□ 出雲の牛尾氏と三沢氏 (問い)最近、諏訪一族に興味を持って調べていたところ、出雲地方に諏訪姓中沢氏族を称する牛尾氏があることがわかりました。 遠い親戚と同じ名字なので大変興味深かったのですが、貴HPの清和源氏概観には、伊那・片桐氏族を称する出雲三沢氏の分流にも牛尾氏があることが記載されています。
彼らは、同族だったのか、それとも同じ土地の発祥ではあるが、遠祖が違う氏族なのでしょうか?
(宗次郎様より、09.7.13受け) |
(樹童からのお答え) 1 牛尾氏は豊後の大友一族や下総の千葉一族にも見られますが、これらとは別族で最も著名なのは出雲の牛尾氏であり、戦国期の尼子氏の重臣として『陰徳太平記』などに見え、出雲を中心にこの地のみならず石見・因幡や安芸などでも活動しています。その苗字の地は、出雲国の山間部、大原郡牛尾邑(赤川〔海潮川〕上流域で、現雲南市大東町の東部)であり、『出雲国風土記』には海潮郷という表記で見え、本の字は得塩なりと記されています。
その系譜は諏訪神族の中沢氏(姓氏は神人部宿祢)に出ており、鎌倉中期頃から牛尾(潮)氏の活動が見えます。当地に諏訪明神が勧請され、牛尾郷十二ヶ村の惣社とされます。
三沢氏一族の苗字のなかにも牛尾が見えるのは、ともに信濃から来て出雲に居つき、かつ三沢氏も清和源氏と満快流と称するものの、実際には諏訪神族から出ていたという縁があって、牛尾氏となんらかの養猶子関係があって名乗ったものではないかとみられます。三沢氏から諏訪神族の小田切を名乗った者、出雲の多久和氏の養子となった者も見えます。
2 出雲の牛尾氏の系譜は、室町前・中期では具体的な歴代が不明になっておりますが、発生事情と若干の動向は古文書に見え、『姓氏家系大辞典』牛尾条等にも記されますので、概略説明すると次のようなものです。
(1) 平安後期の諏訪大祝貞方の次弟の諏訪次郎敦真は、信州伊那郡中沢郷に居して、その孫の真重は中沢神太を名乗るが、その活動年代は『諏訪志料』に久安(1145〜51)とされる。その従弟の千野太郎光弘(千野大夫光家の子)が『源平盛衰記』などに見えて、保元平治そして寿永の合戦に参加していることが分かるから、本人が生存していればその末年とその子の活動年代が寿永・治承の源平合戦や頼朝の鎌倉幕府創設の時期にあたる。寿永合戦には、千野光弘とその甥・藤沢神太清親も参陣していた。
だから、『東鑑』の建久元年・嘉禎元年条に見える中沢次郎兵衛尉が真重の男で、その嫡男が同書の嘉禎四年条に見える小次郎兵衛尉(後に五郎兵衛)だと『諏訪志料』に記すが、彼らの実名は『東鑑』に記されず、「神氏系図」(『諏訪史料叢書』巻二十八所収)に掲載の中沢氏の系図にも両者は見えないから、これらは諏訪神族といえない可能性もある(その場合は、丹波国大山庄の中沢氏か)。
(2) 中沢神太真重の子の真氏の子の中沢太郎為真は、嘉元四年(1306)九月の下知状(『鎌倉遺文』所収)に見えて、その所領が信州の中沢郷内八箇村と出雲国牛尾庄なりとされて、牛尾庄は真直に譲り、中沢のうち四ケ村は真光に譲り、残りに四ケ村は為真後家女子に譲ると見える。上記中沢氏系図には、次郎真直・四郎真光が太郎為真の弟にあげられており、上記下知状にも為真の子がいなかったので弟たちに譲られたと見える。要は、太郎為真の代までには中沢氏は承久の乱の恩賞で信濃と出雲に所領をもち、その後継の代に信濃と出雲に分かれたわけである。
(3)
この関係の文書には、次郎真直の子に円性、四郎真光の子に四郎太郎法師真仏が見えるから、上記系図には太郎真政・式部房円性・七郎真弘を太郎為真の子とする系線を記すが、これら三人は次郎真直の子だと分かる。
次いで、正和元年(1312)七月には牛尾庄の雑掌として、「経範与中沢式部房円性并真継・真□(※□は欠字の意)」と見えるが、真継は式部房円性の甥に当たる。
式部房円性の孫の次郎時真(郷房円泰の子)は、南北朝期の正平十年(1355)十二月の口宣に「左衛門尉神時実、宜しく参河権守たるべし」と見える者であり、ここまで上記「神氏系図」に見える。この頃から牛尾を名乗ったことになるか。
