華道の池坊氏

(問い)華道で有名な池坊氏は、遣隋使として中国に渡ったことで有名な小野妹子の後裔と伝えますが、本当でしょうか?

  (Ick様 07.9.16受け)

 

 (樹童からのお答え)

 池坊氏については、太田亮博士の『姓氏家系大辞典』297頁に、京都の六角堂頂法寺池坊より発すとあり、記事では永観中(983〜985)に住僧専慶が仏供えの立花に妙を得たりとし、これが池坊第十二代にして挿花家の祖なりとし、第二六代専順がまたその旨を発し、第二七代の専鎮が将軍足利義政に知遇をうけ花道家元の称号を賜ったとあります。その出自については、「其起源小野妹子に発すと云ふも疑ふべし」とのコメントもあります。
 
 池坊家では、現当主の専永氏を第四五世として数えるとのことで、その場合、初代は小野妹子とされています。まず、池坊氏の初期の歴史を概観しますと、初期については不明な点が多く、十分な検討を要します。
一般に流祖とされる立花(たてばな)の名手「専慶」は、上記1の「永観中」とは異なり、室町中期の文明年間(1469〜86)頃の人とされますが、生没年不詳です。この人物が実在であれば、ここから池坊氏の具体的な歴史が始まりますが、種々の問題がありますので、後ろでもう少し検討を加えます。
次に著名なのが池坊第二九世とされる専応専慶を初代にして池坊11世という数え方もあり、その場合に現当主の専永氏は27世になる)で、享禄三年(1530)をはじめとして天文年間(1532〜1555)には、度々宮中に招かれて花を立て、また「池坊専応口伝」を著して立花の理論・技術を体系化し、天文五年(1536)には『仙伝抄』を相伝しており(専慈と同人)、立花の大成者となりました。
さらに、江戸時代初期には、池坊第三一世専好1542生〜1621没)は、立花の中興として活動し、ほぼ現代の生け花様の立花が確立されたといい、華道の家元として江戸時代中期に興った遠州流などの本流として、子孫が現在に至っています。現専永家元は華道の国際化につとめ、海外での活躍や支部拡大がめざましいものがあります。
こうした池坊華道の約五五〇年超の歴史のなかで、系譜的にも確実なのが戦国期の専応からであり、近藤安太郎氏も、専応以降の歴代を『系図研究の基礎知識』であげています。
 
 それでは、専応より前の池坊氏の歴史が分かるのでしょうか。ご質問には、これから解明しないと端的にはお答えできないのですが、室町中期に美濃の武家・市橋氏と通婚し、それが縁で同氏に入嗣した者が出て、池坊の系譜も伝えられており、池坊氏は藤氏公家西園寺氏の庶流であったことが分かります。それを以下に具体的に記します。
 
(1) まず、専慶については、禅僧大極が記した『碧山日録』(1459〜68年で、1464年を欠く)という書にのみ現れ、寛正三年(1462)二月に近江国守護佐々木持清に招かれて金瓶に草花数十枝を挿し、洛中の好事家が競って見物したという。同書には、連歌師としても著名だとされる。これを受ける形で、京都東福寺の僧・月渓聖澄による『百瓶華序』(1600年成立)には、池坊の流祖とされる。
専慶は、小野妹子から12代目の子孫という所伝もあるが、年代的にもこれはありえず、住坊とした六角堂(紫雲山頂法寺)を聖徳太子が建てたという伝承があって、これに基づいて小野妹子を始祖と訛伝したのではないかと思われる。
 
(2) 室町中期で、専慶のほぼ同時代人として、史料に「池坊専順」なる者があらわれる。嘉吉三年(1443)の頃より連歌師として活躍しはじめたのが知られ(『何木百韻』)、寛正二年(1461)に六角堂法橋と称し、寛正三年に挿花初見という。上記にもいうように、挿花池坊流二十六代の当主で、挿花に関する『美巻伝』『衍巻伝』二冊を著し、また、飯尾宗祇(生没は1421〜1502)と同時代の連歌の達人(一説には、宗祇の師)で、『新撰玖玖波集』には百十一句が採られている。その没年は延徳元年(1489)と伝えられる。この専順と専慶との関係は、どう考えるのがよいのだろうか。
 
