□ 豊前の辛島勝の系譜 (問い) 豊前国宇佐郡辛島郷発祥、宇佐八幡宮祝職の辛嶋氏は辛嶋家系図によると、素戔鳴命を祖とすると伝えます。検証をお願いします。 (ichi様より 08.2.06受け) |
(樹童からのお答え) 1 豊前の辛島氏は、辛嶋・韓島などとも表記しますが、ここでは「辛島」としておきます。辛島氏は、宇佐郡辛島郷(宇佐神宮の西方近隣、駅館川下流西岸部で、宇佐市の辛島・樋田・中原の一帯)に起こり姓は勝(すぐり)で、宇佐氏(君、宿祢)、大神氏(君、朝臣)や田部(勝、宿祢)などと並ぶ古代宇佐神宮の有力祠官でした(宇佐四姓と呼ばれた姓氏は宇佐・大神・田部・漆島)。
辛島氏では、欽明朝に大神比義とともに八幡神を祀る宇佐八幡宮の祝になったという乙目をはじめとして、奈良時代頃までは波豆米や与曽女などが祢宜に任じたと史料に見えますから、その有勢ぶりがうかがわれます。ところが、宝亀三年(772)の阿古米が祢宜補任、その翌年の解任を最後に辛島氏の祢宜は終わり、その後も祝や惣検校などの神官としてあったものの、中世までには辛島氏は絶えた模様で、宇佐神官には見えなくなります。宇佐郡辛島郷にはその後、漆島氏(宿祢姓で、樋田などの苗字がある)が居住したため、両氏は一般によく混同されますが、本来別氏で、漆島氏は皇別で多臣一族と称した大分国造大分君の一族です。
こうした諸事情もあってか、その系譜は宇佐祠官家のなかでは珍しく、五十猛神(素盞嗚神)の後裔と称する系譜を残しております。五十猛神からつながる辛島氏の系譜は、宇佐関係史料や大分県史料集などに見えますが、祢宜に任じた女性を主体とする氏族のようで、系図の良本は伝わりません。現在に残るのはきわめて不完全であり、豊都彦・宇豆彦などの歴代の名前や続柄に様々な問題があるものの、それでも、その先祖を五十猛神とする所伝は正しいとみられます。
2 なぜ辛島氏の先祖の所伝を正しいと判断したかというと、その理由は二つあります。 第一は、五十猛神は韓地から日本列島に渡来したわが国天孫族の初祖とみられることであり、第二に、辛島勝はその発祥地や奉斎神からみて、宇佐国造の初期分岐(具体的な分岐過程は不明)とみられますが、宇佐国造家は天皇家や多氏族・物部氏族などと同様に、天孫族の流れを汲むとみられることがあげられます。豊前の宇佐周辺には辛島・酒井・桑原など多くの勝姓の氏が見られますが、この勝は村主の意であり、崇神前代に宇佐あたりの村々に宇佐国造家一族として分岐したものとみられます。なお、渡来系ということで、なんでも秦氏や東漢氏に結びつけるのには疑問が大きいところです。
宇佐氏や辛島氏の上古関係の史料が乏しいため、検証するどころか、現状では以上くらいの記述しかできないのが、残念なことです。
(08.3.15 掲上)
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