馬場美濃守の家系と一族
             

          馬場美濃守の家系と一族

 
(問い) 遠祖と伝える讃岐の馬場氏は、高松藩松平家に仕えていたのですが、その先が甲斐の出身で、どうも馬場美濃守とは一族らしいのです。私が先祖と思っている馬場八左衛門忠時と馬場美濃守とは二〇歳位しか歳が離れておらず、祖父と孫とは考えられないし、此の両家が同族である、という当時のシッカリした史料も見た事がありません。自分なりの検討もしてきましたが、この関係の検討、教示をお願いしたいのです。

  (真鍋様より、08.10.29受け)        

   (樹童のお答え)
 
 甲斐の武田氏とその家臣団については、これまであまり検討をしてこなかった事情にあり、得手とはいえないのですが、真鍋様のご検討や収集資料などを含めて、私の管見に入った史料をもとに検討したものを以下に記してみます。だから、この記事自体が両者の合作みたいなものですが、これがなんらかの参考になり、次の検討に進めるようになれば、幸いです。

 武田氏が滅亡したとき、その家臣団にいた武士たちは甲斐を離れて分散したものの、そのかなり多くが徳川氏及びその親藩・譜代大名の家臣に仕官して続いた事情にあります。だから、水戸家の有力支藩である高松松平藩においても、先祖が甲斐出自の家臣があっても不思議ではありません。この関係の具体的な家臣の系譜が高松藩や貴家にあれば別の検討になるとも思われますが、貴家においては既に焼失したとのことなので、とりあえず、私の管見に入ったところで検討してみます。その限りでは、信玄の重臣・馬場美濃守の子孫ないしは一族の流れとは少々違うのではないかと感じられる以外は、よく分かりません。
 そのため、馬場美濃守に焦点を当てて、その家系・一族というテーマで検討をしますので、これをご覧になったうえで、さらに考えてみて下さい。この中心となる馬場美濃守の系についても、調べれば調べるほど複雑多様で混乱が多く、実態がよく分からないものが多くあります(以下は、である体)。
 
 まず、馬場美濃守について基本的なことを押さえておく。
 馬場美濃守は、天正三年(1575)五月の長篠合戦で討死したが、その生年は永正十〜十二年頃(1513〜15)と言われるから、享年は六〇歳強ほど(位牌には六三歳)となる。名前を信春とも信房ともいい(以下の文章では、このどちらかで記す)、初名が景政で、氏勝、政光、信勝、信房、信春に変わったといい(変遷の順序は必ずしも確定していない)、官職称号も、初めが民部少輔(民部大夫)で、それが美濃守に変わったとされる。父を一伝に遠江守信保といい、はじめ苗字が教来石(きょうらいし)民部少輔景政といったが、一族の馬場伊豆守虎貞が主君の武田信虎を諫めて殺されたので、信玄は教来石景政に絶えていた馬場の家を継がせ五十騎持ちとしたという。これが、天文十五年(1546)とされ、武田家の侍大将として信玄・勝頼と合わせて武田氏三代に仕え、「武田の四名臣」、「武田二十四将」の一人といわれ、信濃国更級郡の真木島城や高遠などの城に居た。
 馬場民部少輔は、信玄の信濃攻めに参加して武功を挙げたため、永禄二年(1559)に百二十騎持に加増され、譜代家老衆の一人として列せられて、信州真木島城を守った。永禄四年(1561)の川中島の戦いでは、上杉軍の背後を攻撃する別働隊の指揮を任され、翌五年(1562)には、馬場美濃守信春と改名する。永禄十一年(1568)の駿河攻め、翌同十二年(1569)の北条軍との三増峠の戦いに武功を挙げた。元亀三年(1572)の信玄による西上作戦に随い、三方ヶ原の戦いにも参加し、徳川軍を浜松城下まで追い詰めるという武功を挙げた。真木島(牧野島)城や江尻・諏訪原・田中・小山など東海道方面各地の武田方の支城を建設した築城の名手とされる。
 
