摂津源氏という能勢氏と下間氏

(問い) 清和源氏概観を見て、摂津源氏関係でいくつか疑問がありますので、質問します。
 
(1)能瀬(能勢)は古代能勢郡領家の後とあります。一般に能瀬は摂津源氏で高頼と国基の流れがあるといわれていますが、多田頼貞後裔を称する能勢頼吉は系譜が不明だそうですが、上記二系統の能瀬氏については系譜は不明確なのでしょうか?
 
(2)本願寺坊官の下間氏については疑問を留保とありますが、何故でしょうか。
 
(3)応答板の「摂津源氏多田氏の一族」に修理亮源親幸の名を挙げられていますが、尼崎市立地域研究史料館運営のインターネット事典『apedia』の小戸荘の記事に「1354年に地頭武田親幸が地頭佃5段を多田院に寄進し」と書かれていました。親幸は源姓武田氏だったのでしょうか。
 
  (岡田様より 08.7.29受け)

 (樹童からのお答え)

 それぞれ問題がかなり大きいのですが、問の三点について、要点的に記してみます。
 
(1) 能勢氏の出自
 能瀬(能勢)は古代能勢郡領家の後ではないかというのは、太田亮博士(『姓氏家系大辞典』ノセ条)の指摘であり、これを踏まえたものです。
 太田亮博士は、能勢郡能勢郷の居館・地黄城が古昔・大領の館跡であることを思えば、と推定の根拠をあげています。私も、次ぎにあげる諸事情から、この指摘が穏当ではないかと考えますが、女系に古代郡領家の血筋をうけて男系は摂津源氏だという可能性も残るかもしれません。
@源三位頼政が以仁王に挙兵を勧めるときに、諸国の源氏をあげる「源氏揃え」という巻が『平家物語』に見えるが、摂津国では多田蔵人行綱の弟、多田二郎朝実・手島冠者隆頼、太田太郎頼基しかあげられていない。
A手島冠者隆頼の子孫に能勢氏をつなげる系図も見られるが、裏付けがない。これより先の国基を祖とする能勢氏もあり、こちらが能勢本流のようだが、国基が美濃国山県郡に住んだ山県三郎国直の子という裏付けもない。能勢氏に関する史料の初見は、寛喜三年(1231)十月十八日の将軍藤原頼経下文写しとされており、このとき能勢頼定の譲与を受けた嫡子頼仲が能勢郡田尻庄の地頭職を安堵されたものであり(『大阪府の地名』)、これ以前の能勢氏の歴史は確たることが不明であって、『尊卑分脈』の系譜記事があっても、信頼できない。
B地黄(じおう)とは薬草で、地黄村付近には古代中世に典薬寮所属の供御所・地黄園が置かれていた。また、能勢妙見堂が近くにあり、これらと併せて、薬師神少彦名神の流れをくむ服部連の同族が能勢郡領家ではなかったか。地黄には、能勢郡式内の野間神社があるが、かつて布留社ともいわれ、物部氏の祖・饒速日命などを祀っており、物部氏族は服部連の同族にあたる。
C能勢氏の矢筈十字紋は、伊賀服部氏の矢筈紋に通じる。
 
 なお、能勢氏の系譜・活動等については、ネット上のハリマヤさんのHP「戦国武将出自事典」に記載が見られます。
 
(2) 本願寺坊官の下間氏の出自
 本願寺の有力坊官の下間氏は清和源氏頼光流と称していたのは確かで、五十巻本『諸家系図』の「下間系図」とそれと同系統の『諸家系図纂』の「川那部系図」に、この関係の系図が見られますが、源三位頼政の四世孫宗重から始まる初期の系図記事にも疑問があります。その理由などは次のとおりです。
 (なお、中田憲信編『諸系譜』第1冊にも「下間氏」の系図が見え、その関係の記事をで附記します

@「下間系図」では、その祖を兵庫頭従五位下宗重とし、宗重は承久のとき頼茂叛逆に合忠して、そのため三条河原で首を刎ねられようとするときに親鸞上人に救命され、弟子となって蓮位房と称し、これ以降、累代が本願寺に仕えたと記されるが、この宗重の救命譚は他に裏付けがなく、むしろ疑問な内容である。『尊卑分脈』には兵庫頭宗重までは見えるが、その子孫も見えず、「下間」についてもなんら記されない。承久の変関係の史料にも、宗重関係の記事がない。
 なお、「蓮位房」も、宗重の父の宗仲についても、同じく「蓮位」とあり、下間・川那部両氏が「蓮位」なる者を祖とする所伝が強くあったことは確かか。
 「下間氏」系図には、宗重について、「文永四年(1267)三月十日卒于大谷廟堂」と見える。