(3) この辺の問題を解決する鍵として、美濃に起った武家市橋氏の系図が有効と考えられる。明治の系図学者鈴木真年翁関係の史料に、市橋氏に関連して池坊氏の系図が付記されている。
具体的な系図としては、鈴木真年編の『諸氏本系帳』(東大史料編纂所蔵)第七冊に市橋氏系図があげられ、これと関連して同好の士であった中田憲信編の『諸系譜』第十二冊にも市橋氏系図が掲載される。ここでは、前者を基本として記すことにする。
それら市橋氏関係史料に拠ると、市橋氏自体は、清和源氏頼親流と称する陸奥石川郡の石川一族から出ているが、承久の変の功績で美濃国池田郡の市橋庄を賜り、世々美濃国に住してきた。文明十二年に死んだ市橋太郎長氏(一伝に七郎長久)は、池坊専順の娘を娶ったが、後嗣がなく、妻の弟の専節を迎えた。専節は文明十年(1478)に父・専順が六十歳代に生まれた子であったが、入嗣して壱岐守利尚と名乗った(系図によっては、長久の子に直信、その子に利信〔一に利治〕をあげ、利信の子に利尚をあげるものがあるから、これら諸事情を案ずるに、長久の二子たる直信・利信が早世して、その後に実姉〔一に叔母〕の手により市橋家に専節が迎えられたものか)。その子が壱岐守(下総守)長利(一斎。1513生〜85没)、さらにその子が下総守長勝(1557生〜1620没)であって、親子は秀吉等に仕えて立身し、幕藩大名家として存続した。
 
(4) 『諸氏本系帳』市橋氏系図に拠ると、池坊専順について、「立花開祖、連歌達者」とあり、応永二五年生まれで延徳元年寂(すなわち、1418〜89で享年七二歳)と記される(一伝には、文明八年〔1476〕に六六歳で死去したともいう)。要は、「池坊専慶=専順」ということであり、上記(1)(2)の対応から見ても、これは自然な記事といえよう。
 
(5) 池坊専順の後では、子として専孝しか記載されていないので、その後の池坊氏とのつながりが直ちには分からないが、専孝には「池坊」と付記されるから、これが太田亮博士のいう第二七代の専鎮に当たり、専応の生没年が文明十四年生、天文十二年寂(1482〜1543で享年七二歳)と系図に見えるから、専応は専順(専慶)の孫か曾孫に当たるとみるのが自然であろう。
いま伝えられる系図では、「専慶━専能━専秀━専勝━専和━専昭━専増━専明━専承専誓専応」とされるが、これが信頼できないことは、専応と専順との年代対比からも明白である。ちなみに、正徳元年(1711)に死去した第三四世専養の伝によると、専慶を元祖として、二世が専承、三世が専誓、四世が専応とされるから、これが正しい数え方であろう(その場合、現家元は二〇世となる。専純は第三六世、第三八世を重ねて継ぐ)。
 
(6) いよいよ、専順(専慶)の父祖となるが、専順は専永の養嗣であって、西園寺家の右大臣実永(専永の実兄で、右大臣。生没は1377〜1431)の実子とされる。実永の後の西園寺家は、その子の公名(太政大臣。1410〜1468)、その子の実遠まであげられるが、専順の生没年と整合していることが分かる。なお、『尊卑分脈』の西園寺家の記事でも、西園寺公望が明治に提譜した『西園寺家譜』にも、専永や専順の名が見えないが、西園寺家の系譜では実永・公名のあたりがきわめて簡略になっているので、しかも他家に養子に行った者なので、欠落したと考えてとくに無理はない。
 
(7) 専永の養家が六角堂の池坊であるが、この家も西園寺家の早くに分かれた支流であった。すなわち、西園寺家第三代の実宗の弟に参議民部卿となった実明(1153〜1209)がおり、その子の公遍阿闍梨が祖であった。公遍の後は、子の「房順(実は甥で、蓮華王印執行の明暹の子)─房教─房暹─房覚─房専─専教─専智─専永(養嗣)」と系がつながるが、房教までは『尊卑分脈』に見えるから、信頼して良かろう。房教の孫の房覚に初めて「六角堂池坊」と註記されるから、鎌倉後期頃の房覚のときに同所を住居としたものか。
 
 以上に見てきたように、池坊氏はどう見ても藤原姓公家の名門西園寺家の支流であったことが分かります。尊経閣文庫所蔵の『諸家系図』にも第五冊に市橋氏の系図が掲載され、「家伝にいわく、その先三条家に出自する」「専順は当家池坊元祖、宗祇とともに和歌に達し世に鳴る」と記されます。
どうして、こういう名流の系譜所伝を失ったか不思議ですが、十五世紀後半の応仁・文明の大乱などで京都が荒れ、多くの貴重な文献が失われたことに因ったものかもしれません。六角堂は、中京区六角通東洞院西入堂之前町に所在しますが、洞院家も西園寺家の有力な支流であったものです。
 
※ まったくの余談ですが、宝賀会長は、随分昔に現家元専永氏の話を聞き、池坊家元がいまだに仏門で修行されたことに驚いた記憶があり、その長女で次期家元予定者の由紀(専好)さんの夫雅史氏とは、彼が三原税務署長時代に歓談したこともあったとのことです。
 
 (07.10.18 掲上)
  
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