備中国真鍋島の開発主真鍋一族の系譜


             備中国真鍋島の開発主真鍋一族の系譜(試論)

                                            宝賀 寿男

  香川県在住の真鍋敏昭様から様々な資料とともに真鍋氏の出自・系譜について問い合わせを受け、具体的に調べてみると、予想もしなかった形で古代に向かって検討分野が広がり(私の関心が基本的に戦国期や近世に向いていないこともあるが)、興味深い知見を得た。ただ、トータルでは決め手に乏しいのが現存資料でもあり、基礎となるべき「真鍋先祖継図」についても、系線が引かれていないうえに不鮮明な個所がいくつもあって読解が難しく、以下に記すのは、本文、系図解読ともに「試案」にすぎない。これを叩き台にして、大方のご批判をいただければ、さらに再検討の方向で考えたい。
  
 まず、真鍋様からの来信を紹介する。

  香川県在住の真鍋といいますが、「まなべ」氏のルーツを調査するようになって約30年の歳月が経ちました。まなべ氏の発祥地は、今のところ岡山県笠岡市の真鍋島と考えています。真鍋氏の初見は、源平時代の真鍋五郎助光、真鍋四郎の兄弟(『源平盛衰記』。『平家物語』もほぼ同様)ですが、其の頃「まなべ」の地名のある場所は、同所しか見当たらないし、一の谷合戦の平家方の武士の居所として自然であるからです。
 「平家物語」、「源平盛衰記」ともに、まなべ氏の姓については記していません。真鍋島の真鍋氏は、藤原姓を称しています。約550年前に作成された「真鍋先祖継図」(享徳2年)に、そう記しています。香川県の真鍋氏も真鍋五郎助光の子孫と伝わっています。香川県の真鍋氏の姓については、最も古いのが、約300年前に著された「睡余録」(作者は真鍋弥助祐重の一族と称する藤井氏)に記されている藤原姓です。「三代物語」は、ほぼ同時代に作成されたものですが、真鍋弥助祐重の子孫の家紋が橘である旨記しています。姓については記していません。香川県の真鍋氏が橘姓という記載の初見は、約260年前の延享5年作成の「阿野郡南旧家由緒書留」で、真鍋弥助祐重の四代之苗裔と称する真鍋文左衛門祐隆が遠祖が真鍋五郎橘祐光と記している事です。真鍋氏が、藤原姓なのか、橘姓なのか、それとも古代の姓はハッキリしないのか、明確な決め手がありません。
 ところで、私が長年、併せて気になっている事があります。それは、「新編姓氏家系辞書」(太田亮、丹羽基二)に、「眼部宿弥(まなべのすくね)」という氏が記されており、「眼の仕事をしていた部民ではなかろうか、という記載をしている事です。私は、「新撰姓氏録」をはじめ、種々の史料をみましたが、今までに「眼部宿弥」という氏を古代に作成された文献、史料で見た事がありません。若し、「眼部宿弥」が記されているシッカリした史料をご存じであれば、この辺もご教示をお願い出来ないでしょうか。

  (08.7.28 受け)


 検討のはじめに

 真鍋氏の系譜は非常に難解で、しかも系譜関係資料が乏しいことから、現在に残る史料や地名・神社などから、総合的に推測してみると、次のよう なものではないかと思われます。ただ、これは現段階のもので、新たに別の史料が出てきたら、再考の余地が十分あることをお断りしておきます。また、読者の ご批判・ご指摘を仰げることができれば、幸いです。
 
