溝口秀勝の先祖と家系

溝口秀勝の先祖と家系

(問い)武家華族溝口氏は清和源氏義光流逸見氏の家系を称しています。貴HPの清和源氏概観のページでも溝口氏は「清和源氏出自という点では、比較的信頼がおけそうである」と記されていますが、同ページの武田太郎信義の兄弟から出た名字の一覧の中に溝口姓がありません。
  やはり「具体的な系譜は家伝通りで はないものもある」というように武家華族溝口氏は逸見氏の流れではない別流の清和源氏の出自なのでしょうか?
 
 (宗次郎様より、08.10.31受け)

 (樹童からのお答え)

 幕藩大名溝口氏は、藩祖の金右衛門(後に伯耆守)秀勝が立身出世をしたもので、はじめ丹羽長秀に仕え、戦功を認められて信長の直臣となり、次第に立身して若狭国大飯郡高浜(現大飯郡高浜町) で五千石を領し、さらには賤ヶ岳戦役の功で加賀大聖寺四万石の大名となり、次ぎに越後新発田に移って加増され六万石となり、関ヶ原合戦では東軍に属して家 を保ち、近世まで続きます。
  その系譜については、ご質問を受けて検討したところ、家譜にいう武田一族の逸見氏後裔という系譜は確認できず、むしろ疑問符も つき、たいへん難解といえます。そこで、とりあえずの検討を以下に記します。
 
 明治になって宮内省に提譜された『溝口家譜』には、伯耆守秀勝について、父を尾張住人の溝口彦左衛門尉勝政とあげ、その先祖は逸見又太郎義重が承久の功により美濃国山県郡大桑郷の地頭に補せられてから子孫代々続き、後に尾張国中島郡溝口郷の地に遷って、これに因んで溝口を名乗ったとある(『藩翰譜』も同様)。勝政以前の世数事歴は未詳と、家譜には記されて、具体的な先祖を記さない。これは、かなり正直な申告といえよう。
 そこで、逸見氏後裔と称する系譜から検討を加える。
 『尊卑分脈』には、甲斐武田の一族に逸見又太郎義重が見え、武田信義の兄弟・逸見太郎光長の曾孫にあげて、承久の乱の時に美濃国大井戸で功あり同国大桑郷(山県市大桑一帯)を賜ったと見える。大桑郷を相伝したのが子の又三郎重氏であり、その子の七郎氏義さらに七郎太郎惟泰と同地は伝えられたようだが、その後は見えない。この一族に溝口が出たことも同書からは不明である。ただ、溝口という地は同じ山県郡にあり(現岐阜市溝口)、大桑の東南約十余キロほどの長良川北岸に位置するから、まんざら根拠がないというわけでもない。
 ところで、秀勝の家が居たのは尾張国中島(海東)郡の溝口で、いま愛知県海部郡東溝口から稲沢市西溝口にかけての地域である。尾張には各地に溝口氏が居たとされ、『張州府志』『尾張志』等に拠ると、春日井郡熊野荘に溝口左京進、海西郡赤目村(現愛西市)の溝口富之助(信長臣)、乙子村の溝口左近などがいた(『姓氏家系大辞典』など)。『尾張群書系図部集』に記す一伝では、溝口富之助と溝口左京進とは兄弟であって、兄弟の父が同名の富之助であり、兄の富之助が彦左衛門勝政の父とも伝え、この系統の居地が中島郡西溝口→春日井郡豊場→海西郡落伏村→溝口と変遷したという。
 また、溝口秀勝が領主であった若狭高浜の地に関連して、その元の領主が守護武田氏の一族から出た逸見駿河守昌経というのも、美濃の逸見氏の系を称した基礎にあるのかもしれない。さらに、家譜の一伝には、逸見又太郎義政が常陸国鹿島郡大桑郷溝口村を賜り、それより代々常陸に住んで、戦国末期の勝政のとき、近江・美濃の二国の間に居たとするなど、この家の所伝には混乱が多 々見られる。
 こうして見ると、正確には出自未詳で、先祖も辿りにくく、どうも古族後裔の匂いがあるようにも感じる。ちなみに尾張の溝口氏の初出は、『史料綜覧』永享十一年(1439)六月十八日条に「尾張於保貞久、同國溝口某と闘死す」と見える(7編907冊691頁)。
 
 確実に清和源氏義光流から出た溝口氏も信濃にあったので、参考までに記しておく。
それは、小笠原一族の出であり、そこで、HP清和源氏概観では小笠原一族に溝口をあげている。この溝口氏についても触れておく必要があるのは、鈴木真年翁の『華族諸家伝』では、或説に云うとして、「小笠原政長の三男右馬助氏長の二男土佐守貞長が信州伊那郡入谷庄溝口に住、曾孫の溝口右馬助長友が小笠原長時に従って出奔し、美濃国にて死し、その子が溝口彦左衛門勝政なり」と記しているからである。また、真年翁の『百家系図稿』巻六にも、これと同様な系図が記載され、『華族諸家伝』の或説の記事と対応する。
※  右馬助氏長は、島立氏の祖として知られ、『百家系図稿』巻六所載の「溝口系図」では、氏長の子の三郎太郎重長が島立右馬助と号し、その三郎次郎貞長が溝 口土佐守と号し、永享七年(1435)十月の常州佐竹の永倉遠江守追討のときに従軍したとある。以下、その子の「貞勝−貞信−長信、その弟長友」(貞長と 貞信の間に一代欠落があるか)と続いて、長友の子に「彦左衛門勝政−秀勝」と記される。なお、この信州溝口の系図は、『姓氏家系大辞典』記載の系図よりは 信頼性があるか。
  
しかし、この系譜は明らかに仮冒であって、小笠原一族の系図に溝口彦左衛門勝政を接合させたものである。なぜなら、溝口右馬助長友が主君の小笠原長時に従って信濃を出たが、死んだ地は美濃国ではなく、三好義賢の居城たる上方の河内国高屋城であり、その嫡男右馬助長勝とともに天文二三年(1554)に死んでいる。右馬助長勝の八弟の美作守貞泰は、長時の子の貞慶・秀政親子に仕えて、慶長十三年(1608)には「溝口家記」を執筆して主君秀政に呈した事情もある(『戦国人名事典』)。信濃松本城主の小笠原貞慶が、天正十一年三月にその臣溝口貞康に対し筑摩郡の地を与え(大日本史料 11編)、天正十七年九月に溝口美作守(これも貞康)に誓書を与えた(史料綜覧 11編)、と史料に見える。
一方、溝口彦左衛門勝政は天正三年(1575)三月に死んだと家譜にいい、その子の伯耆守秀勝の活動時期は1548生〜1610没とされるから、「勝政と長友」、「秀勝と長 勝・貞泰兄弟」とがそれぞれ同世代として対応することになる。溝口彦左衛門勝政は右馬助長友の子ではありえないということである。
 
  (08.11.12 掲上)

 <宗次郎様よりの連絡>  08.11.14受け

  自分も大学の図書館で太田亮博士の『姓氏家系大辞典』と、寛政譜以降旗本名鑑で溝口家について調べてみたのですが、溝口彦左衛門勝政の叔父にあたる左京進が逸見氏ではなく信州小笠原家の流れを称していたり、旗本で尾張を本国としている溝口與十郎良胤も遠祖を清和源氏逸見氏流もしくは桓武平氏としており、(家紋は溝口菱でなく丸に違い鷹の羽でした)樹童様のいわれるとおり、出自が大変たどりにくいと感じました。

  (08.11.17 掲上)
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