 教来石氏と馬場氏の概要
 美濃守信春の生まれた家系の教来石は、武田一族とも土岐一族ともいい、家を継いだ馬場も多田源氏とも木曽氏の出自とも、あるいは武田の一族とも伝えるから、その家系はますます複雑になる。美濃守信春は小池氏から出た(武田一族の小池和泉守胤貞〔一に忠勝〕の子という)という系図もある。このため、これら関係諸氏の概要をまず見てみよう。
 馬場氏は、「馬場家系図」『馬場家譜』によると、清和源氏の中の摂津源氏、源頼光の曾孫の仲政(馬場を号した)を遠祖とすると伝える。これに対し、木曽義仲の五代後の木曽兵庫頭家教の孫の馬場常陸介家景を祖とする馬場氏の出ともされる。『甲斐国志』では「木曽義仲の後裔讃岐守家教の男讃岐守家村、その三男常陸介家景、始めて馬場を以って氏となす。本州の馬場氏も蓋し是と同祖なりしにや」と記される。
 一方の教来石氏は、敬礼師、慶良石、毛浦石とも書き、摂津源氏の一派で出羽守光信の子孫と伝え、美濃国土岐郡に土着したという土岐光衡の後裔が甲斐国巨摩郡教来石村に移り、地名に因んで教来石を名乗るという。教来石氏の系譜にもこれとは別伝があり、武田一族の出という系譜もある。教来石駿河守信明が武田信重の娘婿となり馬場氏の名跡を継いだが、この信明の四代後の虎貞が殺されたため、馬場氏の名跡を武田信玄の命により教来石景政が継いだことになる。現在の北杜市(もと北巨摩郡)白州町には、北部に教来石という地名が残るが、教来石に隣接する白須には馬場屋敷や美濃守自身が建立した自元寺がある。
 こうした馬場美濃守とその先祖に関する系譜所伝を踏まえて、以下にもう少し立ち入って検討を加える。
 
 教来石氏の系譜
 いろいろ史料に当たったところでは、美濃の土岐一族から出た教来石氏は、具体的には不明である。教来石は慶良石とも書くが、土岐一族に気良という苗字が見えることから、これに関連するのかもしれないが、気良と慶良石との関係も不明である。
 そうすると、武田一族の出という系譜を検討することになる。この関係の系譜も二伝あり、その第一は『姓氏家系大辞典』所載のもので、この系譜では、頼朝将軍に仕えた武田五郎信光の子の一条六郎信長を祖とし、その子の持丸四郎頼長の孫の権三郎(民部)広政が初めて教来石を名乗り、以下は、その子の「政次−政久−政長−政房−政忠−房政−景政(信房、信春)」(系図A)とするものがある。頼長は山梨郡中郡持丸郷に封をうけたが、馬場を名乗ったともいう。
 第二は、持丸四郎頼長の弟、一条八郎信経の子の甲斐守護武田時信(一条源八)の子から出たという。武田時信の子には十数人おり、そのなかで南葵文庫本「一本武田系図」に見える「慶良吉(慶良石の誤記か)」と見える者が祖ではないかとみる説がある。
 この慶良吉を名乗る者について、相模の三浦氏から時信の養子となった六郎左衛門尉貞連に当てる説もあるが(浅羽本武田系図)、これは誤りである。なぜなら、「一本武田系図」には慶良吉とは別に貞連の名が見えるし、貞連の子孫には慶良石・教来石を名乗る者が見えないからである。すなわち、貞連は、三浦佐原十郎左衛門尉義連の子孫で、三浦芦名甲斐守(芦名十郎左衛門尉)行連の子であるが、その諸子としては宮田太郎貞明、芦名大夫判官貞清、芦名下野守貞久、四郎久家、僧義誉が伝えられ、これらの子孫にも慶良石は見えない。
 ところで、武田時信の子孫は、釜無川とその支流の流域となる巨摩郡武川筋に繁衍して、いわゆる武川衆と呼ばれる諸氏(山高、白須、馬場、牧原、青木、柳沢、折井、山寺、東条、西境、横手など)となった。「一本武田系図」には必ずしも実名が記されないが、青木一族に伝えられる系図などには、武田時信の子として山高甲斐守(太郎)信方、白須三郎貞信、教来石四郎信紹、牧原五郎時貞、依田(鳥原)七郎宗景、白井八郎貞家、西境九郎信泰、折井(青木)十郎時光などの名前が見える。白須と教来石とが隣村であったことは先に述べたが、鳥原も教来石のすぐ南に位置する。
 馬場と教来石とは一族と伝えるから、これが正しければ、甲斐の馬場氏は、教来石四郎信紹か持丸四郎頼長の後に出たことになる。これは、武川衆諸氏とともに馬場氏が行動する文書がいくつかあるから、信頼してもよさそうである。教来石信明が継いだという馬場氏については、後ろで検討するとして、武田宗家の信重(?生〜1450没)に馬場信明が仕え、娘婿となったといい、宗家は「信重−信守−信昌−信縄−信虎−晴信」と続くから、馬場信明の三世孫くらいに伊豆守虎貞があたるものか。
 鈴木真年編著の『諸氏本系帳』第六冊には「馬場系図」を載せ、『寛政譜』や栗原本・田畑本などを基に校了したと見える。それによると、一条信長の子の馬場四郎頼長を祖として、その子「四郎太郎長広−持丸日向守広氏、その弟・敬礼師三郎(民部丞)広政−民部左衛門尉政久−民部丞政長−民部丞政房(応永三〔1396〕卒)−権太郎政保−信明」として、上記系図Aとほぼ同じ様な系図を記す(「政次」は見えないが、政久と同人か)。
 信明には、「称馬場、改教来石駿河守、民部、永正三(1506)九廿卒」と注され、その子の母は武田信重の娘とあり、信明の妹は武田信昌妻と見える。この系図では、その後を「信明−信保−虎貞、その弟に氏勝・信保(信頼)」とするが、世代対応を見ると、信明と虎貞との間には一世代ほどの欠落も考えられる。また、敬礼師広政は教来石四郎信紹の子孫の跡に入った可能性もあろう。信保(信頼)も虎貞の実弟ではなく、氏勝(信春)のほうの実弟か一族かなのであろう。
 
