舞草刀と白山神そして物部部族

      

       備中と信濃の小見山氏の系譜

 
                                                
宝賀 寿男

 はじめに

 鎌倉期の備中国後月郡(岡山県井原市域)の大族に小見山(小宮山)氏がおり、元弘の変の時、後醍醐天皇の籠もる笠置攻めに同じ岡山県笠岡近在の陶山氏とともに参陣したが、『太平記』巻三に小見山次郎などが見えて、その活動が知られる。一方、東国の信濃・武蔵・甲斐にも同じ氏が戦国期などに活動が見える。こうした事情もあって、現在でも小見山・小宮山という苗字は、西では広島・岡山両県に多く、東では長野・埼玉・山梨の諸県に多く分布する(東京は除く)。
 私はかつて陶山氏を取り上げた検討で小見山氏に触れたものの、その系譜・出自は不明としておいた。これに対して、小見山氏の子孫といわれる野田様から連絡があり、「笠岡の小見山氏は信州佐久の小宮山の出身です。あちらの『佐久の人物と姓氏』の本に「備中の豪族小見山は佐久の末なり」と有ります」、「太平記に『笠置山軍事付陶山小見山夜討事』で後醍醐帝の追い落としや、北條仲時に準じて西国の武士が近江番場の宿の蓮華寺で432名が腹切って死にましたが、国宝の過去帳は「小宮山」となっています」 とのお知らせがあった。
 後者のほうは、『太平記』巻九に見えており、元弘三年(1334)五月に六波羅探題北条仲時とともに随兵合計432人が近江番場で自刃して果てたとある(近江番場宿蓮華寺過去帳)。同書には、備中勢らしき陶山二郎、小見山孫太郎、小見山五郎、小見山六郎次郎、庄左衛門四郎、真壁三郎などが六波羅勢のなかに見える。同過去帳には、小宮山孫太郎吉幌、小宮山小三郎師光、小宮山六郎次郎規真と記され、若干表記が異なるが、各々に対応する者とみられる。
 実のところ、この辺の記事は、太田亮博士の『姓氏家系大辞典』にも見えるものであって、備中と信濃の小見山氏が同族とされるものでもあるが、信濃よりも備中のほうが当初は勢力が大きかった模様であり、かつ、東国の武家が承久の変後の新補地頭などで吉備地方に行った例は、那須氏や庄氏などかなりあるものの、小見山氏が信濃から備中に移遷したことは管見に入っておらず、信濃の小見山氏の系譜自体がまるで不明なことであった事情で、両地の小見山氏が同族だという認識をもてないでいた。というより、同族ではないと考えていて、各々の小見山氏の系譜は不明なままであった。ところが、野田様からのご連絡をうけて様々に考え直したところ、遠く上古代まで遡って考えれば、同族ではなかったかという印象を持つようになったので、ここに提示して、皆様のご叱責をあおごうというものである。

 
 信濃の小見山氏

 備中国後月郡と信濃国佐久郡小見山邑(現・佐久市小宮山)という起源ないし居住の地が、両国の小見山氏について知られるが、それ以上の接点はこれまで知られず、備中のほうの祖系についてはまるで手がかりをえないできた。まず、信濃のほうについて考えてみる。
 信濃の小見山氏については、『東鑑』の建暦三年(1213)二月条に泉親平謀反の同心者として「籠山次郎 同国(信濃)住人」と見える。この氏は藤原姓で、国司の目代であったとか、在庁官人ではなかったかという情報がある。藤原姓といっても、地方の藤原姓の殆どが中央の藤原朝臣ではなく、地方の古族末流がなんらかの縁を称して名乗ったのにすぎないから、手がかりになりにくい。とはいえ、中世信濃武家に多い神姓(神人部宿祢姓)や源姓、滋野姓ではないということに意味が感じられる。そのうえで、起源地が佐久郡ということであれば、ここや近隣地域に多い望月氏などの一族との関係も思わせる。望月氏は、海野・祢津(根津)と並ぶ滋野三姓の一つであるが、実際にはこれら三氏ともに古代大伴氏の末流ではなかったのかという見方もあり、私も、基本的にはこれに傾くことになった。
 海野氏の後裔には、有名な真田幸村(信繁)などを出して幕藩大名真田家につながる流れがよく知られるが、平安後期くらいからこの一族の動きが見え、中世でも滋野姓を称する同族諸氏とともに活動が知られる。先に、古代氏族シリーズで『大伴氏』を取り上げ、この一族について検討したこともあるが、小見山氏については管見に入らず、触れなかった。しかし、地域的に見て、この関係の検討がまず欠かせない。
 まず、小見山、現・小宮山の地の地理的位置を踏まえたうえで、『大伴氏』で取り上げた記事の要約を紹介する。小宮山は千曲川西岸部、佐久市域の中央西部、八ヶ岳北方に位置しており、北側に伴野の地名が見え、西北近隣には望月古宮の地があり、これが大伴神社の古社地とされる。東南近隣には称滋野姓の臼田氏が起こった臼田、その南にその同姓小田切氏の小田切の地もある。いわば、信濃東部の古代大伴氏族の密接関係地域のなかに小見山の地があるということである。

