豊後清原氏の系譜

(問い)  豊後国玖珠郡帆足庄発祥の氏族で、帆足氏があります。出自は清原氏といいますが、どの程度信憑性があるんでしょうか?
 
 (Ick様より 07.5.9受け)
 

 (樹童からのお答え)

1 帆足氏と豊後清原氏の概説
 平安後期から戦国期まで、豊後国の山奥の玖珠郡を中心に、居住地の名に因み帆足、長野、飯田などを苗字とする清原姓と称する武家が繁衍して、豊後清原氏とか豊後清原党、長野党と呼ばれ、主な家が十二氏とも二四氏(玖珠衆二四家)ともいわれます。そのなかでは、玖珠郡帆足郷(現玖珠町帆足)に起った帆足氏が有力な家の一つであり、惣領家ともいうべき長野氏が一旦滅んだ後は、中心的な存在といえます。江戸後期の儒学者帆足万里(1778〜1852)などを出して有名です。豊後清原氏といわれるように、その初祖を平安後期の清原正高として異伝がなく、以下連綿として血脈を伝えます。
 この清原一族としては、長野、古後、山田、大隈、太田、志津利、原口(一に原田)、綾垣、今村、平井、須恵、粟野、小田、引地、横尾、魚返、飯田、帆足、大窪、森、岩室、片平田、松木、薗田、小野、美良津、恵良、下恵良、武宮、野上、右田などの苗字があげられ、これら苗字のもととなった地名が玖珠郡の玖珠町・九重町の玖珠川上流沿岸に連なって存在します。
 鎌倉期の弘安八年(1285)十月の「豊後国図田帳」や蒙古来襲時には「蒙古襲来絵詞」「豊後国守護大友頼泰召文」に帆足六郎兵衛通貞など清原一族が見え、南北朝争乱期にもその活動が見られます。戦国期には、豊後守護大名大友氏の家臣団のなかに豊後清原諸氏が見え、一族の松木・原口等の諸氏が海岸部の宇佐地方まで進出して、宇佐の地頭三六人衆の中にも見えます。天正十四年(1586)からの新納忠元を将とする島津軍の攻勢に対しては、帆足鑑直が妻の古後氏とともに奮戦し、森・魚返・中島・志津利の一族諸氏と共に玖珠郡の角理()城及び日出生城を守って、翌年には奇襲策により島津軍を敗退させました。その後裔は豊後日出藩主木下家の家老としてあり、帆足万里は家老を務めた帆足兵部通文の子として生まれ、次兄通億は家老となり、万里(文簡)自身も天保年間に家老に任じて藩政改革に従事しています。
 豊後清原氏の系図については、『続群書類従』等に所載の「豊後清原系図」、『碩田叢史』の「豊後諸侍系図」に所載の「清原姓長野氏系図」「葎原氏系図断簡」、東大史料編纂所蔵『豊後森系図』などかなり多くの系図が知られますが、管見に入ったかぎり最も詳しく信頼性があるとみられるのが、「山田家系図」であり、これは宮内庁書陵部所蔵の『続華族系譜』第三七冊に所収されます。これらのいずれの系図にせよ、精粗マチマチであっても名前の表記等で基本的にはほぼ同じ内容となっております。ところが、これら系図史料に対して、詳細な系図検討が殆どなされてこなかったようであり、管見にはそうした分析・検討は入っておりません。
※『茜色の伝説(豊後清原氏の始祖)清原正高私考』(佐野素子著、1981年)、『豊後清原一族帆足氏の盛衰と末裔たち』(角井仁紀著、2005年)という著作があるとのことだが、現在まで読む機会がない状況でもある。 

 ご質問を契機に検討を加えてみましたところ、発生段階ともいえる平安後期の史料に乏しいため、検討及び判断はなかなか難しいのですが、豊後清原氏が天武天皇後裔の清原真人姓とするのは疑問が大きいという結論に導かれました。以下に、その要点を記すことにします。
 
