(備中国真鍋島の開発主真鍋一族の系譜)(続)

 四 真鍋島と陶山氏

 真鍋島の真鍋氏の系図からは、実質的な初祖「信道」より前の世代は知られないが、吉備のどの氏族から出たのかを敢えて探索の試みをしてみる。 その際、先祖の藤大納言伝承や戦国期の真鍋藤兵衛に見るように、真鍋氏の多くが「藤姓」を称していたことも考慮する。泉州淡輪から出て紀州徳川家に仕えた真鍋氏 も、応永頃の五郎右衛門貞縄を祖として藤原姓を称した。
 地域的な観点と名前の名乗り方からみると、真鍋氏には笠臣氏の色彩がやや濃く見えるようである。笠氏の平安中期以降の系譜は不明であるが、史料には十一世紀前葉に笠良信、笠永信などが見えており、備前一宮神主を世襲した三野臣姓の大森(大守)氏が平安後期以降「時・盛」を通字とする傾向とは異なる。讃岐国香川郡には笠居郷があり、讃岐には笠井氏が多いという事情もある。大森氏の歴代が「王藤内(大藤内)」と号し、中世以降に藤原姓を称した事情もあり、陶山氏が「陶山藤三義高」のように藤姓も称していた可能性もある。

 ところで、笠臣氏の本拠地域は笠岡市(小田郡)笠岡の笠神社を中心とする古代の小田郡・浅口郡が考えられるが、小田郡の中世豪族として陶山(須山、巣山)氏があり、平安後期頃から活動が見られる。同郡陶山村(現笠岡市西北部の大字押撫一帯)から起こり、後に南西近隣の笠岡の笠岡山城に遷住した陶山氏は、十二世紀代の源義親討伐や海賊討伐に際して平正盛・忠盛に従った陶山盛高・泰高親子あたりからその歴史が始まる。泰高は小田郡西浜村の古城を再興して陶山城と改め、以後、そこに拠ったという。同氏は、源平や南北朝期の争乱を戦いながらも存続し(陶山藤三義高など陶山一族は、後醍醐天皇の立て籠もる笠置山攻めに武功があり、近江番場で探題北条仲時とともに自刃した者を多く出した)、室町後期に滅びるまで室町幕府の奉公衆としてかなりの勢力を保って存続した。
 その系譜は、平貞盛の子孫(正度の子という正高の後とする)と称して歴代を続けるが、これは明らかに系譜仮冒である。一族には「高」を通字とし、鎌倉期頃は「道」をつけた名前が多く見られる。『姓氏家系大辞典』には、「笠岡浦の豪族たるを見れば、古代笠臣の後裔か。後世は大江姓を称す」とあり、『中興系図』に「陶山、大江。本国備中、須山共」と記される。その一方、『太平記』巻三の笠置山「笠置軍事 付陶山小見山夜討事」には「陶山三、陶山次」の表記も見え、近江番場の討死者を記す「蓮華寺過去帳」には「陶山七敏直、同新五入道正通」も見えるから、鎌倉後期には藤原姓、橘姓(紀・吉は橘に通じる)も称していたとみられる。また、「笠岡浦」というのは、陶山泰高が西浜(笠岡市金浦)に遷住した後の地であり、義高がそこから約二キロ南西の海岸部、笠岡山に城を持ったことに留意したい。
 
