※ 掲示・応答板の総目次 |
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07.4〜09.7の掲示・応答板の内容は、次のとおりです。 □ 出雲の牛尾氏 □ 大江政国について □ 清和源氏を称する幕藩大名の森氏 □ 讃岐馬場氏のルーツ □ 武家華族溝口氏の先祖 □ 中山城山とその祖先 □ 清和源氏多田一族関連で能勢氏と下間氏 □ 長髄彦の系譜に連なる氏族 □ 讃岐のまなべ氏のルーツ □ 清和源氏多田氏及び源経基の子など □ 源氏将軍と比企一族 □ 山辺禅師頼尊の末裔と師長国造一族 □ 大鹿氏と伊勢氏 □ 辛島氏の系譜 □ 諏訪神族と越後川西町の星名家 □ 財閥三井家の出自 □ 武甕槌神の実体 □ 物部氏の始祖と初期系図 □ 寺倉氏 □ 華道家元の池坊氏 □ 肥前の高木一族 □ 相模の三浦氏の出自 □ 越後の小出氏と諏訪神社 □ 豊後の帆足氏 □ 岩城国造奉斎の大国魂神社 附. 諸国の大国魂神 □ 信濃小出氏一族の末裔 ※ 過去の掲示・応答板の総目次 |
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□ 出雲の牛尾氏
(樹童からのお答え) 牛尾氏は豊後や下総にもおりますが、これらとは別族で最も著名なのは出雲の牛尾氏であり、系譜は信州諏訪一族の中沢氏に出ています。出雲の三沢氏一族のなかに見えるのは、この牛尾氏と養猶子関係で名乗ったものとみられます。牛尾氏について詳しくは、出雲の牛尾氏と三沢氏 をご覧下さい。 (09.7.21 掲載) □ 大江政国について
(樹童からのお答え) 大江政國は平安後期の中下級官人で、掃部頭大江佐国の子と推されますが、大江氏の系図には見えません。詳しくは、大江政國の素性 をご覧下さい。 (09.7.7 掲載) □ 清和源氏を称する幕藩大名の森氏
(樹童からのお答え) 美濃出自の幕藩大名の森氏については、清和源氏の源義家流と称されていますが、これを裏付ける史料はありません。『藩翰譜』『新撰美濃志』などの記事により、『姓氏家系大辞典』も鈴木真年編『華族諸家伝』も清和源氏として記述していますが、きわめて疑わしく、総合的に考えると、美濃の古族末裔するのが穏当ではないかとみられます。詳しくは、美濃森氏・森可成の出自 をご覧下さい。
(09.2.16 掲載) □ 讃岐馬場氏のルーツ
(樹童からのお答え)
甲斐の武田氏が滅亡したとき、その家臣団にいた武士のかなり多くが徳川氏及びその親藩・譜代大名の家臣に仕官した事情にあります。だから、水戸家の有力支藩である高松松平藩にも甲斐出自の家があっても不思議ではありませんが、この関係の系譜が高松藩にあれば別ですが、私の管見に入ったところでは、信玄の重臣・馬場美濃守の子孫ないしは一族の流れは多様に伝えていて、かつ異名も多くきわめて複雑で、よく分からないところが多くあります。
(樹童からのお答え)
尾張から起った武家華族溝口氏の系譜については、その家譜にいう武田一族の逸見氏後裔という系譜は確認できず、難解です。ご質問を受けて検討したところ、かなりの疑問符もつきました。詳しくは、溝口秀勝の先祖と家系 をご覧下さい。
(08.11.12 掲載) □ 中山城山とその祖先
(樹童からのお答え) 結論から先にいえば、中山城山の家は、讃岐忌部の流れを引く引田八幡宮祠官家の中山氏の分流ではないかとみられ、もとは「久保」と名乗ってい
たという所伝は重要だと思われます。なお、讃岐忌部は大伴連同族の紀伊国造一族から出ていますが、これらの系譜の検討の詳細は、中山城山とその祖先・一族の系譜(試論) をご覧下さい。 (08.10.27 掲載) □ 清和源氏多田一族関連で能勢氏と下間氏
(樹童からのお答え)
それぞれ問題がかなり大きいのですが、能勢氏や下間氏の出自について、どのような疑問があるかは 摂津源氏という能勢氏と下間氏 で、要点的に記してみます。 また、「武田親幸」は誤読・誤解と見られます。上のお答えに併せて、根拠を示しておきました。(08.8.23 掲載) □ 長髄彦の系譜に連なる氏族
(樹童からのお答え)
1 長髄彦は後の磯城県主や三輪君・鴨君などの傍系先祖にあたる者ですから、その系譜に連なる諸氏は多くありますが、その直系の後裔も残りましたので、この辺を中心にして詳しくは 長髄彦の後裔とその奉斎神社 で記します。
2 「オハツセワカササギ」という武烈天皇の名は、大和国磯城郡の長谷(泊瀬、初瀬)を宮居としたことに因みますが、長谷寺は同地の寺にすぎず(創建は七世紀後葉頃かと推定されているが、経緯等は不明)、丈部(ハセツカベ)は「馳使い」という職掌に因む阿倍臣関連の部曲であって、御子代・御名代ではありませんので(同天皇の御名代は小長谷部)、ともに関係ありません。