 
2 豊後清原氏の系譜検討
 
 (1) 帆足氏の初期段階の動向
 清原正高にはじまる系図のうち、史料にこの一族が現れるのは子孫の第三世代(曾孫)とされる帆足太郎是次であり、次にその子(一説に実弟という)の帆足六郎左衛門尉通良とその諸子であって、この時期には既に清原姓で現れる。すなわち、系図では、始祖清原正高の子に正通(清大夫)がおり、その子の代に長子の助通が長野・古後二郷を相続して長野太郎大夫と号したといい、次子の通成が山田郷を領して山田次郎といい、三子の通次が飯田・帆足二郷を領して飯田三郎といったとされるが、通次の長子に帆足太郎是次があげられる。長子の助通の系統は、その子の世代で一族内の争いで滅び(叔父の道のために滅ぶと系図に記されるが、所領相続からみると、叔父の通次ではなく、従兄弟の通の子孫に所領の長野・古後が継承されるから誤記か)、通成及び通次の子孫が後世まで続くことになる。
 『平安遺文』所収の保安三年(1122)十一月十九日付文書には、「散位清原」が嫡子の清原惟次に対し先祖伝来の豊後国玖珠郡保足郷を譲ったことが見える。清原惟次は系図の帆足太郎是次にあたり、その父の「散位清原」は通次のことと考えられるが、この中で彼らが、保足郷を先祖から相伝した所領と認識していることが分かる。通次の父祖が所領を獲得したということでもある。次に、同書所収の大友文書治承二年(1178)七月八日付文書には、清原道良が帆足郷内の大隈村を嫡子家道と良時に譲ったと見える。清原道良は系図に見える帆足六郎左衛門尉通良にあたるが、両文書の期間の五六年のうちに二世代が経過したこととなり、これは妥当な期間経過といえよう。
 大友文書には、承久の乱時(1221)に家通・通綱父子が京方で活動したと見える。さらに、同文書に所収の関東下知状には、延応元年(1239)帆足清三郎家近が父・道西(家道のこと)の勘当を受け、家近・通綱兄弟の相論を裁いている。これらの史料により、少なくとも是次から家近・通綱兄弟までの四代が確認される。通綱の名は系図には見えないが、おそらく寛元三年(1245)に帆足の若宮八幡宮を創設したと伝える帆足十郎広通の父であって、系図では欠落したのではないかと推される。
 広通の子が図田帳や絵詞に見える六郎兵衛通貞であり、その曾孫・通種が観応元年(1350)に濫妨を働いたとして訴えられている。系図に帆足氏が見えるのは、ここまでである。
 
 (2) 始祖正高の活動年代
 こうして見ていくと、約三〇年を一世代として世代交代をしてきたことが分かり、この年数で先祖に遡上していくと、始祖の正高は十一世紀中葉頃(1130頃〜1060,70頃)に活動したことになる。豊後清原氏の系図では、正高は清少納言の兄弟の孫とされており、清少納言は正確な生没年が不明も、960年代に生まれて1020年代に没したとみられているから、年代的なつながりは妥当のように見える。正高の父祖については、清少納言の兄の大宰少監致信の子の定信の子という所伝と、その弟の僧戒秀の子の僧定額の子という所伝があるが、致信は長和六年(1017)に被殺、戒秀は長和四年(1015)に入寂と伝えるから、こうした系譜なら具体的な世代配置で考えても、ほぼ妥当ということになる。
 この場合、豊後清原氏が京の清原真人氏から出たとしてよさそうであるが、問題はそう簡単ではない。というのは、正高がどのような事情で京から豊後の玖珠郡までやってきたのかがまったく不明であり、それとともに正高の活動年代についても矛盾する様々な所伝があるという事情があるからである。
 正高は、但馬介となった後に豊後国玖珠郡に来て、地元の豪族である郡司矢野久兼の婿となり豊後清原氏の祖となったと伝えるが、これでは何も説明にならない。豊後介となって豊後に来て役目が終わった後に同国玖珠郡に止まったともいうが、豊後介任官の裏付けがない。玖珠郡には、醍醐天皇の孫娘の小松女院との恋を朝廷に咎められた少納言清原正高が豊後に流されたという伝承もあるが、小松女院は架空の人物で後世の虚構にすぎない。正高が豊後に流されたという時期を天延元年(973)とも寛平二年(890)とも伝え、十一世紀中葉とは関係のない時期がいわれている事情にある。こうした諸疑問が出てきた以上、虚心に多角度から正高の系譜について考え直す必要が出てくる。
 