 馬場氏の系譜
 馬場氏の系譜はさらに難解である。
 まず、摂津源氏多田一族の出とする系譜は、源三位頼政を初代として、その子の紀伊守頼忠を第二代とし、その曾孫の第五代丹後守忠次が文永頃に甲斐に来たと伝える。これには異伝があって、源三位頼政の子・仲綱の子が伊予守頼忠で、頼忠の孫が忠次だもという。西八代郡富里村(現南巨摩郡身延町の常葉・市之瀬あたりで、武川筋より遥か南方)の妙円寺は、文永十一年(1274)五月に馬場丹後守忠次が開基したという。その子孫で、第十四代が伊豆守虎貞(その兄弟に美濃守信房をあげる)で、以下の子孫は「丹後守信忠−五郎左衛門信輝−丹後守八左衛門忠時」とも、八左衛門牛白は伊豆守虎貞の子だともいう。
 しかし、源三位頼政の子にも仲綱の子にも紀伊守頼忠は見えず、多田氏後裔という系譜はまず信じがたい。馬場丹後守忠次の来村も、本姓が菊池で元弘建武の乱を避けて来たとも、延応仁治の頃(1239〜43)に八代郡の東河内領常葉に来たとも伝え、時期的にまったく信頼しがたい。常葉院の牌子には、馬場丹後守忠次は天正十年(1582)六月に死去したといい、その兄の但馬守は同八年(1580)、五郎左衛門は同十八年(1590)、八郎左衛門は文禄四年(1595)に各々、死去したと見える。そうすると、馬場氏の祖とされる馬場丹後守忠次は、所伝とは大きく異なり、戦国末期の人になる。
 伊豆守虎貞の父を民部少輔虎房というのも、虎貞の名が主君信虎に因むものであるから、この辺からおかしい。こうした事情から、甲斐の馬場氏が摂津源氏多田一族の出とする系譜は信頼できない。清和源氏の出でありながら、八左衛門忠時が常葉で諏訪大神を(常葉諏訪神社)祀ったというのもおかしく、八左衛門忠時より前の系譜には大きな疑問がある。
 