 
 信濃の大伴神社と滋野姓諸氏

 この項が、『大伴氏』のほぼ要約になるが、佐久郡式内社に比定される大伴神社は長野県佐久市望月にあって、現在は「月読命・天忍日命・天道根命」を祭神(ほかに、須佐之男命・大己貴命・少名彦命を合祀)とする。『北佐久郡志』では、祭神を武日命(大伴氏の祖)・月読命とされる。同社の旧鎮座地は、現在地の北五町ほどの字「椀の木(わんのき)」といわれ、「椀」は「椀子・丸子」に通じる地名である。同社の四キロほど西の北佐久郡立科町芦田の古町地区には蓼科(たてしな)神社があり、高皇産霊尊を祀り、その奥宮は倭建東征のときに奉斎したと伝える。いま蓼科社家は伴野という。
 信濃には、『和名抄』に伊那郡伴野郷(旧神稲村あたりで、現・豊丘村)があげられ、この伊那郡のほか『東鑑』では佐久郡にも伴野庄(佐久市の伴野・野沢・臼田・前山の一帯)が見える。『日本霊異記』下廿三には宝亀五年(七七四)頃の同国小県郡嬢里(=『和名抄』の童女〔おむな〕郷で、中世の海野郷。現・東御市本海野あたり)の人、大伴連忍勝が氏寺の堂を建てた善行で生き返ったことが見えるから、当地の有勢者であった。
 小県郡海野から起こったのが豪族海野氏であり、戦国期の海野氏の配下に小宮山氏があって、『千曲真砂』によれば米山城とは「小宮山城」であり、長島堀之内に城館を構え詰の城としていたという。一に海野氏と同族という。海野の近隣の同郡真田から起こったのが真田氏であり、海野氏やその同族の望月・祢津氏は滋野三家とされ、中世では滋野朝臣姓(紀国造の支族)と称したが、その実、古代大伴氏の流れをくむ可能性があるとみる説もある(一志茂樹氏や『式内社調査報告』大伴神社の項など)。
 この一族は信濃国最大の官牧で名馬産出で名高い望月牧の牧監として勢力を貯えた。「望月」の名の由来は、平安前期(貞観七年、八六五年)に、朝廷が八月二九日に行っていた信濃国の貢馬の「駒牽」の儀式を、満月の日(=八月十五日。望月)に改めたことに因るとされる。蓼科神社のある佐久郡芦田にも、滋野一族という芦田氏があった。これらを含め千曲川流域の各地には、上記のほか根井・浦野・臼田・田中・小室(小諸)・小田切・香坂・塩川・布施など、居地名を名乗る滋野一族が繁衍した。
 信濃国小県郡の大伴氏の祖先系譜や中世の後裔については不明だが、出自は、倭建東征に随行した大伴一族がそのときに現地に残した後裔という可能性がある(その場合の姓氏としては丸子部か大伴部か)。近くには丸子(旧小県郡丸子町。現上田市域)・鳥屋などの地名があって、これらが望月につながる配置となることも傍証する。丸子の地名は、小県郡の依田川流域にあって、丸子部の居住を示唆し、望月同族の依田氏から丸子・円子氏が出た事情もある(後述)。丸子の長瀬邑には、やはり望月同族の長瀬氏がおり、『平家物語』には木曽殿義仲の家の子として長瀬判官代重綱が見えるが、この者は望月国親・根井行親兄弟の従兄弟であった。このように、丸子と滋野姓三家との密接な結びつきが知られる。
 古代では、甲斐から信濃に入った倭建東征隊は、その別働隊が吉備武彦に率いられて信濃から飛騨、越の道にまわるが、越中には射水郡に伴部郷、越前には坂井郡に椀子岡(まるこおか)(丸岡町にある)の地名を遺した。海野宿の東端には白鳥神社があって、海野氏の氏神として祖神も倭建命に配祠されるが、倭建東征の帰途に滞在したことが同社の創祀と伝える。
