中山城山とその祖先・一族の系譜(試論

※ 本稿は、中山城山の関係者として中山一族に関連する多くの諸史料を長年、収集されてきた真鍋様からご提供の史料と見解「中山城山の祖先に関する考察」 などを踏まえて、試論的に整理したものであり、その意味でこれらの合作的な成果でもあるので、ここに掲載した次第である。




 中山城山(なかやま・じょうざん)は 全国レベルではあまり知られないが、江戸後末期の讃岐の儒学者であり、その業績の『全讃史』は、上古の讃留霊王からの讃岐地方の歴史を記していて、この地 に興亡した諸氏についても記すから、姓氏系譜の研究者にとって重要な文献であり、太田亮博士の『姓氏家系大辞典』にも引用が見られる。その家系は、ご子孫 に遺される家譜等の資料(「城山文庫」や綾南町畑田の中山家に残される)や弟子により建立された「城山中山先生碑」(坂出市高屋町)などに記載されるので、この辺を基礎に先祖家系の検討を加えてみる。
 
 一 中山城山と『全讃史』と家譜
 
 まず、いくつかの資料(その一例)に基づき、中山城山についての概要を記述しておく。
 中山城山は、1763生〜1837没で、名は鷹(よう)、字は伯鷹(はくよう)、通称は塵(おほか)、城山は号である。讃岐国香川郡横井村、現在の香川県高松市香南町横井で生まれ、同市三谷町の儒学者藤川東園(荻生徂徠系の古文辞学派)に医と儒を学び、渡辺葆光に国学を学んだ。寛政十一年(1799)三六歳のとき、国老大久保氏の命を受けて家老夫人に毛詩と和歌を教えることになり、居を高松に移し、城山塾を開いた。弟子は高松藩を中心に二三ケ国に及ぶという(中山寿氏蔵「門人帳」)。
 城山の著書は、総数四七部、一二五冊に及ぶというが、最も有名で、かつ唯一刊行されたものが『全讃史』である。本文は漢文で、文政十一年(1828)に完成し、藩に献上され、高い評価を得た。内容は郡郷、駅路、人物志、古城志、名山川陂池、古家、名勝、産物、摘注となっている。本書は、没後百年記念として昭和十二年(1937)に青井常太郎氏により国訳出版され、また、平成三年(1991)にはご子孫の桑田明氏により『口訳全讃史』として刊行された。
 『全讃史』の編纂の経緯としては、高松城下に出た因となった家老夫人の死に伴い、塾を子息の鼇山(ごうざん)に譲り、大阪、京都、長崎に遊んだ。子の鼇山は、父・城山より優るともいわれた英才であったが、二七歳のとき(文化十二年、1815)、に早世した。時に城山は五三歳であったが、甚しく悲観し、郷に帰って人事の事を絶って、専ら全讃史を著すことに没頭し、全讃を巡り、神社、仏閣、名蹟、城墟を訪ひ、是を問ひ、是を記し、積んで十二冊の書となった、とされる。
 「城山中山先生碑」によると、城山の家系は、従一位中山准大臣孝親の第二子、左衛門教親が天正年間に讃岐に来たが、これが家祖となる。城山の高祖父のときに士服を脱ぎ農に帰し、その子四郎兵衛のとき、家産衰え医に転じて玄庵と称した。その子玄柳も医と儒を修め、横井に来住したが、この玄柳の子が城山である。
 
