摂津源氏多田氏の一族

(問い) 清和源氏多田氏及び源経基とその子などについての質問です。
1. 頼政流伊豆多田氏は頼政、兼綱(養子)、頼兼、頼貞(養子)、政国、政義、氏兼と続いたと伝えますが、ここでいう頼兼は『姓氏家系大事典』では「伊豆守、母は頼朝の姉、蔵人大夫」とありますが、彼は頼政の子である頼兼か、それとも別人で兼綱の実子なのでしょうか?
 また、伊豆の多田氏から因幡多田氏が出たり、室町期には摂津も領したそうですが、伊豆の多田氏について何か情報はないでしょうか?
 
2. 多田経実より始まる大和多田氏、戦国時代に多田満頼を輩出した源満季の後裔である美濃多田氏、源満快の子孫とされる摂津国宿野城(現大阪府豊能郡能勢町)の多田氏、南北朝時代の多田頼貞、多田貞綱などは清和源氏多田氏の一族なのでしょうか?
 
3 .源経基と満仲は誕生年などから父子関係が疑わしいといわれていますが、満仲の同母弟である満政、満季らも生年が不明ですが、経基の子たちは実子なのでしょうか。
 
  <多田様より08.5.26受け>

 (樹童からのお答え)

 概説
 摂津国河辺郡の多田荘(兵庫県川西市)は武家清和源氏の発祥地であり、この地に清和源氏の源朝臣満仲(多田新発意)が多田院を建立して、平安時代中期、十世紀後半に最初に住み、少なくとも南北朝期までは多田を名乗る後裔一族が居たことは確かですが、その行く末があまりよく分かりません。戦国期に十六世紀半ば頃に、多田荘に居た塩川氏や多田氏は三好政長に属したが、三好長慶に破れて浪人となったとされます。その後も、川西市の上津城に拠った土豪に多田春正がおり、天正六年(1578)に荒木村重に攻められて落城し、自刃しました(『戦国人名事典』)。天正七年(1579)に宿野城に拠る多田氏が織田信澄に敗北し落城したとも伝えます。このように、時により盛衰があったわけですが、約六百年もの長期間、多田荘の地域に清和源氏多田一族が居住したことになります。
 また、伊豆に多田一族が居て、そこから因幡・加賀などの各地に分岐したと『諸家系図纂』(『群書類従』にも転記)所載の「多田系図」に伝えますが、この系図はあまり裏付けがありません。多田一族については、一般に知られる系図がこうした模糊たる状況ですが、やはり『尊卑分脈』所載部分が検討の基礎にあります。その辺を踏まえて、いま一応の整理をしてみたものを次に記します。(以下、である体)
 
 多田嫡宗の動向
 平安末期に出た多田蔵人頼憲(頼光の五世孫)は、六位で昇殿を許された記事が『本朝世紀』久安三年六月に見え、ついで保元の乱では崇徳上皇に味方して、その子の盛綱とともに斬られた。この乱の時に、兄の頼盛は後白河天皇方についたとされる。その子の多田蔵人行綱は、治承元年(1177)、平清盛打倒を図る鹿ヶ谷事件に加わったものの後白河院近臣の仲間を密告して自身は罪を免れた。次いで、源三位頼政が平氏打倒の兵をあげる際に、頼政が各地の源氏をあげる『平家物語』の「源氏揃え」に行綱に続けて、多田次郎朝実、手島冠者隆頼(能瀬三郎高頼)の三兄弟が見える。行綱は寿永の乱には反平家の軍事活動をし、また文治元年(1185)に頼朝に追われた義経一行を摂津河尻で豊島(手島)冠者とともに襲撃し、その前途を妨げた行動もとっている。
 行綱の行動が鎌倉の頼朝に疎まれることもあって、多田荘は多田氏の手から没収され、頼朝一族の大内惟義の支配するところとなった。それでも、その地に多田氏はまだ残り、行綱の子・蔵人基綱は、承久の変に際して、子の重綱とともに院方に参加し、破れて斬首されたと『東鑑』(承久三年六月条)に見える。この承久の変の後は、多田荘は北条得宗家の領となった。こうした事情で、当地の多田一族は次第に衰えた。
 多田嫡宗は基綱の兄・三郎定綱、その子小太郎光綱と続いたようで、光綱の跡を従兄弟の三郎重綱が継いで、以下は「三郎太郎宗重−弥三郎長重−太郎重国」と続いて、長重・重国親子のとき南北朝争乱期を迎えた。文和三年(1354)十月の多田院関係の文書には修理亮源親幸が見え、多田一族とみられるが、具体的な関係は不明である。(※源親幸については、 摂津源氏という能勢氏と下間氏 に質疑がある)
 
