□ 信濃の保科氏の系譜 (問い) 星名といいますが、ルーツは諏訪神族と言われています。 たしかに諏訪神社はあちこちに有りますが、何故このように広域に広がったのでしょうか、実家は江戸時代、越後の十日町市川西町上野に有りました。近くに千手観音がありますが、諏訪神社との関係は有るのでしょうか?宜しくお願いします。
(星名様より 08.2.21受け) |
(樹童からのお答え) 1 保科氏の系譜
星名は保科と書くことが多いのですが、千曲川支流の保科川流域、『和名抄』の信濃国高井郡穂科郷(現在の長野市東北部の大字若穂保科)、後の保科御厨を苗字の地とする信濃の古族末流です。その活動は平安末期頃から見え、『源平盛衰記』に星名党と見えて井上九郎のもとにあり、『東鑑』に保科太郎、保科次郎、『承久記』に星名次郎と出てきます。
その系譜は諸伝ありますが、保科の北の妙徳山の山地を越えた同郡井上(須坂市域)を中心に繁衍した称清和源氏の井上・米持一族に従い、その一族の出ということが多く(この場合でも諸説多い)、『藩翰譜』には、幕藩大名の保科氏に関して、会津藩祖保科正之の養父の「保科肥後守源正光は、信濃国の源氏、井上掃部助頼季が末葉、弾正忠正直が男」と見えます。しかし、正光の曾祖父甚四郎正利から代々甚四郎を名乗るように、甚すなわち「神」で諏訪神族(神人部宿祢姓)の出とするのが妥当であり、保科川流域の保科近隣には小出の地名も見えます。
前田家本「諏訪氏系図」には、諏訪大祝神太為仲、その子・神五郎為盛の子の神大夫盛行の子に保科四郎大夫行遠、その子の保科悪三郎行直と見え、行直の孫には笠原弥次郎範行が見えます。笠原も高井郡起源で、保科あたりから千曲川を下流へ二十数キロ下った中野市笠原に起った苗字で、『源平盛衰記』及び『東鑑』に笠原氏の活動が見えます。神大夫盛行の長男神太郎行長は深沢等の祖、次男検校二郎家遠は若尾の祖と、上記「諏訪氏系図」に見えますが、保科の南近隣の若穂は若尾に通じ、笠原の北方近隣に深沢(飯山市南部で、千曲川左岸)の地名もありますから、同系図は基本的に信頼できるとみられます。
『信濃史源考』などによれば、保科氏について、諏訪氏と関係深い金刺姓手塚氏とも他田舎人の一族とする説もありますが、これらの一族とする具体的な系図は管見に入っていない事情にあります。保科氏の祖先は長田御厨の庄官をつとめたとの所伝があるといわれますが、この辺の事情もよく分からないので、ここでは上記諏訪一族説をとっておきます。
2 中世及び近世幕藩大名の保科氏
中世の保科氏の動向は散発的にしか知られませんが、これも、鎌倉前期の幕府内の争乱に関係します。すなわち、元暦元年(1184)に源頼朝が甲斐源氏の一条次郎忠頼(武田信義の子)を誅殺し、これに同心したとして駿河で誅殺された井上太郎光盛の従士保科太郎は降人から許されて鎌倉御家人に取り立てられ、建暦三年(1213)二月の泉小次郎親平叛逆の党与のなかに信濃国保科次郎・粟沢太郎(諏訪郡粟沢に起った諏訪一族)が見えます。『東鑑』に見える「保科」はこの二例だけです。次いで、承久の乱に保科次郎父子が出陣したことが知られます。
その後の鎌倉時代から南北朝期における保科氏の動向で知られるのは、水内郡風間村(長野市風間で、保科から見ると千曲川を挟んで西北に六キロほどの地)に拠った保科一族で、南北朝時代には風間氏に従い、室町後期に風間郷にあった保科氏の名前が史料に見え、応仁二年(1468)に保科氏惣領を称する保科秀貞が諏訪神社の神使頭役を勤めています。これら保科氏の人々は、系図上の位置付けが明確ではありません。なお、風間の地にも諏訪一族がおり、鎌倉前期に出た忠直(粟沢七郎敦方の兄・矢崎神六家直の子)が風間神荘司を称し、その弟の直家が若尾神四郎が上記「諏訪氏系図」に見えますから、南北朝期の風間氏はこの後裔とみられます。風間神社は式内社で、伊勢津彦命を祀るというから、諏訪神に関係ある神社としてよいものです。
幕藩大名保科氏につながるのは伊那郡高遠にあった保科弾正忠正則で、その子の正俊が高遠頼継の重臣、次いで武田信玄・勝頼に属するなど、戦国期には紆余転変がありますが、その子越前守正直が妻に家康公妹の多却姫を迎えて立身し、その子が肥後守正光になります。このように、正則以降は所伝が一定していますが、その父祖についてはマチマチであって、どれが正しいかは極めて難解です。 正則の父として管見に入ったところでは、@正秀(保科筑前守貞親の子)、A神助易正(荒川四郎易氏の子で、保科五郎左衛門尉正信の養子)、B正利(正尚ともいう)、などありますが、保科正利が、長享年間(1487〜89)に村上顕国の侵攻により高井郡から分領の伊那郡高遠に走るという所伝が一応、妥当なようです。保科正利にも、保科太郎光利の子の丹後守正知の子とする説(『高井郡誌』)、源光利の子とする説(『蕗原拾葉』)があります。