(4) 時実(時真)の後の歴代は不明であるが、「集古文書」の文明元年(1469)八月文書に見える「牛尾三河守」は時実の嫡裔であり、『陰徳太平記』などには、永禄八年(1565)四月の富田合戦に牛尾三河守、同遠江守幸清、同太郎左衛門(久信。幸清の子)が見え、一族には同信濃守、同藤三郎、同弾正大弼なども見える。
(5) 出雲佐々木氏一族の湯氏(津和野藩主亀井氏の先祖)の初代頼清の子・七郎左衛門尉清信が、上記真直の子・信濃守の娘の婿として入り、諏訪姓を名乗ったが、のちに牛尾の近隣の同郡の佐世郷に移り住み佐世氏を称した事情もある。『毛利在番志』には、「佐世城、牛尾大炊助之を戌る」と見える。
(6)
牛尾遠江守幸清は、十六世紀の半ば頃に活動し、尼子氏の経久・晴久・義久三代に仕えた。宇山久兼、佐世清宗らと並んで、尼子家家臣団のなかで最上層部にあり、『尼子分限帳』では備前のうちに十万石の所領をもったとされ、牛尾氏は尼子十旗の一でもあった。しかし、尼子・毛利の合戦の中で毛利に降って尼子と戦う者もでており、尼子の衰滅とともに牛尾氏も没落していった。
なお、元来幸清は湯原氏から出たともいわれる。このことは、吉川文書内にも湯原幸清・河副久盛という連署状があって、確認される。牛尾氏は経久時代には河津氏が惣領であって、後に第一次月山富田城の戦いの戦いで大内側に寝返った者として河津氏は討伐され滅亡したことで、その後に有力家臣であった幸清が牛尾惣領となったとされる。 3 出雲の三沢氏 併せて、出雲の三沢氏の主な動向についても記しておきます。
三沢氏の祖先の飯島太郎為満は、諏訪大明神の託宣を受けて猪鹿捕獲の免許状を得たと伝え、「飯島諏訪藤沢荒沢保科等は皆同流」だと「三沢家譜」(東大史料編纂所蔵)に見える。 清和源氏満快流と称した片切次郎為綱の子の飯島太郎為満(為光)の孫の三郎広忠は、飯島氏が承久年中に出雲国に所領を賜っていたので、現地に下向して仁多郡三沢荘(現仁多郡奥出雲町三沢)の亀嶽(亀嵩)山に居城を構えた。すなわち、飯島太郎為光は信州伊那郡飯島郷の地頭となって飯島を称したが、その老壮年期に起きた承久の乱には幕府方として子の岩間三郎為弘とともに出陣し、討死した。乱後の論功行賞で、その子の飯島太郎為忠が出雲国三沢郷を賜り、次いでその子の三郎広忠(為光の孫)が三沢郷に下向した。
これが出雲の三沢氏の起源であり、信濃出身で同族の諏訪部(諏方部)氏が同国飯石郡三刀屋郷に入って三刀屋氏となり、伊那郡飯沼郷の飯沼氏が大原郡大東庄・大西庄の地頭となった(立原・大西〔ダイサイ〕両氏の祖)のと同じく、承久後の新補地頭の一人であった。諏訪部・飯沼・飯島の諸氏は、みな伊那右馬大夫為公の後裔にあたる(承久の乱の際に参陣したのは、為公の四、五世孫にあたる者たち)。『雲陽軍実記』にいう尼子旗下の「出雲十旗」には「第二に三沢、第三に三刀屋、第五に牛尾、第十に大西」があげられる。
広忠の子が小三郎為房で、その子の六郎為長(為仲)の時の十四世紀初頭頃に飯島を改めて三沢を号した。為長の兄弟とその後裔も、この頃から居住地の林原・堅田・鞍懸・多志目・馬場・中林・里田・八谷という苗字を名乗るようになる。室町前期には三沢氏は横田方面にも勢力を伸ばし、横田城は三沢為忠(為長の孫)の築く所とされる(『雲陽志』)。為忠は出雲守護山名満幸に従って明徳の乱(1391年)に出陣し、討死した。
その後、三沢氏の子孫は山名氏、次いで京極氏、尼子氏に仕えた大身であったが、尼子氏の衰滅に伴い毛利家に仕えて転戦し、後に長府藩家老として存続した。上記の「三沢家譜」は、
山口県下関市長府町宮崎の池田家が原蔵者であった。
三沢一族には仙台藩主伊達家に仕えた系統もあり、最終的に胆沢郡前沢村三千石を領し「一門」に列した。藩主陸奥守伊達綱宗の側室となり陸奥守綱村などの生母となった女性(清長の娘)を出し、また主家から養子を迎えた事情もある。
このように三沢氏の系譜が明らかなのに、なぜ三沢為仲が木曽義仲後裔という系譜所伝(『巡拝記』など)が出てきたのか不審な感もある。
(09.7.21 掲上)