(08.8.23 掲載) □ 讃岐のまなべ氏のルーツ
(樹童からのお答え) 真鍋氏の系譜は非常に難解で、しかも系譜関係資料が乏しいことから、端的な答は出しがたいのですが、御提示いただいた資料や管見に入った資料などを基に検討した結果を、讃岐の真鍋氏の出自というより、 備中国真鍋島の開発主真鍋一族の系譜 という記事で、とりあえず記してみました。なかなか興味深い方向で検討が展開し、吉備の古代史まで論及することになりましたので、ご覧下さい。
なお、「眼部宿祢」という姓氏は、信頼できる史料には見えず、職掌的にもこうした姓氏があったことは考えられないというところです。
(08.8.15 掲載) □ 清和源氏多田氏及び源経基の子など
(樹童からのお答え) 摂津国河辺郡の多田院は武家清和源氏の発祥地であり、この地に少なくとも南北朝期までは多田を名乗る後裔がいたことは確かですが、その行く末がよく分かりません。また、伊豆に多田一族が居て、そこから各地に分岐したと「多田系図」に伝えますが、この辺はあまり裏付けがありません。多田一族については、こうした模糊たる状況ですが、いま一応の整理をしてみた記事、 摂津源氏多田氏の一族 をご覧下さい。 (08.5.31 掲載) □ 源氏将軍と比企一族
(樹童からのお答え) 比企氏の系譜については、諸伝あり、そのなかでも武蔵古族の末流と考えられますが、平安初期から武蔵国比企郡に郡領として居住した阿保朝臣姓とするのが妥当とみられます。ただ、養子として入った比企能員の実系については、秀郷流佐藤一族ではないかとみられますが、系譜などに不明な点が多く、判断しがたいところです。これらの詳しい事情は、武蔵の比企氏の系譜 をご覧下さい。
(08.5.12 掲載) □ 山辺禅師頼尊の末裔と師長国造一族
(樹童からのお答え) 要は、「笠間押領使恒宗(山辺禅師頼尊の孫)−中村庄司宗平」という親子関係に疑問が大きいとみています。前者は千葉一族であって、知々夫国造の流れを汲むものであり、後者は師長国造の流れを汲むものとみるわけです。中村庄司宗平の父については、『尊卑分脈』平氏系図にも見るように混乱しており、まったく不明です。一伝のいう笠間押領使恒宗の子とする裏付けは全くありません。詳しくは、 相模の中村・土肥・二宮一族の系譜 をご覧下さい。 (08.5.9 掲載) □ 大鹿氏と伊勢氏
(樹童からのお答え) ご質問の趣旨がよく分からない面もありますが、本HPの伊勢三郎に関する応答で、中臣氏族の伊勢国造から伊勢朝臣氏が出て、それが伊勢三郎につながる可能性を記していますし、伊勢の大鹿首氏は中臣氏族に出たことも記しています。この両氏の関係については、詳しくは 伊勢の大鹿首氏の系譜と氏人 をご覧下さい。
なお、古代上総にあった菊間国造の初祖とされる大鹿国直との関係は、管見に入っていませんが、大鹿首氏の祖・大鹿島命とその子の臣狭山命が常陸でも活動した可能性があり、通婚などの所縁があった可能性もないとはいえません。
(08.5.5 掲載) □ 辛島氏の系譜
(樹童からのお答え)
豊前の辛島氏は、古代宇佐神宮の有力祠官として著名で、五十猛神(素盞嗚神)の後裔と称する系譜を伝えており、その後裔は中世までには絶えた模様で、不明なことが多い氏族です。五十猛神からつながる系譜は歴代の名前に問題があるものの、その先祖の所伝は正しいとみられます。詳しくは、豊前の辛島勝の系譜 をご覧下さい。
(08.3.15 掲載) □ 諏訪神族と越後川西町の星名家
(樹童からのお答え)
星名は保科と書くことが多いのですが、信濃国高井郡保科御厨を苗字の地とする信濃の古族末流です。その系譜は諸伝ありますが、諏訪神族の出とするのが妥当なようであり、代表的なものとして幕藩大名の保科氏を中心に取り上げて、その系譜を検討しましたので、信濃の保科氏の系譜 をご覧下さい。
(08.3.15 掲載) □ 財閥三井家の出自
(樹童からのお答え) 江戸期からの豪商三井家は伊勢松坂の出ですが、その先は近江の鯰江の武士であり、先祖を御堂関白藤原道長という系譜を伝えます。しかし、実際の系図は様々な疑問があり、しかも問題も大きいもので、具体的には、近江佐々木氏の重臣であった目賀田氏の一族に三井氏があり、両氏を併せて十分な検討を要します。詳しくは、 豪商三井家の系譜 をご覧下さい。
(08.3.12 掲載) □ 武甕槌神の実体