 真鍋氏は、讃岐を中心に吉備あたりから対岸の伊予−讃岐−阿波−和泉(日根郡)にかけての地域に中世に居住していたようですが、中世に細川氏や大内氏などに従って行動していた事情もその分布の背景にあります。この地域で真鍋の地名は、ご指摘のように備中国小田郡(現岡山県笠岡市)の真鍋島しかありませんので、この地から起った苗字としてよいと思われます。なお、マナベには「真部」「間部」「真名辺」「真辺」「真名部」「間鍋」という様々な表記も見られますが、これらは地名や古代の職業部(部民)には見えませんから、地名の真鍋から入るのが適当かと思われます。
 次ぎに、その姓氏と出自ですが、管見に入ったところでは、@藤原姓で大納言信成後裔説、A橘姓で伊予国新居郡の橘遠保後裔説、B讃岐の綾姓、が主なところです。そのいずれも決め手がありませんが、藤原姓説は、「藤大納言信成」なる者の該当者は存在しないので、讃岐の藤姓一族が中納言家成卿後胤を称したことに通じるようであり、この讃岐藤氏というのは実際には讃岐古族の綾君姓ですので、@とBとは相通じるということになると思われます。かつ、地方の藤原姓というのは、中央の貴紳藤原氏の縁者に連なるということで、当地の古族末裔が称していたにすぎない場合が多く、ほとんど何も語らないと考えてよいということでもあります。
 また、伊予にせよ、讃岐にせよ、中央の公家・橘朝臣一族が土着し武士化したことはないので、この地方の橘姓は姓氏仮冒によるものにすぎず、武家の橘遠保の例と同様、伊予古族の越智(小市)国造一族の後裔となるとみられます。ともあれ、この二説以外の可能性も含めて、以下に具体的な検討を加えてみることにします(以下は、「である体」で表記)。

 
 一 真鍋氏の分布

 検討の手がかりは、苗字の分布地域、地理配置や橘姓などとなるが、まず真鍋氏の分布から検討する。
 ところで、真鍋氏を名乗るものは、真鍋島のほかは主に室町・戦国期の讃岐に見られるから、この二地域が検討の主対象となる。讃岐では、天正頃の香西伊賀守佳清の臣で、後に生駒親正に従った真鍋弥助祐重が拠った山田郡木太(木田)村の向城(高松市街地の東側。神内城の東近く)、真鍋権頭が拠ったとされる香川郡坂田村の室山城あたりに中心があった。源平争乱期に見える真鍋五郎助光の後裔が山田郡木太の城主であって、その一族の代表が真鍋弥助祐重だという。高松の生駒藩家臣団には、真鍋・真部を苗字とする藩士が数名見える。
 いま大川郡長尾町域(現さぬき市)には、まなべ一族が居り、その南端部の多和(現さぬき市の大字)には五郎祐光の墓があるともいい、橘神社として祀られる。旧長尾町域は『和名抄』の寒川郡長尾郷・多和郷などであったが、長尾郷の北方には鴨部郷があり(旧志度町東部)、小田という地名も見える。
 源平争乱期の『東鑑』元暦元年(1184)九月条に見える橘太夫盛資は三野郡詫間郷に居たといわれ、その子孫を称するものには「まなべ」姓を名乗るものが多いともいう。『香西史』には、「讃岐橘氏ハ伊予橘氏、即チ従三位大納言鎮守府将軍橘好古ヨリ出デ、寿永年中詫間城主橘大夫盛資出テ、後海崎長尾真部等ノ諸氏ヲ出シ。鎌倉室町時代ニ亘リテ大イニ繁栄シタリ」と見える(ただし、下線部分は疑問で、削除が妥当か)。西讃には数多くの真鍋姓を名乗る人々が住んでおり、特に三豊郡(もと三野郡)の詫間町・仁尾町(ともに現三豊市)や同郡大野原町(現在は観音寺市が冠される)青岡、仲多度郡満濃町(現まんのう町)などに分布が多い。讃岐国三野郡は、真鍋島から見ると海上を南方ないし東南に十数キロほど進んだ陸地である。
 大野原町青岡のすぐ隣に本庄(観音寺市域)という地名が見え、その北東約二キロにある母神山(はがみやま)古墳群の中に「真鍋塚」がある。近在の粟井居住の真鍋氏所有に因る命名とのことであるが、粟井にある苅田郡の式内名神大社が粟井神社であり、祭神を忌部の祖・天太玉命とするが、その原型は阿波忌部の祖・天日鷲命(天太玉命とは兄弟関係)だとみられる。同社は苅田大明神とも称された。
 旧満濃町北部にも鷹丸山西麓に長尾の地名があるが、これが『和名抄』の鵜足郡長尾郷の地である。長尾郷の北隣には栗隈郷があり、現在は栗熊や岡田の地名も見える。また、鴨部郷は阿野()郡にもあり、坂出市東南部の加茂(本鴨、鴨庄)のある地域である。「鴨」関係の神社・地名は吉備に頗る多い事情にある。
 こうして真鍋氏の分布を中心に見ていくと、おのずからいくつかのキーワードが浮上してくる。

