武蔵の比企氏の系譜

 (問題提起)

1 初めに
 今年の大河ドラマ『篤姫』は江戸幕府第13代将軍徳川家定室・天璋院の生涯を扱った物である。その天璋院の実家である島津氏は祖・忠久を源頼朝が丹後局に生ませた子と言われているが、全くの仮冒である。
 本稿の主題は島津忠久の出自についてではなく、その母方の比企一族の出自に関する考察である。比企一族は源氏の頼家将軍の外戚を務めた事で権威を誇ったが、同じく外戚であった北条氏との抗争に敗れ、早期に滅ぼされてしまった。これ等の事情が有ってか、比企氏の系譜には不明な部分が多い。しかし、だからこそ、興味の対象となりうるのである。
 ここでは、比企氏の出自に関して述べていこうと思う。
 
2 比企一族の概観
 比企氏の姓は、武蔵国比企郡に由来する。その比企郡に勢力を拡大して、館を構えたのが、武蔵秩父党の次郎大夫重隆と、その娘婿である帯刀先生源義賢である。当時の比企氏の当主であった掃部允助宗原文のママ)は、その勢いに対抗する為に、義賢の兄で、敵対関係にあった源義朝と結び付く様になったと考えられる。これが、比企氏と清和源氏の結び付きの始まりであろう。
 源義朝に頼朝が生まれると、助宗の妻・比企尼は、その乳母役に抜擢される。平治元年(1159)に於ける平治の乱で義朝が敗死し、頼朝が伊豆国に配流されると、比企尼は頼朝に物質的な援助を滞ることなく送ったのである。
 比企尼には3人の娘が居た。長女の丹後局は惟宗氏に嫁いで島津忠久を生んだ後、安達盛長に嫁いで、その間に生まれた娘は頼朝弟・範頼に嫁いでいる(吉見氏の祖・範円の母ともいう)。次女は重隆の子・河越重頼に嫁ぎ、その間に生まれた娘は同じく頼朝弟・義経に嫁いでいる。三女は、伊東祐清に嫁いだ後に、平賀義信に嫁いで朝雅を生んでいる。しかし、跡継ぎとなる男子に恵まれなかった為に、甥の能員を養子として迎えている。
 比企能員は、平家討伐、奥州合戦等で功を立て、鎌倉御家人としての地位を確立していく。特に、源頼朝に嫡子・頼家が生まれると、義姉や能員の妻は頼家の乳母となり、頼家が成長すると、能員の娘・若狭局はその室となってその後嗣たるべき一幡丸を設け、能員の地位は磐石なものとなった。
 しかし、比企一族の台頭は、同じく源氏将軍の外戚であった北条一族との摩擦を生み起こすこととなった。そして、建仁3年(1203)、比企一族は北条一族に拠って族滅させられるのである。
 
3 比企氏の出自
 問題なのは、この比企氏が如何なる出自を持っていたのかということである。
 比企氏の出自に関しては、秀郷流藤原氏とも、小碓命(倭建命)の末裔とも言われてはっきりしないのである。
 前者に関しては、秀郷流諸氏の元来は毛野氏であり、同氏族と比企郡の位置づけを重ね合わせれば、考えられなくはない。後者に関しても興味深い点ではある。ここでは、更に深く探ってみよう。
 
 (1) 天目一箇命と、その末裔たる武蔵国造一族
 今井信雄著『鎌倉武士物語』の比企一族の項に於ける、その出自に関しては興味深いことが書かれている。比企氏が勃興した比企郡は鉄が多く産出する場所であり、比企氏は製鉄業を扱う氏族ではなかったかというのである。
 製鉄業と言えば思い浮かぶのが、貴ホームページで度々取り上げられている。鍛冶神たる天目一箇命の一族である。天目一箇命は日本全国各地に国造を残したことで知られる、この内、武蔵国では武蔵国造を輩出した。武蔵国造からは承平の乱で武蔵武芝が出て活躍し、その末裔には武蔵七党の一つである野与党、安達・足立氏等があり、知々夫国造一族(秩父・千葉一族)と頻繁に婚姻関係を結び、中世期には一体化した。
 ここで忘れてはならないのは、上記の比企尼の長女・丹後局が安達盛長に嫁いでいるということである(因みに、盛長の息子・景盛も異父兄の島津忠久同様に頼朝の落胤伝説が有る)。そして、安達・足立一族も又、その出自を、比企氏同様に魚名流藤原氏と仮冒しているのである(秀郷流の諸氏自体が、魚名流を仮冒している)。
 これ等のことを総合すると、比企氏は、武蔵国造の末裔で、安達・足立一族と同族とみるのが妥当だと思われる。
 