 伊豆の多田氏と大名家太田氏
 南北朝動乱期に多田一族は多田荘から各地に移遷したようで、それが美濃及び陸奥の多田氏とみられる。伊豆の多田氏もこの時期の移動が考えられるが、この関係の系図(『諸家系図纂』所載の「多田系図」)の信頼性はきわめて弱いとみられる。中世以降に見える多田氏とは、源頼光の孫の頼綱の流れで、なかでも頼綱の曾孫の頼盛(頼光の五世孫)、その子の多田蔵人行綱兄弟の後とされるが、「多田系図」では源三位頼政の後とされ、その養子の「兼綱−頼兼−頼貞−政国−政義……」と系図を続けており、この辺にまず疑問がある。『尊卑分脈』には、大内守護をつとめた頼兼の子に頼貞なる子ををあげないという問題点もあり(同書には頼政の子に頼兼を置くが、頼兼は兼綱の実子)、頼貞が頼兼の弟・顕綱の子であったという所伝も、顕綱(一般に大名家大河内氏の祖という)の存在自体に疑問が大きい。頼貞の子に政国を置くというのもつながりも不自然な感じがある。信頼できそうな史料に伊豆で活動した多田氏が見えないので、この辺の確認もできない。
 とはいえ、鈴木真年は、大名家太田氏の祖先・右衛門尉資房(道灌持資の祖父)が「伊豆住人多田氏の子」から太田大和守資兼の婿養子になったと記し(『華族諸家伝』太田資美条)、『鎌倉大草紙』にも頼政の子孫が多田治部少輔ら三代相続と見えるので、伊豆に多田氏が居たことまでは否定できない。幕藩大名家太田氏は、本来は武蔵猪俣党(称小野朝臣姓)から出たものであるが、後に系譜を仮冒して源三位頼政の子の伊豆守仲綱の後とされ、その祖として太田摂津守資国(伊豆守仲綱の五代孫と称する)を『藩翰譜』はあげる。太田摂津守資の実在性は疑問であるが、伊豆多田氏の祖にあげる政に通じる命名である。
 そうすると、この「国」というのが通字になるとしたら、『尊卑分脈』に多田行綱の後裔の末尾に記す多田太郎重国の近親に政国が位置するのかもしれない。また、同書に能瀬三郎高頼の子に能瀬蔵人資国、その子に信国・正国(政国)・資氏兄弟をあげるのも、伊豆多田氏に関係するのかもしれない。こうした事情から、伊豆多田氏の系譜は不明と言うしかないし、伊豆から因幡・加賀などの各地に分岐したという系譜も確認ができない。 
 
 南北朝争乱期の人物
 南北朝争乱期には、『太平記』に「多田院御家人」という表記が見られるが、このなかに多田一族がどのくらい入っているのか不明である。具体的に名が見えるのは、建武の初め頃から陸奥・関東を中心に南朝方として活動が見える、多田木工助貞綱である(「結城文書」など)。この貞綱の系譜は不明であるが、私見では、多田宗貞(嫡宗の三郎太郎宗重の弟か)の子にあたるかと疑っている。また、『尊卑分脈』に上記の資氏の子に「頼貞−倉垣源蔵人貞綱」とあげる貞綱に当たる可能性もないではない。その場合には、信国・正国(政国)・資氏の三人は兄弟ではなく、直系の三代という形が原型なのかもしれない。播磨の「広峰文書」の暦応三年(1340)には多田源蔵人が見えて、新田一族金屋兵庫助とともに行動している。
 貞綱の子孫は津軽や陸中に残ったとされ、津軽為信に仕えた唐牛館主多田釆女は後に地名に因み唐牛氏を名乗り、同族に為信に謀反を起こして討たれた多田玄蕃もいる。南部氏に仕えた大釜、達曽部ら諸氏が多田氏後裔と伝える。
 元徳三年(1331)頃の六月三〇日に「右衛門尉貞祐」なる者が多田院方丈にまいるという記事が「摂津多田神社文書」に見えており、貞祐は多田氏とみられるから、年代・名前からみて木工助貞綱の兄弟にあたるか。
 