 前掲の「真鍋先祖継図」(本稿末尾に、私なりに整理して「解読案」を掲載しておく)には、源平争乱期頃の重貞に「平三殿」と附記されるのをはじめ、弥平太政光、平四郎国重等々の「平」を入れた称号を見ると、この当時は平姓も称していた可能性があり、「高」の通字といい、真鍋氏は陶山氏に通じるものがある。真鍋初祖の難読な名も、「信」と解すれば、陶山氏により近づく(大守氏の先祖にも「是」という平安後期の者が見えるが)。陶山氏の平家に従った海賊討伐という事績は、平安後期に真鍋島に移住する契機になったことも考えられる。このように地域的事績的に考えていくと、真鍋氏は、小田郡雄族の陶山氏支流から出たとみるのが比較的自然な流れである。
 真鍋島の鎮守は、近世の元禄時代(1688〜1703年)の創建と伝えられる八幡神社であり、応神天皇・神功皇后のほか三女神をを祭神とするから、真鍋氏の出自にどれほど関係があるか不明であるが、天神鼻にあるもう一つの天神社菅原道真を祀るというのは後世の転訛)からも天孫族系統の氏族が当地の開発にあたったことが推される。同名の天神社は、備前国御野郡の式内社にもあげられ岡山市三野本町に鎮座する神社(往古は天津神社、中古に明見宮)に比定されるが、祭神を少彦名神とする。祭神や地域からみて、この式内社は三野臣氏が奉斎したものとみられる。
 真鍋島の地名には、荒神東、荒神西、荒神向、荒神上が見えるが、荒神社は小田郡陶山村(現笠岡市押撫)にもあり、その西隣の備後国深津郡坪生村(現福山市坪生で、陶山氏支族が居住した)にも多くある。韓地のアラ(安羅・阿羅であり、阿耶・綾でもある)から日本列島に渡来した天孫族の遠祖神である。荒神の名は五十猛神(スサノヲ神)であり、これが日本各地の八幡宮で祀られる八幡大神の実体である。中世の陶山庄に属した篠坂には熊野神社があるが、熊野神もスサノヲ神で八幡大神と同体でもある。押撫の皇子神社も、もとはこの熊野神社への古道に建てられた「王子神社」にすぎない。
 陶山地区の有田には式内社の在田神社がある。現在祭神とされる苅田彦・苅田姫の実体は不明であるが、讃岐国苅田郡式内の苅田大明神たる粟井神社に通じるものか。そうすると、少彦名神夫妻が祭神と推される。粟井神社の西方近隣の青岡には真鍋氏の密集地があることは先に触れたが、同社の北方約七キロには笠岡の地名、その北東近隣には鴨谷の地名も見える。
 在田神社の末社で経津主神(武神で、物部・出雲氏族の遠祖) などを祀る陶山神社には陶山義高が併祀されており、そこにはヤタガラスの置物があると報告される。その由来が不明だが、興味深い。ヤタガラスとは、熊野神社の三足烏に通じるとともに、神武創業の道案内で名高いが、その実体は鴨族の祖・鴨建角身命であり、少彦名神ないしその子孫の生玉兄日子命(これが神武朝の人)にあたる。有田の有田八幡神社は、陶山義高が坪生庄の新中八幡神社から勧請し、氏子十三村(有田、押撫、篠坂、西大戸など)で組織したと伝える。在田郷向山の地で足利直冬軍と戦って敗れた陶山氏の者(地元では「陶山義高」と伝えるが、誤訛伝)が陶山神社に祀られるという。

 
 五 陶山氏の同族諸氏と奉斎神

 陶山氏の同族ないし縁由が深そうにみられる小見山氏は、有田や備中国後月郡の小見山城(現井原市高屋で、押撫の北西近隣)に居したという。また、後月郡の笠原氏は 笠臣の族裔か。後月・小田両郡のあった井原市・笠岡市にいま笠原氏があり、いずれも先祖が伊勢貞藤に仕えたと伝える。その支族が室町中期に分れて、伊勢早雲に従い関東下向しており、武州橘花郡小机に住した小田原北条氏の重臣であった。その後裔は江戸幕臣にあり、『寛政譜』には藤原姓のなかに収めて小机城主 の笠原越前信為を祖とする。笠原氏には「平左衛門」「平六」という名乗りも見え源姓ともいうが(『新編武蔵国風土記』)、「太閤記に伊勢新九郎の従者笠原は伯耆の人なりと」という興味深い記事を『姓氏家系大辞典』は載せる。
  ※小見山氏の系譜は難解で、来信もあるので、この頁の下段に追補する。
 旧陶山村の東隣に位置する旧大戸村には、天神社(笠岡市東大戸)や聖霊神社(同市西大戸)があり、後者は遣霊彦すなわち留玉臣命を祀った神社ではないかとみられる。大戸の旧族には守屋氏がいた(ほかに、浅口・下道・窪屋の諸郡にも居住)というから、名乗りから三野臣系統の大守氏同族ともみられるが、吉備の守矢氏は笠臣姓ともいう。天神社は笠岡市の神島や大島中にもある。そうすると、神島外浦にある小田郡式内の神島神社は鴨島神社の意であったか。同郡には、当社と先にあげた在田神社及び鵜江神社の三社のみが『延喜式』所載の神社である。坪生には神森神社もあるが、鴨・森()の意か。
 鵜江神社の祭神はいま吉備津彦とされるが、これは吉備に攻めてきて温羅退治のときにに変じて追いかけた伝承に因るものか。とすれば、鵜に変じたのは鳥トーテミズムをもつ留玉臣が原型ではなかったのか。現在、小田川の支流域には小田郡矢掛町西川面を中心に三社の同名社(ほかに東川面、小林)、宇内には鵜成神社があって、それらが論社とされるが、近世の分祠とみられている。東川面の社伝では、吉備津彦が昇天し遺骸を埋葬する時、御棺が鳴動して一羽の鵜が飛び出したことに因むというが、吉備津彦には鳥トーテミズムがないはずであり、別人と考えられる。西川面の社伝では、吉備津彦がこの国の賊(温羅にあたるか)を討つとき、賊が水に没して逃げるのを、楽楽森彦ササモリヒコ)が泳いでこれを逐った形状が鵜のようであり、遂に賊を捕らえたという伝説があると『神道大辞典』に記される。こちらの所伝のほうが原型に近いとみられるが、楽楽森彦の名は留玉臣としたほうが妥当であろう。鎮座地付近の地名「矢掛」というのも、弓矢関係の多い少彦名神後裔の者が祭神とみられる。
 鵜に変じて水没の行動する伝承は、出雲国造の祖・櫛八玉命についても見られ、国造初代とされる鵜濡渟(ウカヅクヌ)はまさに鵜が水に潜る意である。美濃 では方県郡鵜養郷があって長良川の鵜飼いが古来有名であり、讃岐の鵜足郡には長尾・栗隈などの郷があった。鵜飼の習俗は天孫族が大陸から伝えたもので、中 国四川省でもその習俗が羌族絡みで見られる。
 川面村から小田川を五キロほど遡って西方に進めば、小田郷であり、その南方対岸には甲努郷(現笠岡市甲弩)が置かれたが、この甲弩の地を陶山氏の先祖の盛高が源義親討伐の功で賜ったというから、その是非はともかく、古くから陶山氏の縁故地であった。甲弩神社は明治以前は艮(うしとら)宮などと呼ばれていたから、吉備津宮ゆかりの神社であり、吉備の賊退治に絡む祭神とみられる。現在、若建吉備津彦とされるが、同神かその眷属神としてまちがいない。
 
