美濃森氏・森可成の出自 (試論)(問い)森可成や蘭丸を輩出し、後に播磨の赤穂藩主、三日月藩主となった清和源氏義隆流を称する美濃の森氏ですが、貴HPの清和源氏概観には「清和源氏でなく仮冒で別族出身」とあります。
三日月藩主森氏の末裔の方もご自身のHP上で「清和源氏出身というのは家伝的な内容であり史実と断定するのは難しい」と考えておられるようです。
彼らの真の先祖はどのような古代氏族なのでしょうか?お気づきの点がございましたらご教授お願いいたします。
(宗次郎様より、09.2.12受け)
(樹童からのお答え)
美濃出自の幕藩大名の森氏については、これまで『藩翰譜』『新撰美濃志』などの記事により、『姓氏家系大辞典』も鈴木真年編『華族諸家伝』も清和源氏として記述していますが、清和源氏の源義家流という系譜を裏付ける史料はなく、きわめて疑わしいものです。そうすると、もともと美濃にあった古族の末裔とみられますが、美濃には景行天皇の子の大碓皇子の後裔と称する守君(後に守宿祢、盛宿祢)という古族がおり、これが森氏の実際の出自ではないか(少なくとも源流ではないか)、とみられます。以下に、具体的に検討してみます。(以下は、である体で記述)
1 森氏の活動が現れるのは信長に仕えた森三左衛門尉可成からであり、元亀元年(1570)に朝倉・浅井勢に攻められて近江坂本で討死した。これが森氏中興の祖であって、その子が豪勇で名高く鬼武蔵の異名をもつ長一(長可)であり、その三人の弟、蘭丸長定(成利、可定)・坊丸長隆・力丸長氏は本能寺で信長とともに討死し、その後、美濃国可児郡の金山城主(現可児市兼山)であった武蔵守長一も、舅の池田勝入(恒興。俗に信輝)とともに秀吉の長久手合戦で討死にして、その跡は末弟の美作守忠政に受け継がれ、関ヶ原合戦後には美作津山十八万石の藩主となっており、その子孫が赤穂藩主・三日月藩主の家である。
森三左衛門尉可成には弟に対馬守可政(宗兵衛。秀吉・家康などに仕え、後に津山藩家老)がいたことは知られるが、その父の名は左衛門尉泰政とも越後守泰可とも越後守可行(初名可重)、あるいは可勝、可秀ともいって名前に異伝が多く、濃州羽栗郡(当時は尾張国葉栗郡)の蓮台(岐阜県羽島郡笠松町田代)にも居住したことが知られるものの、その先祖は二通りないしそれ以上の系譜を伝える。
『藩翰譜』では、源義家の六男陸奥六郎義隆の末葉といい、その子孫の美濃国住人左衛門尉泰家が守護土岐頼貞に属してその被官であったが、天文中に土岐(明智)定明が亡びたときに泰家九代の孫・左衛門尉泰政が戦死しており、これが三左衛門尉可成の父と記される。『新撰美濃志』もほぼ同様で、義家九代の裔孫という左衛門尉泰家からはじめて、泰家が土岐頼貞に仕えて暦応中に戦功があり、その子「泰朝−泰広−定泰−泰成−成清−成泰−泰政」とし、泰広のときに土岐明智氏に属し、以降の代々は明智氏に仕えたと記し、泰政は明智氏滅亡のときに流浪し、その子が越後守泰可だとする。真年の『華族諸家伝』のほうは概ね『美濃志』の記事に拠るとみられる。
明智氏の家臣に森氏があったのはほかにも所伝があり、弘治二年(1556)の守護斎藤氏による明智攻めの際、明智城では城将明智兵庫頭光安、弟の次左衛門光久があり、これに従う一族郎党のなかに森勘解由など約八五〇人が籠城したと伝える。 ところが、『寛政譜』所載の家譜には、同じ義家流といいながら、南北朝前期の興国四年(1343)に卒したという伊豆守氏清を祖にして、「頼俊−頼師−頼長−頼継−可光−可房−可秀−可行−可成」という通字に「可」を用いる系譜も伝えるが(東大史料編纂所蔵の『森家系譜』と同じ。同『森氏系図』にも近い)、接合点にある伊豆守氏清の存在が不明であり(『尊卑分脈』にはその父とされる光氏までしか掲載されない)、かつ一世代一人の直系しか伝えない事情や通称の不自然性もあり、また森氏が仕えた土岐一族関係との所伝の具体性からみても、『美濃志』の記事のほうが妥当ではないかと考えられる(ただし、左衛門尉泰政と越後守泰可の関係は親子でなくて、兄弟の可能性がある)。