 争乱期には山城・備前で南朝方として活動した多田頼貞もいる。『吉備温故』には暦応四年(1341)に多田入道頼貞が立石山松寿寺を建立したと見えるが、建武に摂津国能勢郷目代となり、足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻すと各地を転戦した。暦応元年(1338)には山城八幡(京都府八幡市)で脇屋義助を補佐しており、『太平記』巻20の「八幡炎上事」には「多田入道」と見える。暦応三年(1340)、細川氏に敗北して備前国に逃れ、そこで勢力を盛り返しつつあった興国四年(1343)に赤松氏の軍勢が来襲して備前の網浜合戦で敗退し、八月中旬に自害した。そのとき、摂津国にいる嫡男(『備前国志』に太郎判官吉仲)に対して、「もし将軍に仕えるなら氏を能勢に改めて仕えよ」と遺言したという。この名乗りからしても、能瀬三郎高頼の後とみられ、頼貞は『尊卑分脈』に記載の上記の資氏の子にあたるか。
 なお、多田入道頼貞の子孫という者に能勢又五郎頼吉がおり、宇喜多氏の家臣で備前国児島郡の土豪で木太城に拠り、天正九年(1581)の八浜合戦に戦功を挙げて「八浜七本槍の一人」とされる。その子孫は備前岡山藩池田氏に仕え、池田綱政のときに寺社奉行をしていた能勢勝右衛門などを出したという。
 
5 甲斐の多田一族
 甲斐の武田氏の信虎・信玄・勝頼三代に仕えて武名高い多田一族がいる。武田氏滅亡後は、江戸幕臣となり、『寛政譜』(寛政重修諸家譜)に九家が記載される。そのなかで最も著名なのが多田淡路守満頼(1501〜1563)であり、昌澄(この名で『寛政譜』に初代として記載)、昌利、三八郎ともいう。武田信虎・晴信に仕えた足軽大将で小身衆であるが、板垣信方らとともに信濃制圧に貢献して虚空蔵山城(上田市上塩尻あたり)の守将もつとめた。夜襲戦にすぐれて武名高く、甲陽五名臣の一人に数えられる。
 嫡子の多田三八郎昌治(新八郎、新蔵。正治、正春、常昌)が跡目を継いで淡路守も継承され、信濃国諏訪郡の先達城主で、永禄四年(1561)の第四次川中島合戦には足軽隊を率いた。昌治は、天正三年(1575)に長篠合戦のとき設楽原で討死し、その嫡男多田昌勝(新蔵)もこの合戦で捕らえられ殺害された。このため、家督は昌治の弟の治部右衛門昌俊(満俊、三八郎)が継承し、足軽大将をつとめた。治部右衛門は天正八年(1580)、飛騨の国境警備で討死したとも、同十年(1582)の武田氏滅亡のときに信濃深志城を守ったとも伝える(『戦国人名事典』)。
 昌勝の弟・昌綱(昌俊の養子にもなる。久蔵。1567〜1605)や従弟・昌繁(昌俊の子。角助)らは武田勝頼に従い、武田氏滅亡の時、天目山下で戦死をとげた角助ら一族の者もいる。昌綱はこのとき甲斐に侵入してきた徳川家康に降って登用され、関ヶ原合戦のときは上田城の真田氏を攻めたが、後に尾張の徳川義直の傅役にもあげられた。
 満頼は美濃国出身ともいわれるが(『甲陽軍鑑』)、その系譜は諸伝あって、源満季の後とも多田頼盛の後ともいい、一般に確たるものが知られていない。
 