 笠臣の祖とされる鴨別命が吉備の波区芸県に封ぜられたと応神紀に伝え、これが後の小田郡とみられている。ハクキは伯岐すなわち伯耆であり、法吉鳥(のこと。『出雲国風土記』島根郡法吉郷条) や西伯地方平定の鴬王伝承に通じるから、名前といい地域名といい、実際には上道臣・下道臣を代表とする吉備氏族の系譜ではなく、伯耆国造と同族で、留玉臣命の後孫というのが鴨別命の実系ではなかったかとみられる。松江市法吉町の鶯谷を旧社地とする法吉神社は、島根郡法吉郷所在の式内社で『雲陽誌』に大森大明神と見え、祭神のなかに天太玉命があげられる。
 須山氏は出雲・伯耆にもあって、意宇郡に遷る前の出雲国造の本拠であった出雲国能義郡の須山村(現安来市伯太町須山福富)から起こるとされるから、陶山・須山の地名もこの方面から来たものか。須山の近隣には、森に通じる母理(安来市)や鴨部(西伯郡南部町)もある。巣山と書けば、鳥の巣で鳥トーテミズムが顕著な少彦名神後裔の色相が出てくるし、陶山だと須恵器・土師器絡みで土師連(天孫族系の出雲国造同族)や陶津耳命(これも鴨建角身命の別名)との関連もうかがわれる。これらの事情からば、陶山氏は天孫族の末裔として八幡神や天神を奉斎してなんら不思議ではない。三野臣から出た吉備津宮神主大守氏の支族にも、熊野神社(児島郡林村、現倉敷市林)に奉仕した事情があった。
 なお、讃岐の真鍋氏についても、注目すべき記事をあげておくと、香川景助の著した『讃州細川記』(天和三年〔1683〕)の次の記載がある。
 讃岐で細川頼之に来服してきた諸氏をあげるなかで、まず讃岐姓・綾姓の諸氏をあげ、次ぎにその他の家としては、「三野首領・……鴨部源七・真鍋弥次郎・森次郎左衛門…。…鴨部・真鍋の二士は寿永の昔平家に従て、鴨部源二・真鍋五郎とて各々誉有。又森氏は讃の姓にあらず。……」と記載される。この辺も、鴨部・真鍋の同族性が推されるところである。阿波の賀茂殿は源姓を称したことが『故城記』那西郡分に見える。
 以上に見てきた古代の笠臣・三野臣や中世の真鍋氏・陶山氏については、その具体的な系譜や奉斎神などについての情報が断片的で乏しいだけに、判断は難しいが、総合的に考えていくと、一応のイメージが浮かんでくるのではないかとみられる。