なお、このほかにも、森頼貞の子孫とする他の系譜(@泰朝−定朝−繁朝−定久−泰家とするもの〔『諸家系図』巻36所載の森〕、A義泰−泰広−泰国−泰時−泰宗−泰定−泰富……(中略)……勝政−可勝−可成とするもの)もあるが、『尊卑分脈』の記事(@では定久以下が見えず、Aでは泰広以下が見えない)と照らしてみると信頼性に欠くようである。
2 こうして見ると、上記の諸系図のなかでは、南北朝前期の左衛門尉泰家からの系譜が比較的に信頼できそうであるが、その先が不明となってくる。真年の『華族諸家伝』では、陸奥六郎義隆(森冠者)の子の伊豆守頼隆が信州若槻に住してその七世の子孫が左衛門尉泰家だとするが、この中間世代の系譜が不明ないし諸伝あるうえ、伊豆守頼隆は『東鑑』に毛利三郎(毛利冠者)頼隆と見えて、その嫡系は長男の下総守頼胤の後の信濃の若槻氏であり、その弟の伊豆守頼定の後が森氏を名乗ったとされるものの、『尊卑分脈』に見える森一族の居住地が不明である。森の苗字の起源地は相模国愛甲郡の森庄(「毛利」とも書く。神奈川県厚木市南部で、毛利台などの地名が残る)であり、清和源氏森一族の居住地はこの地か信濃ではなかったかと推される。
そうすると、信濃あたりからどのような事情で美濃に遷住したのかの事情が不明である。むしろ、居住地が変わらないで、そのまま美濃古族の末流としたほうが自然であろう。そうすると、北美濃には牟義都国造の身毛津君(牟義公)の一族に守君がおり(景行紀、『姓氏録』河内皇別など)、後に守宿祢(盛宿祢)姓を称したが、この子孫には仁明源氏と称した美濃国可児郡・方県郡の花房(纐纈)氏があったとみられるから、花房氏の同族から森氏が出たとみるのが比較的自然なものとなろう。
森左衛門尉泰家とほぼ同時代の人に、守護土岐頼遠に属して暦応元年(1338)に討死した纐纈〔はなぶさ、こうけつ〕康俊がおり(『美濃国諸家系譜』第五冊)、康と泰とが通じることから、両者は近親関係にあったのではなかろうか。左衛門尉泰家の子の又太郎泰朝は、観応二年(1351)武芸八幡(むげはちまん、旧武儀郡〔現関市〕武芸川町。大碓命を祀り、武芸谷十ヶ村の総社)の社殿を再興したと伝え、その子孫の森蘭丸など森一族も深く関与したというから、これも牟義都国造一族との所縁を窺わせる。「森可成・坂井政尚連署状」という文書も武芸八幡宮に残っている。
守公氏とその部曲の守部は美濃に広く分布して、山方郡・加毛郡の戸籍などに見えており、可児郡駅家郷の戸主として守部麻呂の名前も見える。美濃の隣の尾張にも在って、熱田神宮祠官の焼夫森氏は守公姓と伝える(『姓氏家系大辞典』)。
※纐纈氏について若干附記しておくと、もとは「ククリ」と訓み、景行紀四年条に見える景行天皇が美濃御幸をし八坂入彦皇子の娘・弟媛に妻問いをしたとされる泳宮(ククリのみや)のあった地、すなわち可児郡久々利村(現可児市)に起こったもので、早く『平治物語』には纐纈源五盛安の名が見える。久々利には土岐一族の久々利氏がおり、その少し北の明智にも明智氏が居た。明智のまた少し北が兼山で、これらは皆、いま可児市になっており、こうした地理状況からみて、森一族が土岐明智氏に仕えた事情もうかがわれる。 3 ただ、清和源氏の流れを汲む森(毛利)氏と幕藩大名の森氏とはなんら所縁がなかったとも言い切れない事情があるので、併せて付記しておく。