A蓮位房の後は、その子の来善、その子の小平次行信、弟弥平次信衡、弟仙芸とされ、仙芸は「美乃坊、正和二十二年卒、法名性善」と記事にあるが、この辺にも疑問が大きい。源氏の出なのに「小平次、弥平次」という号は疑問であり、「正和二十二年卒」という年もない(正和二年〔1313〕十月二日卒というのなら分かるし、「川那部系図」には正和二十二月廿二日卒と見える)。
 「下間氏」系図の宗重の卒年「文永四年(1267)」から見ると、その孫の1313年卒は妥当のように見えるが、同系図には仙芸が覚如上人(1270生〜1351没)に仕えたと見えて、辻褄が合わない。
  また、仙芸の子の長芸(讃岐房、号誘善)は綽如上人(1350生〜1393没)に仕えたと見えるから、仙芸・長芸親子は南北朝期の人と知られるが、これらの活動世代から考えると、祖・宗綱との中間世代の数が少々すくないとみられる。おそらく、源宗重と下妻丹後房来善との接続に問題があることがうかがわれる。


B『大日本史料』などをみる限り、下間氏の史料初見は、仙芸の正和元年(1312)であり、『常楽台主老衲一期記』には「此折節仙芸随光玄」という記事が見え、下間仙芸が本願寺の光玄(存覚)に随ったことが分かる。これ以前の下間氏については、不明なままであり、上記の事情から頼政流というのが疑問となる。
 下間氏は、仙芸の父の来善から始まったとみるのが妥当なようであり、仙芸が随行したと見える光玄は、本願寺の存覚(覚如の子で、綽如の父。1290生〜1373没)のことであり、下間氏が本願寺教主に仕えたのは、所伝からは本願寺第三代覚如以降と知られる。

C「下間」が常陸の下妻から起こったことも、太田亮博士は「徴証に乏しい」としつつ、それでも栗山光明寺文書から「下間氏は此の地より起りしなるべし」と記す事情もある。しかし、これにも疑問がある。同じ宗重の後裔となる一族の川那部(かわなべ)氏は、「丹波国を中心に真宗門徒として活躍したことが推定される」という上杉允氏の見解があり(『群書解題』第一)、近江の野洲郡金森城に戦国期、川那部藤左衛門秀政が居て織田軍と戦ったと見える(『近江輿地志略』)からでもある。同族の川那部氏が野洲郡に近隣の栗太郡川辺を起源としたら、下間氏は常陸の下妻とはなんの関係もないし、清和源氏でもありえない。
 
 なお、下間氏についてもう少し触れておくと、蓮如の時代には下間氏が活躍の場を拡大し、それ以降の本願寺の勢力膨張に応じて下間氏一族も本願寺教団内で数多く登用されるようになったし、江戸期も本願寺の重役として「下間三家」が続き、一族からは池田氏との縁で幕藩大名となった池田重利も出た(大名としては子孫が断絶し、旗本で続いたが)。
 
(3) 「武田親幸」は正しい表記か?
 源親幸についての『apedia』の小戸荘の記事「田親幸」は誤解で、「田親幸」とするのが正しいものです。執筆者が「熱田公」氏で、参考文献として「川西市史『かわにし』第1巻 1974」をあげていますが、元をいえば、『大日本史料』の記事に誤読があったことが原因だと思われます。具体的にあげると、次のとおりです。
@『大日本史料』記載の暦応四年(1341)八月廿一日付けの「三宝院文書」には、摂津国野鞍庄(有馬郡にあった荘園)の雑掌の申し立てで、「田彦次郎の子の彦太郎親幸」が当庄内の相野村で押領狼藉を働くので、これを停止せしめた文書である。そこに二個所「田彦次郎」が記される。
A『大日本史料』文和三年(1354)十月日付けの「武家雲箋」という史料をのせ、摂津国小戸庄(現川西市小戸辺りにあった荘園)の地頭佃五段を「修理亮源親幸」が多田院に寄進したことが記されるが、同書では源親幸について「(多田)」という註をつける。
 
 この二つの文書の「田彦太郎親幸」と「修理亮源親幸」とは地域・年代から見ても、同人とみられますが、その場合、@の田」は字形の似通った「多田」の誤読か書き誤り(写し誤り)とみられます。この地域に甲斐の武田氏一族の活動が見られないこと、武田氏一族には「親幸」という名前がほとんどありえないことなどの理由からです。
 『大日本史料』のAの註記が正しいわけですが、信頼性が高そうな史料でも、丸呑みして用いることの危険性を本件は示しています。
 
  (08.8.28 掲上、09.11.17追補)
 
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