 次ぎに、木曽義仲の子孫という馬場氏の系図は、東大史料編纂所『諸家系図』巻40所収の馬場系図に見える。それによると、木曽義仲の子の旭三郎義基の五世孫の沼田讃岐守家村の子(実は家村の叔父・小二郎家定の子)とされる馬場(黒川)三郎家景の子孫とされる。家景の子・越後守家佐の後は、「馬場三郎家勝−彦八郎勝任(仕小笠原政康。応永七年卒)−三郎勝忠(仕小笠原持長。応永十八年卒)−彦八郎氏忠(仕武田信重。宝徳二年卒)−三郎氏元(仕武田信昌。永正元年卒)−彦八郎勝秀(右馬助。仕武田信縄。永正三年卒)−大膳亮勝範(仕武田信虎。天文十年に信虎甲州退去のときに随行)」として、大膳亮勝範の子に信玄に仕えた馬場美濃守氏勝をあげる。
 この氏勝の子には、次郎右衛門某と右馬介房勝をあげ、房勝の子の彦八郎房家−房頼−房次まであげるから、この系統に伝えられた系図であることが分かる。しかし、木曽氏一族の後裔とする系譜は、名前からしても事績からしても疑問が大きい。大膳亮勝範は遠江守信保と同人ではないとみられる。
 以上、いくつかの馬場氏を見てきたが、馬場美濃守の家は武川衆の居住地域から起った武田一族の出とするのが自然である。白須の南西方に位置し青木一族の横手氏の起った横手村には、古御所の小字があり、そのなかに馬場ノ原と称する地名もある(『白州町誌』)というから、これに因むのが馬場氏であったものか。甲府市太田町の一蓮寺の過去帳には、「與阿弥陀仏に長禄四年(1460)十二月廿七日、馬場三州。弥阿弥陀仏に寛正二年(1461)、馬場。浄阿弥陀仏に文明元年(1469)、馬場民部」などと見えるといい、これらが馬場信明が入った養家の馬場氏か。
 
5 武川衆の動向
 武田時信の諸子は南北朝期に活動し、その頃から武川諸家ないし武川衆(武河衆、六河衆)の動きが史料に見えるが、応永二四年(1417)の上杉禅秀の乱に関連して守護武田信満(信重の父)が自害した後、幼主の伊豆千代丸(信満の甥で、信長の子。信元の養嗣)に味方する「日一揆」を助けて、柳沢・牧原などの武士が討死している(永亨五年〔1433〕の一蓮寺過去帳」)。
 武川衆は、「甲陽軍鑑」に天文十一年(1542)桑原城普請のおり、板垣信形に武川衆を添え御預けなさるとあるのがの初見のようであり、また後に武田典厩(左馬助)信繁につけられた。永禄四年(1561)の川中島合戦では、武川衆は武田信繁の陣に加わり、激烈な防戦をしたが、その六年後の永禄十年(1567)の信州二宮、生島足島神社での信玄への誓詞提出では、馬場小太郎信盈のほか、青木・山寺・宮脇・横手・柳沢の諸氏が六郎次郎殿(信繁の子の左馬助信豊)宛に署名していることが見える。このとき、馬場美濃守は単独で起請文を出しているから、馬場小太郎信盈はその一族とみられる。
 
