「御衣着祝(御衣木祝。みそぎほうり)」となり、社壇を諏訪湖南の山麓に設け大神や百八十神などを祀った。これが諏訪大祝の始まりで、六世紀後葉の用明天皇二年三月のことだと伝える。この辺の事情は、『田中卓著作集』第二巻所収のいわゆる「異本阿蘇氏系図」にも見えており、「諏訪大神大祝」として、「乙穎−隈志侶−乙兄子」の三代が記載される。
 乙穎の子孫は大祝を世襲して続き、庚午年籍のとき(670)に神人部直姓、宝亀三年(772)には神人部宿祢姓を負ったが、九世紀後半になって大祝清主に男子がなく、家が絶えたので、この跡を外から入って有員(武麻呂、武員とも同人か)が継いだとみられ、この後は血筋が絶えることなく近世まで及んだ。有員が用明朝の乙穎と同人化して御衣着祝と伝えるのは訛伝であり、中興の祖であったことに因むか。なお、洲羽君から神人部直にかわる過程で、洲羽直(須羽直)という時代もあった可能性があり、欽明朝頃の物部尾輿連の従兄弟が須羽直の女を妻とした記事が「天孫本紀」に見える。
 有員の活動時期は確認しがたい点もあるが、仁和二年(886)に有員が死んで次の大祝が仁和三年に任じたという伝承があるから、九世紀後半の貞観期頃ではなかろうか。その実系も不明であるが、清主の先の二代前から見える別名が、実際には有員の実系祖先ではないかとみられ、そうした場合には、「豊麻呂−生足−豊足−有員」という系譜になるものか。有員の祖系は、おそらく洲羽君の支流ではないかとみられ、上記倉見君の従兄弟の畔野君(黒野)の流れではなかろうか。この一系でも御枝が庚午年籍のときに神人部直姓を負い更に宿祢姓にかわって続いていた。
 神長官守矢祝も畔野君の流れと伝え、御枝の孫の山麻侶に「神長官祖」という譜註が見える。武麻呂の系には別伝があり、科野国造武諸日命の子の健守矢命の子の檜樹君の後裔だともいう。いずれにせよ、有員は神長官守矢祝に関係する一族から出た模様である(註)
(註)『諏訪史料叢書』に所収の神長官守矢氏の系図では、建御名方命の子の片倉辺命の子孫だといい、片倉辺命以降の系譜を記すが、本文の系譜と大きな差異がある。それでも、有員の二男の時実(もと有実)が守矢氏にも入ったと守矢実顕原蔵「神長官系譜」に見えるから、これも有員の出自を示唆するものかもしれない。
 
 なお、諏訪の神人部宿祢姓諸氏は中世には強力な同族武士団を形成し、「神党」「神家党」「諏訪神党」とも呼ばれたが、大和国磯城郡の三輪氏との同族関係は、その顕著な竜蛇信仰(竜蛇神奉斎)から分かるし、三輪氏(三輪君、大神君、大神朝臣)の同族には神・神部・神人・神人部などの姓氏が見られることでも共通する。『和名抄』では諏訪郡に美和郷が見え、延喜式内社には水内郡の美和神社があって、『三代実録』に「信濃国水内郡の三和・神部両神」と見え、現在の長野市三輪に鎮座する事情もある。
 これらのことから、始祖神の建御名方命が三輪の大物主神(大己貴神とは別神で、その子孫)の子とする系譜所伝は信頼してよいと考えられる。
 関連していえば、「手長神社」と「足長神社」で祀られる手摩乳及び足摩乳は諏訪神の祖・大己貴神の母系先祖と伝えることで、諏訪上社の境外摂社として近隣にあるが、古代から下桑原郷の産土神であり、桑原には諏訪神氏の一族が居たから、それらにより奉斎されたものとみられる。
 