 (2) 比企能員の出自
 比企氏の系譜で、もう一つ問題となるのが、比企能員の出自である。能員は、『愚管抄』に「阿波国」の出自とされている。しかし、西国の人間が東国の豪族の名跡を継ぐとは到底考えられず、ここで言う「アワ」とは、西国の「安房」ではなく、房総半島の「安房」を指す方が妥当であろう。
 元々、安房国は、比企氏の主筋に当たる源義朝の父・為義が、同国の丸御厨を有していた所であり、義朝自身も一時過ごしていた可能性が高いのである。又、頼朝が石橋山の敗戦の後に逃れた場所としても知られる。
 この安房国勢力を持っていたのが、安西氏である。安西氏は、元来は現地の古族の出であるが、後に千葉・三浦一族から養子を迎え、これ等の氏族とも関係が深かった。つまり、千葉-三浦-安西と言う枢軸ラインが形成されていたのである。そして、源義朝は千葉・三浦一族と密接な関係を持ち、他方、比企氏の母胎である武蔵国造一族も千葉氏と姻戚関係を結んでいた。
 そうすると、能員は安西氏に繋がる一族なのかもしれない。
 
4 終わりに
 比企氏は源氏将軍と共に起こり、共に滅びた。これが比企氏の系譜を難解な物にしている理由だと考えられる。因みに、島津氏がその出自を清和源氏に求めているのも、ここら辺に関係があるのかもしれない。
 (大阪在住の方より 08.5.11受け)

* (以上の文章は、史料などに基づき、ごく若干ながら補訂しました)
 

 (樹童からのお答え)

1 比企氏に関する系譜史料や検討

 鎌倉初期の源氏将軍家をめぐる動向のなかで、比企一族とその関係者が果たした役割は大きなものであったことは、ご指摘のとおりでありますが、肝腎の比企一族の系譜はよく知られておりません。太田亮博士も『姓氏家系大辞典』で、いくつかの系譜諸伝を紹介しながら、端的な自説披露はしておりません。そこでは、@藤原秀郷流で能貴の後、A小碓命後裔の健部人上の後(『鹿児島外史』)を紹介しつつ、B「或は日置氏か」と記します。
 このほか、C『埼玉叢書』第四所収の「比企氏系図」(比企郡中山村の医師比企道作蔵。『新編武蔵風土記稿』にも見える)では、秀郷流でも相模の波多野一族から出たという系図を記します。佐伯筑後守遠義の弟に三郎遠光をおいて、この者が藤原師実君に奉仕した後に比企郡に住んで比企氏の祖となったというもので、その孫に掃部允遠宗をあげ、その子に比企藤内朝宗、能員、丹後局などをあげる形となっていますが、遠宗より前はまったく信頼できません。比企氏嫡流でも、こうした形でしか系図を伝えなかったことが分かります。
 鈴木真年・中田憲信関係では、『諸系譜』第十五冊などに「阿保朝臣系図」を記載し、『百家系図稿』巻13には秀郷流に比企能員の系図を記載します。これらのうち、「阿保朝臣系図」は上記『鹿児島外史』(伊加倉俊貞著、明治18年刊)所載系図を詳細にしたもので、年代や記事などからみて、比企氏の系図としては最も妥当だとみられます(詳細は次項で記述。ただし、伝来者がどこの誰かは不明)。
 また、比企氏に関する検討では、東松山市加美町の金沢正明氏による「比企氏のルーツ」という論考があり(『家系研究』第15号、1986年6月刊)、比企氏で幕臣になった家の後裔から出て中山村居住した者の子孫の現在までに及ぶ記述がありますが、その先祖については殆ど検討がありません。東大史料編纂所には、この家の比企隆之氏(比企道作貞久の玄孫。1931年当時、北海道札幌郡小越村住)に伝わる「比企文書」の影写本があり、27丁(文書・系図11点)の内容となっています。(※以下は、である体で記述)。