 信濃には、安曇郡、現在の松本市梓川上野に鞠子神社があり、境内にカエデ科の植物「メグスリノキ」(民間薬として樹皮を煎じて洗眼薬としたことが名の由来)一本があるが、海野一党は不思議に盲人・医術などと関係が深いという指摘もある。望月氏は祖神として北御牧村(現・東御市下之城)の両羽(もろは)神社(古代御牧の惣社)を祀り、祢津氏も祖神の四宮権現(山陵宮獄神社)を祀ったが、この二神はともに京都にもあって盲人の祖神とされるなどの事情がいわれるから、鞠子神社は小県・佐久郡の滋野一族との関係も窺われる。
 これら佐久・小県両郡の地から山を越えた西方に位置する安曇・筑摩両郡あたりでは、中世大族の仁科氏一族も大伴姓を称した。戸隠権現と関係が深い飯縄(いいづな)(飯綱)明神の修験の長・千日大夫は仁科氏がつとめ、飯砂明神の旧社務に仁科甚十郎が見える。飯縄は白狐憑きで、山祇族の犬狼信仰に通じ、戸隠の九頭竜権現の慈風に当たるというから、祭祀は大伴氏につながる。(この辺の仁科一族関係の詳細は省略するが、上記『大伴氏』参照)。海野一族からは、筑摩郡に会田・塔ノ原・苅谷原、安曇郡に光などの諸氏も分岐している。
 そうすると、信濃北部では佐久郡から千曲川に沿って小県郡、さらに水内郡の戸隠神社・飯縄明神、安曇郡へと古代大伴一族の末裔が分布したことになる。この信濃の仁科氏とは別系統で、古代から美作に大伴姓の仁科氏があったとも伝え、岡山県浅口郡出身の昭和期の原子物理学者仁科芳雄はその末流だという。
 これら諸事情も含め総合的に考えると、中世に滋野朝臣を称した海野・望月一族諸氏の先祖系譜については、大伴一族出自説のほうにかなり傾いている。ただ、この信濃の流れの大伴連本宗からの分岐は早く、四世紀代ではなかったか、とみられるから、その場合の当時の姓氏は丸子部か靱大伴部かであって、大伴連は姓氏仮冒か後の改賜姓だったか。大伴連も紀国造も上古は同族で、月神奉斎の山祇族系統だったから、佐久郡の大伴神社では月読命や紀国造や滋野宿祢の祖の天道根命が祀られることは自然である。滋野三家などでは月輪七九曜紋など月や星を用いた家紋を用いた事情も、月神奉斎に基づくものであった。
 大伴氏は、日本列島古来の山祇種族の出で、広く久米氏族の流れになるから、信濃の大伴氏の出自ではないかとみられる一族が繁衍した地域のなかにあった小見山の地にも、その同族が居た可能性が大きい。もっと言うと、小見山は籠山、米山とも書くから、コメヤマ・クミヤマ・クムヤマ・クマヤマ、すなわち久米山・来目山の転訛ではないかとみられるということである。信濃起源の小見山氏が、称滋野姓でその実、大伴氏族の後裔なのか、倭建命東征のときにこれらと同行した久米氏族の祖・七拳脛一族の後裔なのか不明であり、藤原姓と言って滋野姓を称しない(海野一族の系図には見えない)事情からみて、おそらく後者のほうではないかとみられる。ともあれ、大伴氏族と久米氏族とは同族だから、あまり差がなかろう。東国では、武蔵国の入間・多摩・比企の諸郡や常陸国久慈郡に久米の地名が見られる事情もある。信濃でも、ほかに伊那郡に久米(飯田市久米)の地名がある。
 なお、甲斐の巨摩郡にあった小宮山氏については、信州から来たものではないかとみられるが、武田氏の一族とも、一族の逸見氏の後、藤原姓蒲生一族の出などという多様な所伝もあり、ここでは検討を控えておく。武蔵や因幡の小宮山氏についても不明な点が多い。