 
 六 一応の取りまとめなど

 真鍋氏・陶山氏を巡る諸事情を見ていくと、両者は後に対立関係にもあったことがあったにせよ、様々な点からその同族性は認められる。また、それらの先祖は、決め手に欠く面があるものの、古代吉備に繁衍した笠臣か三野臣の出であったのではないか。笠臣・三野臣の二氏は奉斎神などからみても、近い同族関係にあり、かつ、吉備氏宗族の上道臣・下道臣(孝霊天皇の子孫を称したが、実系としては海神族系の三輪氏族の流れか)とは男系では異系だったのではないか、とみられる。
 天孫族系の少彦名神の流れを汲む鴨族とその後裔が、吉備から四国北部にかけての地域において、古代・中世を通じて拡がったが、そのなかに真鍋氏があったとみられる。
 これらが本稿の一応の結論である。
 
 あとは、補論ないし関連する事項であるが、
(1) 以上のようにみていくと、吉備氏族というのは、本来は異系であった氏族も包含する氏族体であったことになる。先に、出雲国造族にこうした匂いを感じたことがあったが、私はこれまで学究がいう「擬制氏族系譜擬制による氏族結合)」という概念を基本的に否定してきただけに、多少衝撃的でもある。この「擬制氏族」という見方は、吉備についてもいわれており、具体的にその形の氏族結合も一部あったことがわかったが、その基礎には、たんなる擬制ではなく、また異系ばかりではなく、特定の氏を基幹として、これと度重なる通婚ないし母系などに因む濃い血縁事情があったと推される。こうした諸事情からいえば、吉備が「部族連合国家」であったという見方に与するものではない(たんなる「連合」でもないし、ましてや「国家」でもない)。
 
(2)「眼部宿祢」という姓氏は、「古姓也、以下の氏(注:主として真鍋)はこれと関係あらんか」というだけの説明で『姓氏家系大辞典』に掲げられているが、何を出典にして太田亮博士が記述したのか不明である。『大日本古文書』『大日本史料』など信頼できる史料には見えず、眼関係を職掌とする、こうした姓氏があったことは考えられない。あるいは、漢字の似通った「部宿祢」の誤記・誤解の可能性もあるが、服部連・宿祢も少彦名神後裔の姓氏であった。『和名抄』の吉備の地名を見ると、備前国邑久郡・備中国賀夜郡に服部郷があったことが分かる。
 
 
 <参考> 真鍋島真鍋氏の系図案

               「真鍋先祖継図」の 系図解読案(click)

 (若干の説明)

 真鍋氏始祖の「信道」から享徳二年(1453)の貞友まで三百年ほどとなるが、十一世代ほどが妥当だと考えられるが、こうした世代数と名前や称号の付け方などを考慮して配置し、いくつかの混乱を整理して原型を推定したものである(その他、本文記事を参照のこと)。広信・高能の諸子などにかなり大胆な推測もしてみたが、この辺は名前・称号のつながりを重視したものである。
 文字の読解は、もっともありうべき漢字に比定した。それでも、「真鍋先祖継図」には読解不能ないし意味不明な個所があって、そうした個所は省略したが、大筋には影響がないと考えている。
 系図に見える人々の活動年代を記しておくと、資光・盛資が源平争乱期・将軍頼朝の頃の人、中間に四世代置いた盛縄(盛綱の意か。同人を含め、本系図の「縄」は「綱」と同意とみられる)及び重家は建武頃の人とみられる。
 貞友の父は端的には系図に見えないが、名前と系図上の位置からみて、六郎国貞と推定される。「六郎国貞(法名行念)」が二個所に現れるのも、その事情が背景にあったものか。
 
 そして、以上のように整理してみると、真鍋島から出て讃岐などで展開した一族は系図に見えないことが分かり、真鍋島に残った真鍋氏は大きく二系統(日方間大夫為資の系統と福原新大夫信資の系統)に分かれて続いたことが分かる。このうち、平三殿重貞の嫡女大子に七郎政重が婿入りしたことで、以後は七郎政重の系統が嫡統になって、そこから系図書写者の真鍋貞友を出したものであろう。笠岡諸島のなかで大きい北木島・真鍋島をこの系統が領したのもこの基盤にある。
 また本系図も、一度、南北朝時代に記されたものを元にして、貞友がその約百年後に書き写し、それに自分の系統だけ若干書き足してつなげたのではないかと推される。だから、筆写した貞友が難読だった個所がそのまま曖昧な形で残ったものとみられるし、当時の混乱がそのまま記されているのであろう。
 
  (08.8.15 掲上)



  「鎌倉遺文」に収載の真鍋又太郎義綱
 
      (真鍋敏昭様よりの来信 09.4.27)
 