 ここでは、家系の検討が主題だから、現存する史料に基づき、もう少し城山の系譜を記しておく。
 主な系譜史料としては、系図巻物となっている『中山氏由緒書』(寛政七年〔1795〕以降に中山城山の自筆といい、これに追加記入がある)や『中山家系譜』、『由佐下邑沖代ものがたり』(城山の著作)などがある。
 これらに拠ると、まず准大臣中山孝親(1512生〜78没)の次男として左衛門教親(後に教久と改名)をあげ、この者が讃岐の中山氏の初代であって、天文十四年に京都堀川に生まれ、天正八年(1580)に兄の親綱と不和のため京を離れて、讃岐に来たといい、はじめ山田郡田中に住んで、十川氏・寒河氏に対して和歌など諸風流の師範をしたといい、慶長八年に香東郡由佐村高洲に遷居したという。系図では、中山孝親を初代として、その子孫という城山を第九代とする数え方をとるが、本稿では、検討の対象となる讃岐来住の教親を初代、城山を第八代と数える形で記述する。
 さて、教親を初代として、教親は寒河浄慶の妹を妻として、第二代傳兵衛教定を生み(以下、第二代をAという形であらわす)、以下は「B六兵衛教義(母は十河存勝妹)−次男C四郎兵衛教直−次男D文四郎教政−E四郎右衛門教利(玄庵)−F教秀(玄柳)−G城山、その弟冨造(元義)」と続いて、城山の子孫も現代まで記されている。作成年代も、もとは城山が記したものを書き継いだとされるから、典型的な近世系図ともいえる。その意味で、本稿は、近世系図の分析・検討の一方法を示すものともいえよう。
 
 
 二 現伝の中山城山の家系の検討
 
1 讃岐の中山氏初代の教親への疑問  
 (1)准大臣中山孝親(1512生〜78没)の次男か
  教親は年齢的には問題ない(1547生〜1617没、享年71歳)。中山孝親の薨去記事等も正しく、嫡子親綱(1544生)との関係も問題がない。ところが、明治の中山家から宮内省への提譜『中山家譜』には、孝親の子女七人(男子五人、女子二人)のなかに見えない。「中山氏由緒書」など讃岐の中山家関係資料以外には、こうした人物の存在を窺わせる記録が京都関係にも讃岐関係にもない。公卿の子であれば、家督か他家養子ないし僧籍というのが通常の扱いであって、庶子のまま中山を名乗るのは疑問があり、かつ、庶子であっても「左衛門」という武門的な通称は不自然か。
 
 (2)教親の事績が不明
  どのような事情でなぜ京都を離れたのか(兄・親綱と不和というだけでは説得的ではない)、なぜ讃岐に来て山田郡田中(現木田郡三木町田中)に住んだのか、誰に仕え誰と交渉があったのか、武家ならどのような合戦に参加し軍功はどうだったのか、という具体的な事情がいっさい不明である。
 十川氏(高松市十川東町)・寒河氏(大川郡長尾町に居城)と交渉があったのは、地域的に肯けるとしても、和歌など諸風流の師範をしたと家譜にいうことは信じられるか。天正八年(1580)当時の十川氏の当主は、十河存保(1554生〜1586没)の時代であり、土佐の長曽我部氏との緊張関係のあった讃岐に来た事情も説明しがたい。なぜ、山田郡田中から慶長年間に香東郡由佐村高洲に遷居したのか、という事情も不明である。第五代の文四郎教政の室が由佐茂左衛門の妹というで、この頃には香東郡由佐村が居たことを傍証するか。第二代傳兵衛教定の妻が十河存勝の妹というのも、信頼できるか。存勝が存保の弟の孫とされる左兵衛存勝としたら、少し時代が合わないか。
 