 ところで、改めて多田氏関係の系図を探索したところ、中田憲信編の『諸系譜』第十二冊に「多田 甲州」という系図があげられることが分かった。あまり譜註のない比較的簡略な系図であるが、頼光から始めて、@一流は幕臣や美濃国安八郡の多田氏につながり、Aもう一流は行綱の子の判官代行盛から十三世孫の孫左衛門行吉までつながるが、前者の系統が伝えた系図であろう。『尊卑分脈』が@は重国まで、Aが行盛三世孫の行重までしか記載しないから、同書の補遺的な系図でもある。
 この「多田 甲州」系図により、従来、先祖不明であった多田満頼の系が明らかになる。これに拠って記すと、『尊卑分脈』には記事のない弥三郎長重は、建武のとき足利尊氏に属して美濃国安八郡を賜り、その子の兵庫助重国(同人まで『尊卑分脈』に記載)、その子「孫五郎満重−太郎左衛門尉満継−兵庫太郎季満−蔵人満氏(住安八郡)−蔵人太郎満長−三郎左衛門尉満秀」と系を続けて、満秀の子に三八郎貞弘、弾正弘次、弘仲の兄弟三人をあげる。末弟の弘仲は近江の蒲生家に仕え、真ん中の弾正弘次の系統は安八郡に居住して土岐氏さらには松平忠輝などに仕え、長兄の三八郎貞弘が多田満頼と同人というのである。
 三八郎貞弘の記事には、「淡路守、満頼昌利昌澄」とあり、「美濃国を去って甲斐国に到り、武田信虎晴信に仕える。永禄六年十二月二日死」と記載される。貞弘の子には新八郎正治、三八郎昌俊、三吉某の三名をあげて、前二者は各々後裔三世代分を記し、三吉某(八右衛門昌頼と同じか?)の後は子に三吉某をあげて「子孫は尾州に在り」と記される。なお、この一族は同一通称の頻出や養子縁組などあって、系譜に若干の混乱もある。
 これら系図記事や世代配分から見て、「多田 甲州」系図はほぼ正しい系譜所伝といってよさそうである。そうすると、美濃多田氏が源満季の後裔であるとする所伝は、「源満季」が多田新発意満仲の弟の満季ではなくて、室町中期頃の「兵庫太郎季満」の訛伝とみられ、その者自身かその子の蔵人満氏の代(応仁の乱頃が活動時期か)に美濃国安八郡に住み着いたのだと考えられる。同様に、「源満快」の子孫とされる摂津国宿野城の多田氏も、室町前期の満継(→満次?)あたりの訛伝ではなかろうか。そうすると、満継は「兵庫太郎季満」の父であるから、多田荘の多田氏は「兵庫太郎季満」の世代の時に摂津と美濃に分かれたことを意味するのかもしれない(摂津宿野に残った系統の祖の名前は不明であるが、それが「満国」〔満快の子にも同名が見える〕だとすると、重国の子で満重の弟という可能性もあるか)。いずれにせよ、多田新発意満仲の弟の満季・満快の後に多田氏が出ていないのは当然である。
 
6 源経基と満仲・満政・満季ら兄弟との関係
 源経基と満仲は、『尊卑分脈』に記載される誕生年などから、父子関係が疑わしいという見方も出されているが、これは同書の記事が誤りだけの話であり、源経基と満仲兄弟とは実際にも親子であったと考えられる。この辺の考察については、宝賀会長の論考『陽成源氏の幻想』(『姓氏と家紋』第56号、1989/6)に詳細に書かれているので、ご参照下さい。
 なお、満仲の諸弟としては、満政、満季、満実、満扶(満輔。「満快」とするのは疑問)、満生、満重、満頼(実は満季の子)があげられる。
 
7 異姓・異系統の多田氏
 これまで触れなかった清和源氏の多田氏一族では、多田行綱の長子行定の子孫は安芸国佐伯郡などに在って、小早川氏に仕えたといい、武蔵国に行綱後裔という多田氏が見えるが、ともに具体的な系図は不明なので、疑問の余地があるのかもしれない。そのほか、全国各地に多田の地名が多くあり、それぞれの多田の地から清和源氏ではない他姓の多田氏が起っている。
  その主なものの概略を順不同であげると、次のとおり。

 (1) 大和の多田氏
多田経実(中村伊賀公ともいう)は、建保年間(1213〜18)に摂津多田院より大和国宇陀郡多田(奈良県宇陀市室生区多田)の地に移遷して土着し(『大和志料』など)、大和の国人で佐比山城や貝那木城に拠った多田氏の祖になったという所伝がある。その系譜は摂津源氏多田氏の一族で、満仲九代の後裔下野守高頼(能瀬三郎?)の子ともされるが、『尊卑分脈』等の清和源氏関係の系図には経実の名は見えず、経実の子の義実・順実等歴代が相続して「県主」となるというから、大和古族の後裔と考えるのが自然である。経実の子孫は古代の都祁郷(大和国山辺・宇陀郡)地方の有力国人として中世を通して存続した。
 