 
2 初期比企氏の系図

 「阿保朝臣系図」に拠って、比企氏の系図の概略を説明すると、次のとおり(詳細は転載する『古代氏族系譜集成』上巻を参照のこと)。
 
 武蔵の比企氏の起源は、延暦期に阿保朝臣人上が武蔵に国司として赴任したことに起る。人上はもと阿保君といい、次に建部朝臣姓を賜り、延暦三年には阿保朝臣姓を賜り、同九年七月には大学頭に任じている。現在に残る六国史ではここまで見えるが、『続日本紀』延暦三年十一月条には、武蔵介従五位上の建部朝臣人上が見え、東大寺文書の延暦十二年五月にも従五位上行介阿保朝臣人上が見えるから、武蔵介になったことは信頼してよい。その子の大国が武蔵に土着して比企郡司大領になったといい、その子の芳公、以下は宗人、只上、中宗と続いて歴代が比企郡ないし賀美郡の郡司をつとめ、中宗は武蔵介源経基に従って武蔵武芝を伐ったときに軍功があったという。中宗以降も比企郡領を世襲しつつ源家に仕え、その八世孫に掃部允宗員がおり、その子が掃部允遠宗であって、この妻が比企尼で、これが藤四郎能員の養母とされる。
 比企一族としては、比企郡高坂郷(現東松山市高坂)に起る高坂氏、同郡松永村(現川島町松永)に起る松永氏、同郡杉山村(現嵐山町杉山)に起る杉山氏が系図に見えるが、地域的に妥当としてよかろう。これら比企郡の「比企」は太田亮博士もいうように「日置」の意であり、鍛冶部族に関連する地名であるが、平安初期に入ってきた者の後裔であれば、比企氏をとくに鍛冶部族と関連づけることもない。
 なお、阿保朝臣人上の先祖は、『新撰姓氏録』右京皇別に見える阿保朝臣氏であり、『続日本紀』延暦三年十一月条の建部朝臣人上の言上にも記載される。垂仁天皇の皇子という息速別命が伊賀国阿保村に住んで、その子孫が允恭朝に阿保君姓、次いで雄略朝に阿保君意保賀斯が健部君を名乗ったものである。この健部君に因んで、小碓命すなわち倭建命の後とも称したものであろう。阿保朝臣人上の後は中央ではあまり現れず、後に近江の小槻山君から出た今雄(後の官務小槻宿祢の祖)などが阿保朝臣姓を賜っている。この系統は、垂仁天皇の皇子という落別命の後裔という系譜を有したが、落別命は息速別命と同人である。
 
3 比企能員の父祖・近親と実系

 能員の実父も養父掃部允も、実名は確実には不明であるが、掃部允「遠宗」の名は『埼玉叢書』所収の「比企氏系図」にも同様であるから、これを一応、採っておく(ほかに、遠長とも能丈とも見える)。掃部允遠宗の長子に比企藤内朝宗があげられ、その娘は北条義時の室となるが、『平家物語』『源平盛衰記』には「比企藤内朝宗、同藤四郎能員」の順であげるから、この辺も信頼してよさそうである。
 比企氏の系図で、とくに能員の父祖が不安定な所伝であるのは、その祖父とされる宗員から他家との猶養子関係が入ってきているからと思われる。宗員自体が秀郷流の佐藤大夫清郷の猶子とも実子ともいい、その子におかれる遠宗が実は左馬允藤原有清(清郷の子)の子ともいわれる。遠宗が妻とした比企尼は、藤原公員の妹であって、公員の子の能員を養子に迎えたと伝えるが、公員はやはり秀郷流藤原季清(西行法師の祖父)の曾孫ともいわれる。
 公員は佐藤孫八郎と号したというが、どこに居住したのかは不明である。藤原季清の後裔の佐藤一族は紀伊国田中荘に領地をもち、京で衛府に仕えたものが多いから、公員もこうした基盤をもった可能性も考えられる。比企尼の長女丹後局が京官人の惟宗広言の妻となって、島津忠久の母となったのも、比企尼が京に縁ある出自であったことを示唆するものか。比企尼は京で、頼朝の乳母を務めたとされるから、これも京近辺の出身であったことを示唆するか。

 能員の家族は、北条氏により族滅されたが、その子・弥四郎時員の子の員茂(員成ともいう)がわずかに生き延びて、子孫を後に伝えるといい、これが関東管領上杉家家臣、幕臣の比企氏、さらには現代までつながることになる。この員茂の母は、足立民部丞遠兼の娘といわれるが(年代的に考えると孫娘くらいか)、比企尼の女婿の安達藤九郎盛長といい、比企一族が武蔵古族の流れを汲む安達・足立一族とかなりの通婚を行ったことに留意される。
 
 以上は、管見に入ったところでの検討であり、種々不明な点は多いのですが、その辺は今後の史料発見と検討にまちたいと思います。
 
 (08.5.12 掲上)
  
      (応答板トップへ戻る)      
  ホームへ     古代史トップへ    系譜部トップへ   ようこそへ