2 ほぼ確実な先祖はどこからか
 系図巻物の記事等で、医となったという第六代の窪(後に久保という)玄庵教利(城山の祖父で、1777年死亡。四郎右衛門)以下からが、まず確実といえる線ではなかろうか。
 医業という業種に武家や神官・僧侶という出身が多かったのは、傾向的にいえる程度。城山の父・久保玄柳が医であったことからも、この職業を始めた者から以降の記事はほぼ信頼してよいかということである。
 (1)家譜でも、兄弟姉妹が具体的に記されるのは、第六代の世代からである。
  A教定〜D教政の世代は、各世代で一人しか記されない(単名の世代は、系図の後世の製作にかかるものに多く見られる特徴)。分家・一族がなんら記されないのは、地域の豪農的な存在としては疑問が大きい。
 なお、D教政の兄に茂三郎という名があげられるが、その事績・住居地など具体的には不明。C四郎兵衛教直の長子ないし嫡子が茂三郎という通称(名は別資料に教豊と書かれる)もやや疑問な命名である。しかも、教政の妾に「国分村国姓爺妹」というのは、疑問の大きい記述である。
 (2)E教利の通称が四郎右衛門で、その父・教政Dの通称が文四郎、その父が四郎兵衛教直Cというのは比較的自然だが、それより先が六兵衛 B、傳兵衛A、左衛門@、というのが命名ないし通称としても不自然である。文四郎及び四郎兵衛については、文政九年(1826)前後に再建された墓はあるが、六兵衛及び傳兵衛の墓は確認されていないとの報告がある。また、城山の菩提寺の過去帳・永代経では、先祖はDの文四郎までが確認できるとされる。Cの四郎兵衛教直を当家の中興とする記事が『沖代ものがたり』に見える。その妻が鹿角村(現高松市鹿角町)の河風氏から来たという記事が家譜にあり、具体的な地名として不自然ではない。Dの通称「文四郎」の「文」の意味が不明という問題点もある。
 (3)城山の父・玄柳、祖父・玄庵については、墓碑銘などで事績が知られるとのこと。
 (4)城山の父・祖父は久保を名乗ったことが資料に見えるが、これは祖父の玄庵が大和国で医を学んだ師が窪立穆といい、この師の姓を継いだからだというが、これでよいのか。香川郡には、由佐と鹿角とのほぼ中間に「久保」の地名があり(高松市香川町浅野の小字)、この地か他の久保の地に由来するものではないか。
 
3 ここまでの一応の結論
 以上の諸事情から現伝の家譜を考えてみるとき、Dの文四郎(教政という実名かどうかは不明)ないしその父のC四郎兵衛(同、教直)を初代とする家系だとして受け取られる。少なくとも、中興の祖とされる四郎兵衛より前の先祖は、苗字も実名も不明であるとしておいたほうがよいし、公家の中山家の子孫であることは考え難い。推測するに、中山城山が先祖の所伝などを参考に、大阪・京都などを遊学して資料を集め、現存する系図の具体的な基礎を作ったものか。また、讃岐国内の歴史や諸事情は、『全讃史』編纂の資料収集で十分対応ができよう。
 しかし、ここまでの検討では、讃岐の中山家が准大臣中山孝親の諸子のうち、僧籍に入った者の子孫であって(左衛門教親ではないということ)、久保玄庵かその数代前の頃に大和・大坂から讃岐に来た可能性も残らないわけでもないので、更に検討を続ける必要がある。ただ、一般に記録に残らない落胤ないし庶子という見方は、それ自体がほとんど眉唾物であるから、これは予め排除しておく。
 