 最近、『鎌倉遺文』古文書編第十九巻の224頁に
      地頭時盛寄進状案(上司家文書
「於西方寺敷地者、任眞鍋又太郎義綱、右先年のころよせたてまつりた(り脱)しかとも、爲不足間、とら二郎おとこか跡のうち、きさの木ハたけの開發を、重所奉寄也、仍之状如件
         弘安四年後七月六日   左衛門尉時盛  在判」
という史料が収載されているのを知りました。
 周防国衙領東大寺沙汰人のもので、1936年、横浜市在住の上司家に所蔵されていたものを、今の東京大学史料編纂所がマイクロフィルムにして保存していて、それを活版化したものです。
 西方寺は、現在の西宗寺(山口県山口市徳地伊賀地882番地 TEL0835−52−0162)で、「徳地町史」(2005年改訂)年表によると、
   「西方寺の敷地は、先年、眞鍋又太郎義綱が、寄進していたが、不足
    となり、きさの木畠の開發地を新たに寄進する事を、地頭の左衛門尉
    時盛が、弘安四年(1281年)閏七月六日に達する。」
 というのが、要訳した意味のようです。

  私は、意外と早い時期に真鍋氏が周防国に居住している事に驚いたのです。ところで、此の眞鍋又太郎義綱の系統が何時、同国に居住するようになったのか関心を抱いています。
 真鍋島真鍋氏(現在は、嫡流の真鍋吉晴氏は、岡山県玉野市に居住しています。)の享徳二年(1453)の系図(真鍋先祖継図)の冒頭から三分の一から四分の一付近の下端に、「真鍋又二郎義縄」の名が記されています。通称が若干異なり、諱の文字が少し異なっていますが、酷似した名前とは思います。年代的には、不自然さは無さそうです。
 此の二人は同一人物だと思われますが、いかがでしょうか?
 
 <樹童の見解>
 ご指摘の件ですが、結論から先にいうと、たしかに『鎌倉遺文』224頁所収の「地頭時盛寄進状案(上司家文書)」には「眞鍋又太郎義綱」が見えており、この者が「真鍋先祖継図」に見える「真鍋又二郎義縄」当人だと考えられます。
 
 その事情を説明しますと、次のようなものです。
 鎌倉期の人名・世代でいえば、概ね「@頼朝殿時−A承久頃−B建長頃−C弘安頃−D正和頃−E建武頃」という6世代の配置となり、先にあげた考察でも、「資光・盛資が源平争乱期・将軍頼朝の頃の人、中間に四世代置いた盛縄(盛綱の意か。同人を含め、本系図の「縄」は「綱」と同意とみられる)及び重家は建武頃の人とみられる」と記しております。
 すなわち、@が資光・盛資、Eが盛縄及び重家、となり、「真鍋先祖継図」に拠ると、又二郎義縄はちょうどC弘安頃の世代にあたります。呼称のほうは、太郎広縄の子ですから、「又二郎」よりは「又太郎」のほうがふさわしく、『鎌倉遺文』の記事から見て、「又二郎」のほうが誤記だと考えられます。
 
 こうしてみると、「真鍋先祖継図」の信頼性がさらに裏付けられたとみられます。なお、『鎌倉遺文』には他の真鍋氏の者はあげられておらず、周防の真鍋氏がその後にどうなったのかは、この史料からは分かりません。
 
   (09.4.28掲上)



  小見山氏の出自

 <来信> 2015.4.7受け
 小見山氏の子孫で野田と言います。初めてネットを見ました。笠岡の小見山氏の出身地が知られてないのでお知らせいたします。信州佐久の小宮山の出身です。あちらの『佐久の人物と姓氏』の本に「備中の豪族小見山は佐久の末なり」と有ります。

 <樹童の見解> 
 備中の小見山氏は、『姓氏家系大辞典』にも「籠山氏裔」という項があり、「信濃小宮山氏の後」と見えます。この佐久の籠山氏は藤姓ともいうが、この氏自体の系譜が分からない事情にあり、その一族がどのような経緯で何時、備中に行ったのかも不明です。

 ちなみに、建暦3年(1213年)の泉親衡の乱では、泉氏の配下与党のなかに「青栗四郎・保科次郎・籠山次郎・市村近村、粟沢太郎ら」の名前が見えており、保科あたりと所縁の一族かも知れません。
 
 ともあれ、ご連絡ありがとうございます。

 (15.4.10追補)

  →→ その後、小宮山氏について検討して、別途、本HPに掲上しましたので、
        備中と信濃の小見山氏の系譜 をご覧下さい。
                                    


  三足烏





 


















       






















       



























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