(樹童からのお答え) 武甕槌神を鹿島神として中臣連氏一族が奉斎している事情にありますが、現在に伝わる中臣氏の系図では、天児屋根命の祖先は抽象的な神名が三代ほどあげられても、そのなかには武甕槌神が見えず、混乱が生じています。武甕槌神自体も実体が不明となっておりますが、神統譜における年代対比と祖先神信仰などから考えて、武甕槌神は天児屋根命の父におくのが妥当だとみられます。詳しくは、中臣氏の遠祖と武甕槌神 をご覧下さい。 (07.12.21 掲載) □ 物部氏の始祖と初期系図
(樹童からのお答え) 神代及び初期の物部氏族については、分かりにくい事情がありますので、関連する諸氏の系譜などとも比較照合し、様々な事情を整合的になるように考える必要があります。これまで刊行された書物を見ても、神代系譜を的確に整理したものは見当たらず、確かに難しい問題を含んでいますが、現時点までの管見に入った史料等からお答えすると、当面 初期物部氏の系図 のように考えられます。 (07.12.20 掲載) □ 寺倉氏
(樹童からのお答え)
いま出典が分からなくなっていますが、新田一族世良田政義の兄弟に親季をあげて「寺倉氏の祖」という系図を見たことがありますが、それ以上の詳細は分かりません。寺倉の地名で管見に入っているのは近江国坂田郡の地名だけで、蒲生郡の寺倉氏の起源もこの地とみられますが、上州の新田一族とは無関係と考えざるをえません。
これら寺倉氏については、 近江の寺倉氏と今井・新庄一族 をご覧下さい。
(07.11.1 掲載) □ 華道家元の池坊氏
(樹童からのお答え) 華道家元の池坊氏が小野妹子の後裔だとする系譜については、太田亮博士や近藤安太郎氏の否定論があり、それが妥当です。その具体的な論拠と系譜については、華道の池坊氏 をご覧下さい。
(07.10.18 掲載) □ 肥前の高木一族
(樹童からのお答え) 肥前の高木氏は佐賀郡の中世の大族ですが、平安後期くらいからの系図しか分かりません。このため、出自について確かなことはいえないのですが、肥前ないし筑紫の国造一族の流れをくむ古族末裔の可能性が大きく、藤原姓というのは、肥後の菊池氏同様、大宰権帥の藤原隆家を先祖に仮冒する系譜に因るものとみられます。詳しくは、肥前高木氏の系譜 をご覧下さい。
(07.10.8 掲載) □ 相模の三浦氏の出自
(樹童からのお答え) ご質問は、「桓武平氏概観」の記事を見てのことだと思われますが、その部分だけでは結論しか書かれていません。本HPでは、碓井貞光の後裔 に関して、その附として三浦氏の出自について触れています。そのため、重複を避ける意味で、この記事をご覧いただけたら、と思います。 アドレスは http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keijiban/usui1.htm ただ、相模の古族については、古い部分の系図が知られないため、この辺の事情が分かってくると、再検討の余地はあります。 (07.10.3 掲載) □ 越後の小出氏と諏訪神社
(樹童からのお答え) 越後の小出氏について調べてみると、なかなか興味深いものがあり、そのなかで分かった点を試論的に記してみます。地名や諏訪関係神奉斎の神社の分布からみて、信濃の諏訪からの流れとみられてよいと思われます。 難解な部分もいろいろあり、詳しくは、諏訪神の越後分祀と小出氏 をご覧下さい。 (07.10.3 掲載) □ 豊後の帆足氏
(樹童からのお答え)
帆足氏を含む豊後清原氏については、これまで詳細な系図検討が管見に入っておらず、ご質問を契機に検討を加えてみました。平安後期の史料に乏しいため、検討及び判断は難しいのですが、天武天皇後裔の清原真人姓とするのは疑問が大きいという結論に導かれました。詳しくは、豊後清原氏の系譜 をご覧下さい。
(07.6.24 掲載) □ 岩城国造奉斎の大国魂神社
(樹童からのお答え) 古代の石城国造については、その関連する近隣の諸国造とともに、異伝・混乱が多くきわめて難解です。かつて本HPで私見を示したことがありましたが、今回再考して、おおいに迷いながらも現段階の私見をもとに石城の大国魂神の実体を考えますと、端的には石城国造の祖神の天目一箇命ではないかと推されるものがあります。詳しくは、 石城の大国魂神 をご覧下さい。 (07.6.17 掲載) □ 信濃小出氏一族の末裔
(樹童からのお答え) 先に記した「信濃の工藤姓とその一族」の続編として記しますと、 小井弖宣能の孫の有能の系統は信濃に残り、諏訪氏や信玄などに仕え、さらに安藤直次に仕えたとされ、有能の弟・有政が尾張に遷して斯波家に仕え、小出秀政など大名家を出すことになります。系図等に残る事績はあまり多くないのですが、管見に入ったところをまとめた 尾張と信濃の小出氏 をご覧下さい。
(07.6.14 掲載) |
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