 武川衆は、西郡路から諏訪口の武川筋という国境警備がその範囲で、さらに大門峠口につながる棒道もその守備範囲であったようだとみられている。ところで、武田家の場合、「衆」という表現で、軍の編成上の侍大将とその被官武士がまとめられるが、地域ごとにまとめられたとはいえ、必ずしも一定したものではない。「甲陽軍鑑」などには、甘利衆・山県衆・穴山衆・小山田衆などのように見えるが、武川衆の場合は、同族的な党の性格に加え、他処から入ってきた氏(八代郡の米倉氏や曾雌・曲淵氏)もある。武川衆のなかでは、青木氏が中心的な存在とされ歴代、白山城を守ったが、後には米倉・折井両氏も実力者とされる。
 武田家滅亡のおりには、武川衆は誰も勝頼に随わず、米倉・折井の両氏は家康を頼り、織田信長が本能寺に横死すると、家康の命を受けて無主の甲斐に入った両氏は、武川衆を団結させ挙げて徳川氏に従わせたので、天正十年(1582)七月、家康は感状を発給しており、同年及び翌十一年には安堵状を出 した。そこには、十二名の名前があり、氏としては、青木・柳沢・折井・横手という古くからの一族と他処から来た米倉・曲淵(青子氏から入嗣あり)・小沢の諸氏が安堵状に見える。後に幕藩大名家となった柳沢氏や米倉氏が徳川氏に仕えた経緯である。
 武川衆は、家康の関東移封とともに旗本衆として武蔵国に知行を与えられたが、慶長八年に家康の第九子義直が甲斐の領主で、城代の平岩主計頭親吉のもとで武川衆がまた武川の地に戻り領知されたが、そのときには、武川衆十四人があげられ、なかに青木・柳沢・折井・山高の一族に馬場右衛門丞信光も見える(他氏では、伊藤・曽根・曽雌・有泉の諸氏)。義直は僅か四年で尾張に転封になり、甲府城番をおいたが、その担当は武川十二騎と呼ばれた。このなかには、津金衆の跡部・小尾氏もあるが、本来の武川衆では、青木・柳沢・折井・山高・山寺の一族に馬場民部信成も見え、米倉・曲淵・入戸野・知見寺の諸氏も見える。十二騎は米倉丹後守と馬場民部の五百石を最高とした。
 こうした武川衆の動向を見ると、馬場民部信成は美濃守信房の兄弟の子孫とするよりも、生島足島神社の誓詞に見える馬場小太郎信盈の後に当たるものか。
 
6 馬場美濃守信房の子孫
 馬場美濃守信房の子の民部少輔(民部丞、民部左衛門尉)は昌房、信忠あるいは信英、信吉ともいい、天正六年(1578)武田勝頼の越後出陣に随ったが、同十年(1582)に織田軍との戦いで討死したという。このため、馬場の家督は、信房の弟の善五兵衛信頼が継いだともいい、信頼は甲斐を去って和泉国淡輪に居した。その孫だという民部信成(右衛門尉。駿河守信久の子)は武田滅亡後、他の武田衆とともに家康に属し、以後、小牧・長久手の戦いなどにもに出陣して戦功をあげ、大久保忠世・忠隣親子の手に属して二度、真田攻めを行った。その子の次郎兵衛信正や子孫は幕臣や紀州藩家臣などとなった(『寛政譜』など)。この嫡流は、次郎兵衛信正の曾孫の次郎兵衛信周のときに罪あって、家が断絶した。
 美濃守信房(氏勝)には、民部昌房(信忠、信吉)のほか、次郎右衛門房重・勘五郎信義・右馬助房勝という子もいたといい、勘五郎信義は家康に仕え、教来石などの旧知を賜ったが、後に勘気をこうむったとされる。民部信忠の娘は、青木氏、米倉氏、曲淵氏(これらは皆、武川衆)に嫁したとされる。このうち男系の子孫を残したのが昌房と房勝で、前者の後では、その子の「惣三郎正房−惣左衛門光信……」と続いたとされる。房勝の後では、小田原の北条氏直に属し、以下は「彦八郎房家−源右衛門房頼−源三郎房次。また、彦八郎の弟、喜八郎−太郎房清」と続くともいう(『諸氏本系帳』「馬場系図」では、喜八郎の名がなく、房清と房頼とを兄弟とする)。

 いまもなお、信房の子孫と称する家が各地に散らばるとされ、上記の江戸幕臣や親藩大名家臣の他、甲州山梨郡朝気村(民部信忠の子の丑之介〔与惣兵衛信次〕の子孫とも、駿河守の子孫ともいう)、和泉国淡輪(大阪府岬町)、越後国松岡(新潟県新発田市)、下野国上三川(栃木県上三川町)の郷士となったと伝えるが、これらの個別の真偽は不明である。
 