 
 三 讃岐の中山氏と関連する諸氏
 
1 讃岐の久保氏と中山氏
 城山の父祖が久保を名乗っていた事情から、もう少し検討を加えよう。太田亮博士の『姓氏家系大辞典』には、「讃岐の久保氏の項に、天正年間から大内郡相生村馬宿(現東かがわ市馬宿)にあり。家紋はひいら、梶」と記載される。先に、香川郡にも久保の地名があったことを記したが、大内郡に居住した久保氏があったことに注目される(これ以外の久保の地名や久保氏は、歴史的なものとしては、讃岐では管見に入っていない)。
 というのは、大内郡(大川郡)引田町の引田八幡宮の祠官、中山氏は讃岐忌部の本宗であって、忌部宿祢姓と称したからである。引田八幡宮はいま誉田八幡宮といい、現東かがわ市引田(讃州大内郡吉田里)の引田港の北方にある古社である。社伝によると、承和八年(841)に手置帆負命の末裔で大内郡の領主である忌部正國が誉田八幡宮に参拝した際に神託により神宝二品を授かり、一品は伊座中山、もう一品は忌部中山家の後園に祀ると伝える。現在の宮司も中山家がつとめる。しかも、旧引田町(東かがわ市引田町)では、誉田八幡宮・秋祭りと馬宿(うまやど)の山王神社夏祭りが大きな祭とされ、両社は現在は同じ中山秋高宮司が兼帯するから、馬宿は引田八幡宮との因縁が考えられる。この中山家の系図は『姓氏家系大辞典』に見えるが、忌部正國から代々、通字を「正」とするという所伝は、時代や命名から疑問もある。
 ともあれ、これらの諸事情から、久保と中山とが讃岐国大内郡に縁のあったことが分かる。久保を名乗る城山の家も、先祖が中山と名乗っていたという記憶があって、城山のときに中山を名乗り直したものであろう。なお、東かがわ市には別途、引田の北西方に中山という地名もあり、中山神社が鎮座する。
 
2 八幡宮の存在
 大内郡馬宿には山王宮があり、一般に山王は大山咋神を祭神とするから、八幡大神を祭神とする八幡宮に通じる。ところで、讃岐中山家初代とされる左衛門教親が最初に住んだという山田郡田中、現木田郡三木町大字田中にも、田中雷八幡神社という八幡社がある。
 讃岐忌部は、その祖を手置帆負命とするから紀伊国造の同族であり、もと紀伊国名草郡の御木郷(『和名抄』の忌部郷)に居て、御木忌部といった紀伊忌部の支流であった。御木は三木とも書くから、香川県の三木郡の地は讃岐忌部の開拓に因るものか。「雷八幡神」の名に示される雷神すなわち霹靂神は、紀伊国造族の奉斎する祖神で、同族の石見国造も奉斎した。石見国迩摩郡には霹靂神社・国分寺霹靂神社の二社が式内社であげられる。紀伊国名草郡の名神大社鳴神社も、『古屋家家譜』では天雷命を祀るというが、この神は紀伊国造・大伴連の祖である天手力男命(多久豆玉命)の父神にあたる。「鳴神」の意味はイカヅチ(雷、香都知)であり、同郡式内に香都知神社もあって、いま鳴神社の境内社となっている。
 次ぎに、左衛門教親が遷住したという香川郡由佐にも八幡宮がある。いま高松市香南町由佐にある冠纓(かんえい)神社は、香南町地域の氏神であったが、もともと冠尾(かむろ、カムリヲ)八幡とよばれ、八幡宮だった。同社は式内社ではないが、讃岐では金刀比羅宮に次ぐ歴史的由緒のある古社として知られ、貞観三年(861)に智証大師円珍の創建と伝えられる。冠纓神社は、由佐文書に「安部晴明代々神主にて候」とあって、代々、安倍晴明の子孫が神主を世襲したと伝えるが、これは、陰陽道の安倍晴明が祭祀卜占を司る忌部の転訛であった可能性もある。由佐には天満宮もあり、これも八幡に通じる。
 讃岐忌部関係といわれる神社はまだあり、三豊市豊中町笠田竹田忌部の忌部神社は、旧村社で、祭神を手置帆負命とすると伝える(『香川県神社誌』)。こうしたみると、讃岐忌部は讃岐の東から西まで広く分布したことがわかる。
 