(2) 陸奥で称多田氏後裔の和賀・本堂一族
前掲の多田貞綱後裔とみられる多田氏とは異なる多田氏が奥羽にあった。陸中和賀郡の和賀・鬼柳一族や、その支族で出羽仙北郡の本堂氏(明治に華族に列)が摂津源氏多田氏の後裔とも称したが、和賀氏で多田を号した者もある。これら和賀・本堂一族の系譜は異伝が多くかつ混乱しており、将軍頼朝ないし頼家の落胤たる式部大輔忠頼(頼忠)の後とも、摂津多田氏の後ともいうが(これにも諸伝あり、頼盛の子という行義の後とも、頼盛の曾孫親綱〔基綱の子〕の子という式部丞親朝の後ともいう)、いずれも系譜仮冒である。
なぜ、この系統が多田氏後裔を称したが不明であるが、その実系が小野朝臣姓を称した武蔵七党の横山党から出た中条法橋成尋の子の苅田平右衛門尉義季(和田義盛の猶子となり、平姓を称する)の子、和賀三郎左衛門尉義行の後裔であることはほぼ確かである。
 
(3) 若狭の多田氏
遠敷郡多田に起る多田氏がおり、同郡の木崎氏・和久里氏らと族縁関係があったとされるから、古族(大私部姓か)の末裔か。若狭一宮神主の牟久氏との通婚が知られる。また、惟宗朝臣姓の島津一族にも若狭の多田氏があった。
(4) ほかにも各地に多田氏は数多く、称桓武平氏良文流の千葉氏の一族(下総國香取郡多田〔現千葉県佐原市〕)、藤原秀郷流佐野氏の一族(下野国安蘇郡多田邑)、近江の佐々木一族や、常陸、伯耆、伊勢、紀伊、阿波、伊予、土佐、日向などに見える。
 
 以上、多田氏をめぐる問題点は多く、必ずしも端的に言いきれるものではないが、質問を踏まえ史料に基づき、とりあえず整理したものである。
 
 (08.5.31 掲上)



  <多田様より再信> 08.5.31受け

 HPの「摂津源氏多田氏の一族」の記事を見て、中田憲信編の『諸系譜』にある行綱の子の行盛から十三世孫の孫左衛門行吉までの流れについて気になりましたので、宜しければ、この系統についても提示ください。
 
  <樹童からのお答え>
 多田一族のうち、行盛の系統がなぜ系図に残されたか分かりませんが、『諸系譜』の記事を紹介しておきます。この関係でなにか分かることがあったら、教えていただけたらとも思います。

1 行綱の子の判官代行盛を初代としたとき、四代目(三世孫)の行重とその従兄弟の行定までは『尊卑分脈』と同じですが、行重には同書に見えない「蔵人」という官職ないし通称が記されます。
(この系図が実系として直系であれば、行重が鎌倉末期〜南北朝初期の人ではないかと推されます)

2 蔵人行重の子から後の部分が他書に見えないものであり、行重の子の「判官代行政−左近大夫行高−左衛門尉行景(その弟妹に孫二郎行宜、源直政妻)−蔵人備前守行忠−行吉 北面備前守法名性仏」と続けます。
行吉の子に行種左近蔵人、行元、性忍、行春の四人をあげ、長子の行種と三子の性忍の後をさらに続けます。行種の後では、その子の「種吉左近−行義孫之丞−行直孫四郎−行吉孫左衛門」とし、性忍の後では、その子の「善西−浄尊」の二代を記します。
(この系図が実系として直系であれば、末尾の行吉が江戸前期頃の人ではないかと推されます)
 
   (08.6.1 掲上)



  <hd様からの来信>  08.6.5受け
 
 「摂津源氏多田氏の一族」については、私も以前から興味があり、調べています。貴サイトのご見解・引用と一部異なる内容がありますので、参考までに、私見を下記します。
 
 <<貴サイトの見解・引用>>
 戦国期に十六世紀半ば頃に、多田荘に居た塩川氏や多田氏は三好政長に属したが、三好長慶に破れて浪人となったとされます。その後も、川西市の上津城に拠った土豪に多田春正がおり、天正六年(1578)に荒木村重に攻められて落城し、自刃しました(『戦国人名事典』)。
 
 <<私見>>
 多田春正の上津城は、永禄十年(1573)八月十日、伊丹親興に攻められ落城し、春正は自害しました。その後、多田荘に居た塩川氏は、秀吉軍により討伐され没落しました。
 