 
 二 讃岐の橘姓−長尾氏と「真鍋先祖継図」

 そこで次ぎに、讃岐の橘姓を考えてみる。『姓氏家系大辞典』では、讃岐の寒川・三木等の諸家を橘家・橘党と称したと記されており、『南海流浪記』には仁治四年(1243)の記事に鵜足津の橘藤左衛門高能という御家人が見えるとする。
 橘姓で鵜足郡長尾郷から起ったのが前項でも触れた室町期の大族、長尾氏である。南北朝期の細川頼之の部将海崎元高を祖とし、武功により長尾郷を得て長尾城を築き、長尾大隅守といった。『全讃史』等に拠ると、宿祢公忠の裔であって、もと三野郡詫間郷の筥御崎(現在の三豊市詫間町の西方に突出した荘内半島の先端部の箱崎)に居たので海崎氏といったとされ、戦功により栗隈・岡田・長尾・炭所の四村を領した。子孫はこれらの地に存続し、戦国末期に出た長尾因幡守・備中守兄弟に及んで、土佐の長曽我部元親ないし秀吉の四国遠征にあい、城邑を失ったとされる。この讃州長尾氏は『見聞諸家紋』にも橘家として取り上げられる名門であった。もともと、長尾・炭所の地域には、橘姓の大谷川左近太夫光兼一族がいたが、細川頼之により滅ぼされたとされるから、大谷川氏と海崎氏とは同族であった可能性もある。
 三野郡の筥御崎は、真鍋島から真南に海上を十キロ進んだ荘内半島に位置する。この半島地域には、丸山島にある浦島神社をはじめとして浦島太郎の伝説が根強く残るというから、これも橘伝承につながるものか。丸山島の対岸には鴨ノ越という地名も見える。こうした地理事情からみても、真鍋氏と海崎・長尾氏との同族関係が傍証される。両者は橘姓を共通にすることに加え、通字的に見られる「資、祐、助」を共有していた。すなわち、長尾氏の祖という橘太夫盛と真鍋五郎光・真鍋弥助重に加え、享徳二年(1453)五月に真鍋貞友が記したと末尾にあるご提示の真鍋先祖継図には、日方間大夫資(「馬」は誤読)、資光、又二郎資信など「資」を用いた名前が多く見える事情にある。
 同系図は、はじめに記載される藤大納言信成から始まる三行を捨象すると、実質は□□(「非遠」ないし「非道」のように見えるが、子孫の名前から推するに「信道」か)から始まる。次ぎに、「其子三人、(※改行して)嫡子日方間大夫資 二男福原新大夫 三男サウツノ七郎、(※改行して)其嫡子重貞平三殿 嫡女大子政重七郎入道妻、(※改行して)二男信貞……、(※改行して)三男資光五郎殿……」と記される。これらのうち、資光には「五郎殿」とあるから、真鍋五郎光に当たる可能性が大きく(『笠岡市史』第一巻に同説)、系線がないため系図の読解はかなり難しいが、日方間大夫資の三男とみるのが穏当なところか。
 また、同書には、六郎次郎高能、四郎家高、九郎泰高など「高」を名前に用いる者もかなり多く、先にあげた長尾(海崎)元高にも通じそうである。六郎次郎高能も、上記仁治四年の橘藤左衛門高能にあたる可能性があり、その場合には、五郎資光の兄の「信貞−六郎藤信−大浦二郎円智」という系であって、この円智が六郎二郎高能にあたるとすれば、年代的に符合することになる(大浦は北木島の地名にあるが、鵜足津にも通じるか)。その子に家高(四郎と六郎が同名で記載)が見えるが、この辺が長尾元高の先祖筋につながるものか。
 真鍋島の真鍋貞友の父はもちろん先祖も、系線がない関係ではっきりしないが、おそらく日方間大夫資の弟の福原新大夫の流れに出たものか。系図に見える苗字の日方間は真鍋島東部、福原は同島中部、沢津(サウツ)は同島西部の地名であり、真鍋城跡がある城山(じょうやま)は日方間と福原のほぼ中間に位置する高地にあり、その北側山麓の岩坪地区には真鍋氏代々の墓地といわれる五輪石塔群がある。この石塔群は、平安末期から戦国末期にかけて約四百年間の各時代の様式が見られるといわれ、真鍋という地名は西行歌集や鎌倉期の地名に既に見えるから、真鍋の苗字も平安末期までに発生していたとして問題がない。島の開発はその頃までに始まったことになる。
 真鍋島の東端部あたりには島最高の地点・城山(標高127M。こちらの訓は「しろやま」)があり、城郭があったが、採石のため原形を失っている。平安時代末期から藤原姓を名乗る真鍋一族が水軍の根拠地を置いて、全盛期には付近の島々をことごとく支配下に治めていたというから、瀬戸内海を展望して往来する 船舶の監視を行う出城ではなかろうか。真鍋島は笠岡市笠岡港から南方約18kmの位置にある島であり、この地にわざわざ進出してきたのは、海上交通の要衝 を押さえる意味合いが強かったか。
           