 (3) 正高の系譜を考える視点の第一  神官の帆足長秋
 豊後清原氏の先祖の系図を考える第一の視点として、国学者帆足長秋(1757〜1822)の系統がある。帆足長秋は、肥後国山鹿郡久原村の天目一神社(現社名は薄野一目神社。熊本県山鹿市久原字薄野に鎮座)の神主で、国学者であった。十八世紀の後葉に、帆足長秋と娘の京の親子は数度、伊勢松坂の本居宣長を訪ね、『古事記伝』など宣長の著書を写した。全巻揃いの古事記伝写本は松坂以外では山鹿に残るのみで、県重要文化財とされる。それ以外の写本は現在では散逸したものの、奥書だけは記録が残っており、宣長全集をほとんど全部写しているのではと思う程、膨大な量の書写だったことが分かる。この持ち帰りにより、宣長の学問を九州に普及するのに長秋は功績があった。娘の帆足京は十五歳の若さながら、見事な書体で古事記伝を書き写し、宣長を驚かせたという。山鹿市には、「帆足長秋、京先生像」と「従五位下行下総守 清原真人長秋之墓」が残るから、長秋が清原真人姓を称していたことも知られる。
 天目一神社は式内社ではないが、鍛冶神天目一箇命を祀る県内屈指の古社(旧村社)であって、山鹿市の中心部から北東へ四キロほどの薄野に位置する。六世紀前葉の継体天皇朝に高天山(久原の北西にある震岳〔ゆるきだけ〕)の神主・若山連ママ)が創祀し、その後裔の吉田氏(同社の近隣に吉田の地名がある)が奉斎したといい、何時の時点にどのような事情で帆足氏が祠官となったかは不明であるが、玖珠郡から遠く離れた肥後の古社の祭祀に帆足氏が関与したことは留意される(あるいは、古族の後裔が同族の意識で帆足氏を名乗った可能性もある)。同社は一般に一ツ目神社と称され、その近隣には鉄滓の出る地や旧銅山、蒲生という地名、彦岳権現もあるから、その奉斎者は鍛冶部族の天孫族の系統ではないかとみられる。
 肥後国山鹿郡には長野村もあり、この地からは隈部氏一族(清和源氏頼親流の宇野氏から出たと称するが、これは仮冒で、肥後古族の出か)の長野氏が出ている。長野修理亮右俊の玄孫の運俊は清左衛門と『事蹟通考』などに見えるから、なんらかの形で豊後清原氏とも関係があったものか。阿蘇氏一族にも、阿蘇南郷長野城主であった頼高(頼孝で、阿蘇大宮司友孝の弟)の後に長野氏が見える。
 
 (4) 正高の系譜を考える視点の第二  肥後の葉室・笠氏
 中世の肥後の大族に清原正高の後裔と称する笠氏、のちに葉室氏がある。葉室氏は阿蘇郡小国郷の上田村の西原城(阿蘇郡小国町の東南部)に代々居住し、活動は元寇時の葉室太郎高善や南北朝争乱期の葉室左近将監親善などに見える。
 その系図は『系図綜覧』に「笠氏系図」として見えるが、記事内容には多すぎる世代・官職僭称に加えかなりの混乱があって、なんらかの調整・解釈を加えなければ、そのままでは使用できない。こうした制約があるものの、系図を見ると、笠氏から帆足や大隈という豊後清原氏一族にある苗字や清田・日出という玖珠郡の地名を名乗る者が出ており、やはり豊後清原氏の同族とみてよさそうである。上記の事情のため、葉室氏の系図の原型を正しく探ることは困難だが、敢えて試案を出してみると、おそらく清原正高の子の正通の弟に正長がいて、その子に玖珠太郎通資(道助)、その子に親通、その子に善保と続いて、善保は阿蘇大宮司の縁座により平安末期の承安年間(1171〜75)に肥後の小国郷に遷住したものか。善保以下の鎌倉期の葉室氏については、「葉室親善申状」や『事蹟通考』に見える系譜でほぼ妥当か。
 葉室氏が当初に笠氏を名乗ったのは、善保の小国郷遷住と関連して、阿蘇神官に見える笠朝臣と深い関係があろう。すなわち、阿蘇郡の阿蘇神社の社家には、阿蘇氏(宇治宿祢、阿蘇公)、草部宿祢氏、山部宿祢氏とともに、阿蘇山上の社である天宮社(阿蘇山上神社。阿蘇市一の宮町黒川)の祝として「笠朝臣」姓の今村氏があり、重要神事には天宮祝が常に座の中央に着座することになっていた。ふつう笠朝臣といえば、吉備臣一族の笠朝臣が想起されるが、なぜ阿蘇神官に笠朝臣があって重要な位置を占めたのか、疑問がある。
 多少の推測を巡らせれば、肥後南部の葦北国造は吉備一族の出自という系譜を持っていたが、実のところ、阿蘇国造一族の山部氏の出自であることが景行紀から窺われ、こうした事情から山部氏の最有力者が葦北国造の系譜自称を踏まえて、「笠朝臣」と称したのではないかとみられる。山部氏の系譜もはっきりしないが、阿蘇祖神の健磐竜命の妃・阿蘇都媛命の兄弟の新彦命(草部吉見神の子)の後裔といい、阿蘇氏の祖・速瓶玉命が小国出身の妻神・雨宮媛命との間に生んだ高橋神・火宮神ともいわれる。
 天宮社は阿蘇山上(噴火口)にあって、『阿蘇家伝』の表記にもあるように「雨宮=天宮」でもあり、要は水神の罔象女神すなわち宗像三女神に因む神社であった。その子孫神の高橋神・火宮神の二柱は、小国郷を開拓した神として小国町宮原の宮原両神社(旧県社)で母神の雨宮大明神とともに祀られる。宮原の東方近隣には、葉室氏が拠った上田村が位置する。火宮神とは火を起こす鍛冶の神とみられる。また、玖珠郡の旧町田駅付近の小倉神社は阿蘇の神を祀り、高橋という地名も同郡に見える。
 