<宗次郎様よりの復信> 09.7.24受け 伊那・片桐氏族は実際には金刺氏の流れであることを考えれば、共に諏訪一族から出た同族だったということですね。養子猶子関係で本姓をごまかす事例の多さを改めて知りました。 現在、出雲発祥である牛尾姓が私の親戚も含めて播州地方に多いのも疑問だったのですが、戦国期の牛尾幸清が隣国の備前に所領を持っていたことがご教示頂いた内容にありましたので、そこから播磨へ広がったことが想像できます。
<Iwarehiko様よりの来信> 09.8.02受け 趣味で系図関係のHP(いわれひこの何かの部屋:http://iwarehiko.web.fc2.com/index.html)を開いているIwarehikoと申します。 妻の実家が姫路の牛尾家なのですが、舅に聞いた口伝では佐渡の牛尾神社に縁故があり、姫路に移住してきたそうです。
同社の祭神は出雲系の様でもあり、貴HPの信濃の諏訪氏につながるのでしょうか。
もし、なにかお心当たりがあればお教えいただけると幸いです。
(樹童の感触)
あまりはかばかしい答とはいえませんが、管見に入ったところを次ぎに記しておきます。
1 播磨の牛尾氏については、『姓氏家系大辞典』にも見えませんが、兵庫県神崎郡市川町の東北端部に上牛尾・下牛尾の地があり、これに関連するようです。地名は上牛尾に祇園神社があり、その祭神が牛頭天王(素盞嗚神の別名とされる)ということで、これに因む可能性があります。ただし、播磨の牛尾氏がこの地域に起こったかどうかの史料は、管見に入っていません。
佐渡市新穂潟上の牛尾神社にも、大己貴命、素戔嗚尊を祭神とし、もと八王子牛頭天王といい(『神道大辞典』)、地元では「天王さん」と親しまれ、「天王祭(牛尾神社薪能)」という祭事があるので、やはり本来は牛頭天王を祀るとみられます。
播磨西部では市川という川の下流部に姫路市の広嶺山があり、古来その地に鎮座する広峰神社があり、その主祭神が素盞嗚神・五十猛神(両神の実体は同じ神)であって、古来、広峰天王・牛頭天王・白国明神といわれましたから、市川町の牛尾の祇園神社も広峰の分祀の可能性があります。
広峰神社は『延喜式』神名帳には記載がないものの、『日本三代実録』貞観八年(866)条に「播磨国無位素盞嗚神に従五位下を授く」との記述があり、当社のことと見られています。その勢威は播磨一円のみならずその周辺諸国に大きく及び、社家は、古くは七十五家あったといいますが、永禄年中の戦乱の影響で社勢が衰えた結果、江戸時代頃までにいわゆる「広峯三十四坊」といわれる三十四家が残り、その後には二十五家となったとのことです。江戸時代後期の主な社家には、廣峯・肥塚・魚住・小松原・椙山・谷・谷口・神崎・金田・竹田・柴田・内海・福原・粟野・大坪・芝・馬場等があり、その系譜は凡河内氏や赤松氏の一族の出などと伝えます。
2 牛尾氏では、安芸と石見の牛尾氏は、出雲牛尾氏の分流のようですが、豊後の大友一族に牛尾氏があり、また下総の香取郡牛尾邑から起こった千葉一族の牛尾氏があると『姓氏家系大辞典』に記事があります。このほか、島根県邑智郡吾郷村の天津神社社司に牛尾氏があり、福島県にも、かつて牛尾村がありました。
牛尾神社については、比叡山の東麓にある大津市坂本の日吉大社の信仰の起源は、その西方にある神奈備山の牛尾山(八王子山。「小比叡」)の山頂にある磐座とされます。山頂には、大山咋神の荒魂を祀る牛尾神社と鴨玉依姫神の荒魂を祀る三宮神社という二つの社殿があって、その間に立派な巨岩があります。
肥前(佐賀県)にも小城町池上の牛尾山に牛尾神社や中世山城の牛尾城址があります。また、福井県では、大飯郡高浜町高森の香山神社の摂社に牛尾神社(祭神は天日槍命・八王子命)があり、小浜市鯉川にも牛尾神社があります。
3 余談ですが、東大史料編纂所に「上杉文書」のなかに越後の牛尾氏の史料があるとのことで、中味を見ましたら、同国北部の岩船郡に繁衍した桓武平氏を称する秩父一族(本庄、色部、小泉などの諸氏)の牛屋氏の誤整理でした。本庄氏、色部氏は上杉家の重臣です。
(09.8.5 掲上)
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