 これらの根拠としては、『川西市史』など公開されている内容しかお伝えできませんが、次のようなものがあります。
根拠:1
 川西市史に記載されている「頼光寺文書」の中の「平野村正法寺覚」によると、
「治安年中源頼家卿母儀法名善如尼公忍辱山正法寺御建立也」
「多田満仲公二十八代多田越中守永禄十年(1573)八月十日上津城落城ノ時忍辱山正法寺焼失」
「其後元和六年忍辱山正法寺一倉村ニ遷ス」
「寛文年中多田満仲公三十一代多田正三郎妻、法名寿清尼忍辱山正法寺再興」
とあります。
(参考)川西市内の一庫(一倉村)には、忍辱山正法寺の跡地や墓石が現存しており、江戸時代に入っても、この地で祖先の供養をしていたことを示します。
 
根拠:2
 伊丹市史によると、荒木村重が伊丹城の伊丹親興を攻め城を奪ったのは、天正二年(1574年)です。上津城落城の頃、この地域に勢力を拡張していたのは伊丹親興で、信長から摂津三守護の一人に任命されていました。
 
根拠:3
 川西市史によると
 天正十四年(1586年)、塩川氏は積年の能勢氏との争いを解決しようと(秀吉の命に背いて)能勢氏を攻撃した。(中略)秀吉は片桐且元・池田輝政・堀尾吉晴を討手として塩川の山下城を攻撃することに決めた。(中略)十二月十四日の未明、(中略)塩川討伐の軍が山下城におしよせ、(中略)塩川国満は城を明け渡し切腹して果てた。
中略)多田院御家人は塩川国満に荷担して能勢氏攻撃に参加していたことから、知行地を没収され無禄となり、彼らは以後ながく旧多田庄の地域をはじめその周辺の村々に隠住の生活を送ることとなった。
(参考)その後、多田院御家人は大坂夏の陣・冬の陣で旧知行の回復を願い、徳川方について行動しましたが、大坂方に敗れ討死・負傷者を多くだし大きな痛手を受けました。
 
 
 <樹童の感触など>
 
 ご連絡ありがとうございました。実のところ、多田氏一族の行く末については、手元に明確な史料がなく、比較的信頼性のありそうな『戦国人名事典』に拠ったものです。この記事に問題があったようですね。
 
 伊丹氏は摂津国川辺郡伊丹に起こった有力国人で、戦国末期に大きくあらわれ、その子孫は幕臣に残りますが、実のところ、系図がはっきりしません。所伝では、頼朝将軍功臣の加藤次景廉の子孫のように伝えますが、これには仮冒があるとみられます。断片的な史料からは、伊丹氏の先祖で鎌倉初期に「加藤」を名乗る者(加藤右馬允親俊)も見られますが、利仁流藤原氏の加藤次景廉の子孫とは考えられません。
この伊丹氏と多田庄にいた森本氏とは同族で、ともに小野姓を称したと史料に見えます。しかし、『群書』所収の「小野氏系図」から推するに、『姓氏録』摂津皇別に見える和邇氏族の羽束首彦姥津命の後)の後裔というのが森本・十倉・石田・安福・片山・木器などの一族の実系とみられ、羽束の苗字も見えます。もともと現在の三田市の羽束山周辺、羽束川流域に居住していたのが、次第に東方に進出し、中世の多田院御家人のなかにも、この森本一族がかなり入り込んでいた模様です。
 
  (08.6.6 掲上)


  (追補)

  その後に気づいたところを補記しておきますと、美濃国安八郡の多田氏の支族に関連して、田畑吉正写本の『幕府諸家系譜』(東大史料編纂所所蔵)の第五冊に「石坂氏」の系譜記載があります。
  それによると、多田新五郎満綱は安八郡から越後国古志郡石坂に移り、その子の新四郎・能登守満通は上杉輝虎に仕え、さらにその子の石坂菅兵衛森通は武田信玄・勝頼に仕え、天正十年の甲州没落の後は家康に仕えて幕臣となり、寛永三年に享年八九で死去したとして、その子孫を記載します。この石坂氏の祖・多田新五郎満綱は、上掲の三郎左衛門尉満秀と同世代とみられますから、兄弟か従兄弟くらいにあたることも考えられます。
  なかなか興味深い面もありますので、追記した次第です。

 (08.8.10 掲上)


  さらに応答がありますから、 摂津源氏という能勢氏と下間氏  もご覧下さい。 
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