 
 吉備地方の久米氏族

 先に、景行天皇朝の倭建東征隊に吉備武彦が参加したことを見たが、吉備氏一族は吉備武彦がその副将格であった。吉備氏は古代吉備地方随一の大族で、早く崇神天皇朝にその祖が吉備平定にあたったが、そこにも久米氏族が関わり、久米の地名も吉備にいくつか残る。このため、吉備地方には久米氏族から出た国造が二つ、備前の大伯国造(邑久郡。応神朝に設置)、備中の吉備中県国造がおかれたと「国造本紀」に見えるとともに、とくに美作では久米氏族が繁衍しており、久米郡久米郷の地名もある。
 吉備中県国造については、崇神朝に神祝命(=神魂命)の十世孫の明石彦が定められたとある。この者は、年代的に見て吉備平定の際に吉備津彦に同行したものか。その領域が、昔から定めがたく、備中国後月郡説(岡山県井原市域あたり)が有力なものとしてある。後月郡の郡衙(律令制)が置かれた地についても、諸説あって特定できないが、これが出部郷であれば、小見山氏の居城があった地域(井原市高屋)が駅家郷で、その近隣に位置する。出部郷は同じ郷名が隣郡の小田郡にも(後月郡と連続した地域か)、伊予国浮穴郡にもあったが(『和名抄』)、浮穴郡は久米同族の久味国造の領域であった。
 小見山城は、十四世紀初め頃に小見山行忠によって築城されたと伝え、堀切や石垣の遺構が残るが、小見山氏がこの地にいつまで存続したかは不明である。『太平記』では番場宿事件以降は氏人は見えず、毛利氏萩藩の家中にも見えないから、後裔の行く末は明らかではない。ともあれ、古代の吉備中県国造の後裔が中世の小見山氏につながることにもなる。
 後月郡の式内社は、足次山神社という小社一座だけで、しかも論社が三社もある。久米氏族は山祇族の出だから、そうした祭神のほうから見ていくと、井原市芳井町天神山にある大山神社(その摂社の足次神社)が大山祇神を祭神とするので妥当そうだが、祭神の変更もあるので、確定しがたい。その鎮座地は、小見山城の北西方近隣の天神山にある。なお、倉敷市にある式内社(窪屋郡)の足高神社でも、同じく大山祇神を祭神とする。
 中県国造の一族として三使部直氏も見え、これが安芸国にあった。太田亮博士は、「吉備中県国の所在は不詳も、その名称より備中国内と思はる。されど、その後裔が安芸国高宮郡領たるより見れば、安芸国内にその所在を求むべきか。」とする。中県国造の後裔が安芸国高宮郡(広島市域)の郡領であったことは、『三代実録』貞観四年七月条に見え、「安芸国高宮郡大領外正八位下三使部直弟継、少領外正八位上三使部直勝雄等十八人、本姓仲県国造に復す」と記載がある。しかし、吉備ないし安芸の三使部直も仲県国造も、その後は史料に現れず、この限りでは不明と言うほかない。
 小見山という苗字が現在でも広島県に多いところをみると、吉備中県国造の領域も備中国後月郡よりも広域であって西方の備後まで伸びていたことが示唆され、こうした苗字分布も小見山の中県国造後裔を示唆しよう。小見山城の南方平野部を流れる高屋川が西南に流れて、備後国深津郡、現在の福山市神辺町で竹田川と合流し、芦田川に流れ込む事情もある。
 東国信濃の小見山が大伴・久米氏族の居住地にかかるものであったのなら、備中の小見山も、同様に同じ氏族の居住に由来するのではなかろうか。先に、近隣の陶山氏が吉備臣一族と称した笠国造・笠臣の後裔とみたが、備中の小見山氏も久米氏族で吉備中県国造の後裔にあたるのではなかろうか、ということである。
 吉備中県国造についても、備中の小見山氏についても、これまでの懸案であっただけに、本件の見直しのきっかけを与えてくれた野田様の問題提起に感謝する次第である。
 
 (2015.4.15 掲上)



 <野田様からの来信> 2015.4.16受け

  古代の史料は存在しません。信濃小宮山はあちらの本では藤原氏で、荘園の荘司として下向したとある。また、「諏訪御符礼の古書」に、伴野小宮山某、その逆の小宮山伴野某の名が見える。同族とある。野沢では野沢を名乗っている。備中は次郎であるからして、あちらは一郎かと思いきや、次郎でした。北條氏の台頭に反北條氏の旗を挙げ、捕獲されている。
  何故備中に下ったか?史料はないが、山陽道警備を兼、地頭として下向したようです。陶山、小見山とも京都番役として上京。それが六波羅探題仲時との蓮華寺での殉死になっています。なお、小見山が開発したと思われる場所が米山になっています。
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