 
 「真鍋先祖継図」には、もう一つ気になる部分がある。その中間ほどに、「日方間大夫二男信資 権守(?)嫡子盛資 (※盛資の左横に)二男資政、(※盛資の下に)嫡子資清、(※資政の下、資清の横に)新左衛門佐資保」と記される部分であり、数行おいて「二男政重七郎」とあげる部分である。この政重は、嫡子日方間大夫資の嫡子重貞(平三殿)の嫡女(大子)が「政重七郎入道妻」と記される者にあたるから、世代的に日方間大夫資の孫世代におかれることになる。ここから考えていくと、「日方間大夫二男信資」とは「二男福原新大夫」の名にあたり、盛資はその嫡子、資政は盛資の弟で政重は資政の二男(従って、新左衛門佐資保は資政の長男)、と整理される。そうすると、盛資は五郎資光と同世代の人と解される。この盛資こそ、寿永年中の詫間城主橘大夫盛資に相当することになる。
 こう解釈していくと、系線がないのが惜しまれるが、総じて「真鍋先祖継図」は史料と符合する良質な内容を伝える中世系図だと評価されよう。

 
 三 鴨族とその吉備到来

 中世に系譜を仮冒して橘姓を称した地方武家としては、東海道の駿遠地方か四国北部の伊予・讃岐や熊野・紀伊などに多く見えており、その系譜の実態としては、古代の物部氏族の大矢口宿祢・大新河命の流れを汲むもの(越智・新居一族など)、同じく物部氏族の熊野国造族裔(楠木正成一族)、少彦名神の後裔あたりが多かったのではないかと推される。これらはみな天孫族の天若日子(天津彦根命で、天照大神の子とされる)の流れを汲む氏族であり、「をち水(変若水)」「養老の滝」や「常緑樹の橘」など、不老不死や若返りなどに深い関連が見られる。
 備中の真鍋島に起こって讃岐に展開した武家一族が、橘朝臣姓を称しても中央の橘朝臣一族のはずがないから、その出自を考えてみる。先に、上記において見た地名のなかに、ある特定の古代氏族を示唆する地名群があった。具体的には、「三野・栗隈・岡田・長尾・鴨部・小田」という地名であり、これらは総合的に考えると、天孫族の流れを引く少彦名神後裔の鴨県主一族につながるものである。三野は、河内の三野県主(『姓氏録』所載の河内神別・美努連で、鳥取の同族)であり、三野前国造(同族に美濃の鴨県主がいる)であり、栗隈・岡田は山城の鴨県主の移動経路にある山城南部の拠点地であり(式内社の岡田鴨神社がある)、長尾・平尾などは吉備及び讃岐にもあって、鳥の「尾」に由来する地名・苗字である。そして、真鍋島には少彦名神たる松尾神に因む松尾の地名も残る。