 (5) 正高の系譜を考える視点の第三  玖珠郡の祭祀と伝承
 先に触れた玖珠郡の伝承では、清原正高を慕って京から因幡を経て十一人の侍女とともに九州にやって来た小松女院は、小国から玖珠郡の小田村に出て、三日月滝のところで、清原正高が当地の豪族矢野久兼へ入婿し子をもうけたことを聞き、絶望のあまり侍女とともに三日月滝に投身自殺をしたと伝える。その霊は宗像三女神をまつる嵐山滝神社玖珠郡玖珠町大字山浦、小田)の相殿に祀られるという。この伝承は、小国、宗像三女神(=天宮)に通じ、小松女院と十一人の侍女は阿蘇十二宮に通じるものとみられる。元宮の嵐山滝神社の玖珠川対岸には、正高を祀る桜岡滝神社(同町大字戸畑)もある。
 二代目正道の廟所は九重町大字野上の鶴神社豊後中村駅の近隣)といわれる。ところで、阿蘇の祖神建磐竜命は鷹と鶴を愛用したといい、阿蘇の人々は鶴を大切にし殺してはいけないとしてきたもので、阿蘇家の正紋は「違い鷹の羽」で、裏紋は鶴とされる(村崎真知子著『阿蘇神社祭祀の研究』)。これらの事情から、正道の廟所が鶴神社といわれるのは、その出自を示すものであろう。
 なお、玖珠郡の神社には、旧宝泉寺駅南方に菅原神社があり、天満神社が玖珠郡九重町大字右田にあるが、葉室氏が菅原道真の子孫とも伝えることや、肥後国山鹿郡の一目神社が境内社として菅原道真を祀る天満宮をもつとともに飛地境内社として菅原神社三社ももつことと関係があるのかもしれない。
 
 (6) 一応の結論
 このように見ていくと、玖珠郡に初めて来住したという清原正高は、天智天皇後裔の皇孫ではなく、肥後の阿蘇国造一族の出で阿蘇神官の笠氏の系譜を引くものであり、阿蘇郡小国からやってきたとみるのが自然である。
 小松女院の伝承に見るように、また、現在は廃線となったが、かつては旧国鉄宮原線が玖珠郡九重町の恵良駅から阿蘇郡小国町の肥後小国駅までを結んでいたように、玖珠郡と小国郷とは地理的に密接な関係があった事情にある。
 この沿線の小国町東北部には、北里柴三郎博士で名高い北里氏が中世土豪で阿蘇家の重臣としてあった。北里氏は、清和源氏頼親流と称したものの、実際には大神姓であったことが玖珠郡粟野(現九重町)の牧口八幡社の棟札から知られる。それによると、文明四年(1472)四月二八日付けの棟札銘には、「大檀那阿蘇大宮司宇治惟忠、大願主宇治朝臣惟歳、政所大神兼義−北里氏」とあって、中世の玖珠郡は阿蘇大宮司の勢力圏にあったことが知られる。こうした状況は、小国の両神社などから小国郷が阿蘇祭祀圏にあったと見るように、古代から続いていたものであろう。玖珠郡帆足の若八幡神社を帆足氏が創祀したことは先に述べたが、一族の松木氏が居た九重町松木には宝八幡宮がある。
 
 最後に、正高がなぜ清原真人姓を称したかの事情は、相変わらず不明のままである。ただ、遠く離れた遠江国山名郡に奇妙な暗合があるので、参考のため付記しておく。それは、遠江国一宮とされる小国神社の神主は清原真人氏であったことである。『朝野群載』巻六に所載の「神祇官移」には、永保二年(1082)十月に小国社の神主に清原則房を補任したと見える。
 遠江国の式内社である小国神社が鎮座するのは現・周智郡森町であり、同社末社に塩井神社があり、近隣の森町天宮には天宮神社があって、欽明天皇の時に、九州筑紫国の宗像神社の祭神を遷し祭ったのが創祀とされる。近くの太田川流域には飯田の地名も見えるが、ここであげた「小国、森、塩井、天宮、太田、飯田」は、玖珠郡及び阿蘇郡で見える地名と神社である。 遠江国一宮では十二段舞楽が伝統的に伝えられ、大祢宜の鈴木左近家は代々舞楽師範家であったというが、肥後の神楽歌に上記一目神社が読み込まれ(宣長の『玉勝間』)、豊後の玖珠郡では上記嵐山滝神社などで神楽が盛んに行われてきたという事情がある。
  遠江国造が天孫族の物部氏族の流れを汲んでいたことと、阿蘇氏族も天孫族から出たという事情は共通するが、それだけで類似現象が起きるのであろうか。いずれにせよ、阿蘇と遠江とのつながりは興味深い。
 
   (07.6.24 掲上)
 
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