 馬場八左衛門忠時の系譜
 貴家の祖先とされる馬場八左衛門忠時は、上記で見てきた系譜類には、馬場美濃守の子孫のなかに見えない事情にある。もと穴山衆にあって、小田原藩の大久保家中に預けられたというから、武川衆とは異なる系譜をもっていた可能性もある。実名とされる「忠時」も、美濃守信房の一族には見えない命名であって、木曽氏系の馬場氏の三郎勝忠・彦八郎氏忠親子に通じる要素がある。この系統には「彦八郎」の通称が多く見えるから、「八左衛門」(八郎左衛門)はこれにも通じる。
 家伝では、上記で見た丹後守忠時の子孫とされ、武田信虎の時の伊豆守虎貞(その兄弟に美濃守信房をあげる)の子孫であって、虎貞以下は、その子「丹後守信忠−五郎左衛門信輝−丹後守八左衛門忠時」として、忠時は法名牛白で、文禄四年(1595)七月に死去という。西八代郡富里村の青雲院は天正四年(1576)に馬場八左衛門牛白の開基といい、同院には八左衛門が勧請した主人穴山殿一家(梅雪の一家五人)の木像があるとされる。八左衛門の娘にかかるという妙立寺や、八左衛門の弟という五郎左衛門の開基という東前院も富里村にあって、この一族の居住地が富里村に在ったことが分かる。
 馬場八左衛門は、永元年(〔1558〜70〕の誤か。年も疑問)の川中島合戦にあっては、穴山梅雪の手勢二百騎のうちの七人衆のなかにあげられるという。遠州味方ケ原や三州長篠の両合戦にも参加したと伝える。常葉村の馬場八郎兵衛家の所蔵文書には、元亀四年(1573)正月付けで馬場丹後守が味方ケ原で武功をたてたという武田家感状がある。
 この馬場八左衛門は、こうした活動年代から馬場美濃守の活動時期とかなり重なり、同世代か子の世代頃に位置づけられるから、年代的には伊豆守虎貞の子ともいう異伝のほうがまだ妥当であろう。しかし、伊豆守虎貞に子がなかったからこそ、美濃守信房が馬場の本家を継いだのだとみられ、地域の差異から見ても、こうした系譜は信頼しがたい。
 馬場八左衛門は、梅雪・勝千代の没後に穴山の諸家臣が武田万千代信吉(家康の子)に属したとき同じく動き、家老となって三千石を賜ったとされ(万君古帳)、信吉の死後は改易となって大久保石見守長安に仕え、慶長十八年(1613)にはその事件に座し大久保忠隣に預かり人となり、翌年に大久保忠隣の旧悪を訴え、忠隣は改易となり、八左衛門は尾州に幽居したという。その嫡子の孫兵衛が水戸の徳川頼(ママ)卿の家臣となり、弟の八郎兵衛が農民となった、とも伝える(『続峡中家歴鑑』巻之二〔1892刊〕など)。
 信州常葉の馬場氏に同じ様な通称の人が歴代続いて混乱があり紛らわしいが、先に掲げた常葉院の牌子の記事から見て、「@馬場丹後守忠次−A八左衛門忠信時とも)−B八郎左衛門忠」(AかBの実名・忠時のどちらかに誤りがあろう)というのが実系であって、これら三代のいずれも「八郎左衛門」を通称にしたのではないかとみられる。
 馬場八左衛門忠時(Bの八郎左衛門)の子の左馬助某・左兵衛某の兄弟、左馬助の子の七郎左衛門某は、源英公(高松藩祖松平頼重)に仕えたとされる。左兵衛某の養子、孫兵衛光惟も当初、源英公に仕えたが、その子が水戸の後嗣となったことで水戸に来て、義公光圀に仕えて二百石を受け、その後は絶家となったとされる(『水府系纂』九)。貴家の系統は高松藩に残った七郎左衛門某の後裔になるのであろう。
 
 以上、試論的に記述してきたが、不分明な点が多いので、別途新たな史料が分かると、見方が変わってくる可能性を留保して、一応、この辺で終えておく。
 
 (08.11.16 掲載)
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