 真鍋氏が拠った讃岐の向城についても、岡山市土田に向山(むこうやま)と呼ばれる山があり、この地にかつて天鴨(あまがも)神社があったことから、地元では鴨山と呼ばれる事情もあり、いまは天津神社がある。「向」は讃岐にも出てきたが、山城北部の鴨県主の本拠近隣にも向日丘陵があって、丘陵先端部の元稲荷古墳(全長94Mの前方後方墳で、向日市向日町北山にある)はこの地域の最古級の古墳とされるから、初期鴨県主一族が築造したものか。同墳のすぐ南には式内社の向神社(現向日神社)があるから、もとの地名は「向」であろう。

 もう一つ、例をあげると、いま全国を通じて「真鍋」の地名が顕著なのは、常陸だけである。常陸の真鍋は、霞ヶ浦の北西方の土浦市にあって、近くには笠師、木田や矢作、白鳥、手野、神立、粟野(以上は土浦市)、及びかすみがうら市加茂、つくば市小田など、少彦名神関係や吉備・讃岐関係の地名が多く見え、真鍋の近くに青麻神社(仙台市宮城野区にある同名社が総本社とされ、旧称を青麻岩戸三光宮、嵯峨神社などといい、その祭神は本来、天日鷲命すなわち少彦名神とみられる)もある。少彦名神関係の氏族には、鳥トーテミズムや粟・麻・弓矢、繊維衣服関係が目立つという特色が強く見られることに留意したい。常陸北部へは、三野前国造の一族が美濃西部の引常丘から遷住して当地の長幡部・倭文連となった事情があるから、この関係者が真鍋周辺にも居住したものか。長幡部・倭文は美作・吉備にも見られるし(久米郡倭文郷〔現津山市油木〕の倭文神社など)、伯耆には一宮が倭文神社など倭文関係の神社が有力である。
 こうして見ていくと、「真鍋」の島名は、真南辺の島、つまり備中国小田郡の南端にある島という意味であって、これに後から真鍋の字をあてたと考えられているのは、疑問が出てくる。

 また、「長尾」は京都の鴨県主本拠にも地名が残り(上京区長尾町で、下鴨神社の南西近隣)、吉備地方では鴨神社と顕著に結びついている事情にある。すなわち、赤磐市長尾に鴨長尾神社があり、玉野市長尾に式内社の鴨神社がある。倉敷市の玉島地区には、南から長尾・陶・服部の地名も近在して見られる。
 吉備には、このほか式内社の鴨神社が二社(赤磐郡吉井町〔現赤磐市〕仁塀西、御津郡加茂川町〔現加賀郡吉備中央町〕上加茂)あるが、赤坂郡(現赤磐市)には鴨上松原・鴨新田・鴨高岡・鴨常普などの各社、津高郡(現岡山市)の多自枯鴨神社があり、浅口郡(現浅口市)鴨方町の鴨神社、備前国津高郡・児島郡に賀茂郷(『和名抄』)、笠岡市の鴨野など、鴨族関係の神社や地名が多く見られる。四国北部では、式内社だけを見ても、讃岐では、坂出市加茂町の鴨神社、仲多度郡まんのう町の神野神社があり、阿波には三好郡東みよし町加茂の鴨神社があげられる。
 