尾張国中島郡の石田村の名族に毛利氏がおり、これは太田亮博士もいうように、清和源氏森一族の流れではないかとみられる。真福寺文書に延徳元年(1489)の石田郷毛利掃部助実忠が見え、明応二年(1493)の富士山興法寺の大日鉄像銘文にも檀那等毛利広氏が見えており、『新撰美濃志』にも毛利の家譜によるとして、「掃部介広盛(元和二年病死)−金右衛門広義(名古屋の世臣)−掃部広豊」という系譜と記事がある。『戦国人名辞典』に拠ると、毛利広盛(?〜1616)は小三郎・掃部助といい、信長・信雄・秀吉に仕えたが、父は美濃斎藤氏の臣、毛利掃部助広雅だと記されるから、美濃・尾張にあって代々「掃部助」を名乗ってきたことが知られる。
また、清和源氏森一族から出た十郎信義は、森次郎頼貞(頼定)の子で尾張国海部郡戸田村に住んで戸田氏を称したと伝え(「中興系図」にも同様な所伝)、家伝に森越後守可秀の末男・越後守成恒(上記の泰政の末弟ということか)の子の主計直高が外家の号の戸田氏を称したとあって、その子孫は旗本として『寛政譜』に見える。なお、この尾張戸田氏の流れを汲むのが三河田原の大族で幕藩大名の戸田(十田)氏だという系譜もあるが、これは仮冒である。
『尊卑分脈』を見ると、森伊豆守頼定の子、十郎信義の兄に「森三郎頼泰−太郎資氏−孫二郎泰氏(実父は資氏の弟の二郎基泰か)」という流れもあり、仮に暦応頃の森左衛門尉泰家が孫二郎泰氏の子か孫に置かれるのなら、年代的にも命名的にもうまくつながる可能性もないでもない。海部郡戸田村に住んだ森氏の一族が中島郡にあったとすれば、地域的には比較的自然であろう。上記の石田村の毛利氏は、二郎定氏の孫・光重(後に義重。七郎光氏の兄)の子孫という系譜を伝える。『姓氏家系大辞典』には毛利頼隆の兄の義広の後裔とする系譜を載せるが、これは世代的も疑問である。
中島郡にはほかにも森氏もあり、一宮市の真清田神社への寄進物として、康正元年(1455)十一月の銅鰐口銘に森八郎右衛門尉信康の名が見え、葉栗郡飛保の曼陀羅寺文書には、十六世紀前葉の永正年間の人として森民部安宗入道浄祐や森民部広吉などが見える(加藤國光著『尾張群書系図部集』)事情があるから、「広」を通字的に用いた上記の毛利氏につながる可能性もある。康も安も、「泰」に通じる。 これらの事情から考えると、清和源氏森(毛利)一族から出て、美濃の守公の末裔の家に入ったのが森左衛門尉泰家であったという可能性もないではなく、この辺に多少の留保は残しておきたい。
4(一応の結論)
いずれにせよ、史料が乏しいこともあって、傍証的なものにより判断せざるをえないが、幕藩大名の森氏は美濃古族の末裔としておくのが比較的無難な見方だと思われる。
そう考える材料に日光東照宮にある二つの献納燈籠がある。第一に、全国の諸大名がコ川家康の菩提を弔うために献納した燈籠があり、そのなかには津山藩主・森忠政が奉献したものもあって、元和三年(1617)四月十七日の日付と「美作侍従 藤原朝臣忠政」とが刻記されている事情もあるから、それまでは「藤原姓」を称していた。『寛政譜』や『寛永譜』(寛永諸家系図伝)の提譜のときには、森氏は源姓を名乗っていたから、それまでに先祖の系譜を整えたことも窺える。
これと軌を一にして、三代将軍家光の墓がある日光大猷院には、忠政の孫で後嗣の津山二代藩主森長継によって燈籠が献納され、そこには「美作国主 従四位下侍従源姓森氏長継」と刻まれる。 ともあれ、森氏の先祖が具体的に美濃のどこに何時から居住したのか、一流の祖とされる森泰家の父祖がどうであったのかなど不明な点が多く、これらが分かってくるところで新しい知見が浮上する可能性がある。 (08.2.16 掲上、2.17及び8.18追補)
関連して、備中新見藩主の関氏の先祖 森氏の系譜検討を補うものとして、関氏系譜の検討もご覧下さい。 |
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