伊勢の大鹿首氏の系譜と氏人

(問い) 伊勢大鹿首(伊勢大鹿氏、大鹿首)が当方の祖先とされたものです。このサイトでは、【伊勢氏】とされています。伊勢氏と大鹿氏は別系統ではないでしょうか?
 また、【菊間国造 大鹿国直】と【大鹿首】には何か関連有りますでしょうか?
 
   (ohshika様より、08.5.4受け)

 (樹童からのお答え)

1 伊勢氏と大鹿氏の同族性

 伊勢の大鹿首氏については、『姓氏録』未定雑姓右京にあげられ、「津速魂命三世の孫、天児屋根命の後なり」と見え、その系譜が中臣連一族に出たことが記され、これではきわめて漠然としていますが、詳細な中臣連の系譜には、崇神・垂仁朝に活動した大鹿島命の子に@大楯命、A相鹿津臣命、B臣狭山命の三名をあげて、@が常陸の中臣鹿島連の祖、Aが伊勢の大鹿首・川俣連の祖、Bが中臣連の祖と記されます。
 一方、伊勢朝臣氏は、『姓氏録』左京神別にあげられ、天底立命ママ)天日別命の後なりとのみあり、具体的な系譜は不明です。この家が伊勢国造の家であることはまちがいないところですが、「国造本紀」には、神武朝に天牟久怒命の孫、天日鷲命を国造に定めるとあり、「天日別命=天日鷲命」で天日鷲命すなわち少彦名神の後裔に位置づけられそうにも見えます。しかし、伊勢朝臣が伊勢直の後で、先に中臣伊勢連を賜っており、天牟久怒命(天椹野命)は天忍雲根命(天村雲命)と同神で、年代的にその子の天種子命(中臣連祖)の兄弟に天日別命が位置づけられるとみられます。これは、伊勢国造が中臣連の初期に分かれた氏族ということを意味します。天椹野命は「天神本紀」に中跡直(ナカト)の祖と見えますが、伊勢国河曲郡中跡郷に起る氏で、式内社の奈加等神社(鈴鹿市一ノ宮町)を奉斎したとみられます。
 川俣連も、鈴鹿郡川俣神社に関連するとみられますから、後の鈴鹿・河曲二郡のうち河曲郡に起ったとみられます。『姓氏録』河内神別にあげられる川跨連と同じで、この氏は天児屋根命の九世孫の梨富命の後と同書の記事にありますが、梨富命とは相鹿津臣命の曾祖父にあたります。
 大鹿首氏の後裔は三重郡で大鹿三宅神社を奉斎したとみられますが、一族が山辺御園や河曲神戸にも居たことが史料に見えますので、相互につながりがあることが推されます。すなわち、ここまでの記述で、伊勢氏と大鹿氏は中臣氏族という同系統であることが知られます。

 
2 大鹿首氏の系譜と氏人

 大鹿首氏の系譜は、相鹿津臣命の子に若子命をあげて「大鹿首・川俣連の祖」と記し、その後は系図史料に見えません。とはいえ、伊勢有数の豪族として、敏達天皇の後宮に入った菟名子(小熊子郎女ともいい、桜井皇女などの母。伊勢大鹿首小熊の娘)を出しており、奈良時代の後宮女官として大鹿臣子虫が見え、従五位下まで昇叙されています(『続日本紀』天平宝字五年〔761〕六月条など)。
 氏の姓は臣、さらに宿祢に変わり、平安中期頃には山城権少掾に任じた大鹿衆忠、伊勢少掾に任じた大鹿徳益、伊勢介に任じた大鹿国廉や相撲人に大鹿一族が見えます。伊勢の在庁官人として大きな勢力をもっていたことが分かり、これが源平争乱期にも『東鑑』文治三年四月に「介大鹿俊光、散位大鹿兼重、惣大判官代散位大鹿国忠」が見えます。その後の中世での動きは分からなくなります。中世の丹波には大鹿氏が見えますが、これは伊勢から行った可能性もあります。

 
3 東国の大鹿氏など

 先に大鹿首の先祖が常陸にも関係したこと、先祖に相鹿津臣命がいたことをいいましたが、「相鹿」(アフカ)が音の類似から大鹿に通じることが知られます。ところで、常陸国行方郡には相鹿の里があり、『和名抄』の逢鹿郷(潮来市北部の大賀一帯。鹿島神宮の北西で北浦対岸)にあたります。中世下総の土豪に大鹿氏があり、相馬郡取手城(大鹿城)の主で常陸守護でもあった小田氏の配下とされますから、相鹿の里との所縁も考えられます。
 こうした事情からみて、古代上総にあった菊間国造の初祖とされる大鹿国直との関係も、管見に入っていませんが、居地や通婚などの所縁があった可能性もないとはいえません。菊間国造は上古の房総に繁衍した上海上国造の一族で、武蔵国造などと同族で出雲国造と同じ天孫族・天津彦根命の流れですから、中臣氏族とは男系では関係が見られませんが、女系を通じる所縁もないとはいえません。

 (08.5.5 掲上)

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