3 友安三冬の一族
 ところで、冠纓神社はもと宝蔵寺が別当であったが、明治になって友安氏が神職となった。現在の友安宮司は尊皇思想家で高松藩の国学者として知られる友安三冬(1788生〜1862没)の後で、32代目当主に当たるとされる。友安三冬は盛彬または彬といい、通称良介、号は楢屋または竹渓といった。国学を備中の藤井高尚に学び、高松藩主松平頼恕に召されて侍講となったが、『楢屋翁和歌集』『楢屋家集』という歌集が知られる。その門人には猪熊夏樹(讃岐の白鳥神社祠官猪熊慶歓の次男)、松岡調らがおり、これら門人は幕末から明治にかけて国学者として讃岐・京都で活躍している。
 友安氏は初め佐料氏といい、香西氏の臣で香川郡佐料(高松市鬼無町佐料)の城主であったという(佐料城は香西氏の平時の居城だったから、当地の土豪か)。その祖先は高松の石清尾神社の祠官で佐料三郎盛邦といい、子孫の友安盛貞は、国学の素養があり「讃岐大日記」という書を著わし、和歌もよくした。その子の盛岡も国学・和歌にも長じており、その子の盛方(1732生〜99没)は友安三冬の父であって、神職のかたわら医を業とし、和学を修め和歌に長じていた。石清尾神社も八幡宮で、高松の鎮守であり、石清尾山の東麓の高松市宮脇町に鎮座する神社である。この社も式外であるが、そのなかでは讃岐最大といわれ、延喜年間の創祀と伝える古社である。
 江戸前期の讃岐では、白鳥神社の神職・猪熊千倉と石清尾八幡宮の神職・友安盛貞が「讃岐の碩学」と呼ばれたが、猪熊千倉は卜部朝臣兼古のこと であり、歌人・国学者であって、高松藩主松平頼重が二百石の朱印状を有する白鳥神社の再興のために京都の平野神社祠官から迎えられ、水戸藩の大日本史編纂 に対しては材料となる史料を提供した。神祇を司る卜部氏の一族で、堂上公家の吉田・猪熊(後に藤井)氏と同族であるが、京都から迎えられる場合の一例といえよう。
 こうした諸事情からみて、讃岐の友安氏ないし佐料氏の系譜は不明であるが、友安三冬の一族に中山城山の一族と同じ様な匂いが感じられる。鬼無町佐料には古宮があり、旧名を宇佐神社というから、これも八幡であり、鬼無町佐料の西北には中山町という地名も見えるから、あるいは両氏は遠い同族であったか。
   
※猪熊(卜部)兼古  『藤井家譜』によると、平野預神祇権大副従五位下兼雄の子で、初名は兼之といい、父とともに平野社復興に努め、神祇権少副従五位下となったが、高松藩主松平頼重に招かれて白鳥宮神主ともなり神道を伝授し、延宝六年(1678)十一月に死去した。なお、兼古の跡の白鳥宮神主職は孫の兼慶が継いで讃岐に移り、京都の猪熊家は兼慶の跡を弟の兼充が継いで、兼充は従四位下民部権大輔に任じて初めて堂上に列し、公家藤井家の祖となった。
白鳥宮神主職は、その後、兼泰が慶壽(兼充の子)を養嗣とし、慶壽の跡をその実兄の兼功が継いで猪熊家が世襲したが、明治になって『源氏物語湖月抄』の校訂本を著すなど国学者として著名な猪熊夏樹を出している。
 
 
 (本稿の一応の結論)
 こうして様々な形で、讃岐の中山氏を取り巻く諸事情を見ていくと、その系譜として最も蓋然性の高いのは、讃岐の古族で讃岐忌部の流れを汲む中山氏の同族が中山城山の一族ではないかという推測である。傍証と推測が多い試論としての記述となったが、新出の史料がない限り、この辺が穏当なところではなかろうか。
 
 様々な史料と有益な示唆をしていただいた真鍋様の基盤のもとに本稿ができた次第であり、その学恩に深く感謝する。本推論の展開に誤解があったり、結論的な部分が氏の本意でなかった場合には、謝するほかないが、史実探究のための一投石であることに免じて、御寛恕されたいとも願うものである。
 
  (08.10.27 掲上、09.2.14追補)
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