 以下の部分は詳述すると長くなるので、ほかでの検討をふまえて結論的に記すと、こうした鴨神社や鴨関係地名を吉備及び讃岐・阿波にもたらしたのは、崇神朝に吉備津彦兄弟に従って吉備及び出雲の平定に功績のあった留玉臣命遣霊彦・留霊臣ともいい、桃太郎伝説の「雉」にあたる)とその一族後裔が主だとみられる(後に葛城国造族の田使首一族も吉備来住があったが)。この留玉臣は山城の鴨県主、美濃の三野前国造の一族から出て、山陰道の伯耆国造の祖ともなったが、伯耆にも小鴨・鴨部など鴨関係の地名や鴨神社が非常に多く、吉備と伯耆の間の美作にも勝田・苫東・久米の三郡にそれぞれ賀茂郷が『和名抄』に見えている。
 吉備の氏族では、後に吉備氏にまったく同族化してた三野臣氏(備前一宮の吉備津神社を奉斎。御友別の子の弟彦命を祖とする)や鴨別命(御友別の弟とされる)を祖とする笠臣・小田臣氏などの諸氏は、実際には留玉臣命を男系ないし女系の祖にしていたことは想像に難くない。吉備神官に多く見える堀毛・堀家氏は留玉臣命の後裔と伝えており、吉備津彦に命ぜられて留玉臣が臭気の強い地を掘り返すと、埋もれていた鹿が生き返って向山に逃げて行ったという所伝があって、この縁由で堀生臣(ほりいけのおみ)の「姓」を与えられたと伝える。これが姓(カバネ)というのは疑問で、一種の敬称と思われるが、三野臣か笠臣の一族から、上記縁起でホリケの苗字が生まれたものとみられる。
 御野郡には笠井・笠井山(岡山市街地の北方)という地名があり、三野臣と笠臣との血統の近さもうかがわれる。同郡に「石門別神社」という名の式内社が二社(岡山市の大供表町と奥田)もあるが、この祭神こそ少彦名神の父神天若日子であった(一般に、天石門別神とは天手力男命を指すが、天若日子・明日名門命と混同されることが多い傾向にある)。美濃国には、少彦名神後裔の神骨命の流れを汲む三野前国造・牟義都国造や鴨県主の一族がおおいに栄えたが、この地域にも吉備と同様、真鍋氏や森氏(一族に森蘭丸を出した幕藩大名家)・守屋氏が見られる。後二者は、別の系譜も伝えるが、本来は牟義都国造族の守君の族裔とみられ、牟義都国造は景行天皇の子の大碓皇子の後というが、三野前国造の一族とみられる。吉備では、三野臣の嫡流が大守(大森)を名乗って、備前一宮の神主家を世襲した名門である。
 鴨族の近畿地方での故地は、大和国葛木郡の鴨・倭文であり、摂津国三島郡の鴨であったから、これら鴨関係の地から(美濃国を経て)崇神朝頃に吉備地方にやって来て、御野・津高郡や小田郡などに鴨族は広がり、次いで南方の瀬戸内海に浮かぶ真鍋島を経て讃岐国三野郡に渡り、讃岐・阿波でも勢力を扶植したという経緯が考えられる。讃岐の二つの鴨部郷については先に述べたが、徳島県美馬市(もと美馬郡)には真鍋塚古墳という名の古墳も見られ、阿波国の三好郡に三野郷、名東郡には賀茂郷もあった。

 こうして見ていくと、平安後期になってはじめて吉備から鴨族の支族が讃岐・阿波にやって来たのではなく、古代から長い交流・植民の基礎や歴史があり、それを踏まえた中世武家の活動や分布があったことが分かる。
 
   (次頁へ続く)

                                      





































































































































     









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