2 下諏訪社の武居祝、武居氏
 下諏訪社の大祝を世襲したのが科野国造の流れであり、乙穎の兄・倉足の子孫であって、姓氏はもと金刺舎人直で、庚午年籍の時に金刺直、ついで延暦時に金刺連、延喜時に金刺宿祢とかわったと伝える。下諏訪社の大祝が何時から始まったのかは不明であるが(上記「異本阿蘇氏系図」には、倉足からその曾孫で諏訪郡領で庚午籍で金刺直姓を負ったと註記される魚目、その子の県主までの五代が記載されるが、下社祝の記事は見えない)、『大同類聚方』に見える諏訪大祝白虫は下諏訪のほうの大祝だと考えられるから、奈良時代後期頃からあったものか。白虫より前の下社祝としては、鋤麿、子虫の名も延川和彦著『修補諏訪氏系図』に見える。
 下社大祝家の現伝の系譜は断続的であり、十世紀初めの延喜時に金刺宿祢を賜姓した下諏訪大祝の貞継の子・益成から頼朝の時の大祝で『東鑑』にも見える諏訪大夫盛澄までの世系が不明である。『諏訪史料叢書』には、今井安良氏蔵の「諏方下社武居祝系図略」が所収されるが、古代部分の記事については疑問な点が多く、ほとんど参考にもならない。
 鎌倉初期の金刺盛澄は『諏訪大明神画詞』に「下宮祝金刺盛澄」と見え、弓馬芸能に比類なき腕前であったと記されるが、その後についても混乱があって確かなことはよく分からない。最後の下社大祝が金刺堯存とされ、天文十一年(1542)に武田信玄により滅亡させられた。
 これを再興させたのが堯存の叔父だという善政(あるいは、その子の豊政)とされ、武居祝兼下社大祝となり、これが近世の武居祝(大祝なき時期には五官祝の筆頭)の祖であって、今井氏を名乗った。なお、鎌倉期に北条氏の身内人として諏訪氏が多く見られるが、これは諏訪盛重入道蓮仏(金刺盛澄の子)の子孫一族であって、下社の金刺一族から出ている。鎌倉出仕の諏訪氏が本姓を称するときに「金刺」と号したことは、除目経文奥書等に見られる。
 
 下社の別当家も金刺氏であり、上社大祝有員の弟の金刺宿祢有範を祖とすると伝えるが、有員と有範を兄弟とする点については、年代等で疑問が大きい。有範は金刺宿祢貞継の子孫であろうが、その間の系譜も大祝家との関係も明らかにできない。
 この有範の後裔から出たと伝えるのが、木曽義仲の郎党で斎藤別当実盛を討ち取ったことで名高い手塚太郎光盛であり、その逸話は『源平盛衰記』等に見える。手塚光盛の子の光家は武居大祝になったと伝え、その子の重晴は木曽御獄山禰宜となったといわれる。また、光盛の従兄弟の盛賢は武井神次郎と号し、武井祝・上県介と見えるが、この系統は室町期には武蔵国玉井に遷住して深谷上杉氏に属して戦国後期まで至った。
 
3 若麻績部君氏
 善光寺に関与した若麻績部君氏は毛野氏族に出て、諏訪氏族や科野国造族とは別系である。善光寺別当初代の若麻績部君東人(いわゆる誉田善光)は水内郡誉田里の住人と伝えるが、東人からの略系は伝わっている(『善光寺史研究』に所載の「善光寺本願系図」)。この別当家は九世紀頃に毛野同族の丈部氏に男系が変わり、十二世紀中葉には清和源氏の崇徳院判官代村上為国の子息を婿に迎えて栗田氏を称し、善光寺と戸隠の両別当を世襲した。
 若麻績部君氏の先祖がどのように上毛野君から分れたのかは不明であり(毛野氏族の系譜の中でどのように位置づけるのかは不明)、諏訪氏や科野国造一族との関係も不明である。ただ、上毛野君氏の実系は、崇神天皇の後裔という皇別ではなく、海神族系の三輪氏族からの分岐であるから、諏訪氏族に通じるものがあり、『善光寺縁起』によると、大和三輪出身の三輪時丸が善光寺に参詣して、そのままこの地に止まったということで、当地を三輪と称したとも伝える事情にもある。
 
  (10.1.28 掲上、1.30追補)
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