3 越後の保科氏と諏訪神社の分布
越後の保科氏については、殆ど資料がない状況ですが、諏訪神社との関係で分かる範囲で記しておきます。
まず、系統は不明ですが、上杉景勝の家臣に保科主馬助が見えるとされます(『姓氏家系大辞典』)。また、信濃から見て千曲川(信濃川)下流方向にある旧中魚沼郡川西町(現十日町市)には星名新田の名が見えます。これが上野の西隣にありますから、貴殿の実家が「江戸時代、越後の十日町市川西町上野に有り」という所伝は正しいと思われます。旧川西町の上野甲(元町)や仁田、小白倉にも諏訪神社があります。
十日町市には、魚沼郡の諏訪神社のなかで最も有力な同名社(郷社)があり、現在、十日町市宮下町東に所在します。同市では、その北西近隣の住吉町にも諏訪神社があります。前者は妻有(つまり)郷の総社として崇敬篤いといい、境内社に黒媛神社があって、絹織物業守護神として信仰されたといいますから、由来が古かったことが分かります。その社伝によると、もと諏訪島に鎮座したが平安期の十一世紀末から十二世紀初のころ、洪水のため現在地に遷座したとのことですから、千曲川沿いに信濃から遷ってきたとみられます。
それになんらかの形で関与したのが、上流部に位置する高井郡の保科一族であった可能性も考えられます。十日町・川西町一帯は、中世、上野国の清和源氏新田・大井田一族が繁衍した地ですので、当地の諏訪神党一族の活動は不明ですが、関連して次のような風間一族の事情もあります。
頸城郡の諏訪神社の有力社(郷社)が東頸城郡安塚村(現上越市東部の安塚区安塚で、十日町市の西方約三十キロ)にあり、そこに風間信濃守信昭入道妙玄も合祀されている事情があります。安塚の直峰(のうみね)城は風間氏の居城といわれ、『太平記』巻二〇・二一には風間信濃守信昭が信濃の禰津越中守や越後の小国・池氏とともに蒲原・古志郡に拠るなど越後及び越前で、南朝新田方として活動したことが見えます。禰津氏も出自は滋野氏を称したものの、養子縁組などで諏訪神党の一員として活動しました。こうした事情などから、太田亮博士は、越後の風間は「もと、信濃から移りしか」と記されます(『姓氏家系大辞典』。ただし、風間には相模起源説もある)。風間信昭の墓は長岡市(旧和島村)村田の治暦寺にあり、近くに信昭の弟・村岡三郎の拠った城跡(村岡城)もあるといわれます。
風間氏については、「直峰城を守る風間長頼は文和四(1355)年三月、上杉憲顕の子、憲将と宇佐美一族が立て籠もる顕法寺城を攻撃して上杉一族を撃退しているが、その後風間氏は滅亡したらしく、貞治元(正平十二・1362)年十一月二日の将軍足利義詮判物では、風間入道一跡を大友氏時に与えている」という直峰城の情報がインターネット上に見えます。前者は村山文書、後者は大友文書に拠るものですが、その後も信濃にはまだ風間氏が残り、応永七年(1400)の大塔合戦のときには風間宮内少輔が村上氏に従って活動します。南北朝期の越後には、西頚城郡の早川谷を根拠として村山一族の南朝方での活動も見られますが、高井郡村山村(須坂市村山)から起った称信濃源氏井上一族米持氏の流れ(米持忠義の子が村山義直という)といわれます。
以上の南北朝期の活動にも見るように、古代から千曲川などを通じて、越後と信濃は密接な交流が知られますが、新潟・長野両県には各々千社を超える諏訪神社があり(合計二千六百社ほどという)、全国的にもきわめて多いことがいわれます。越後の諏訪神社のうち郷社の格付けがあったのは、上記二社のほかは、旧蒲原郡で新発田市・燕市(旧吉田町吉田)の各一社があげられる程度です(『神道大辞典』)。吉田氏が風間氏の後の直峰城主であったといわれますので、これら越後の諏訪神社が相互に関連性がありそうです。越後の吉田氏は頸城郡吉田庄から起ったかと太田亮博士は記しますが、『源平盛衰記』に見える信濃住人吉田安藤馬允や諏訪郡吉田山城の吉田氏との関係は不明です。 (お問い合わせの十日町の千手観音についての関係は分かりません。また、上記の風間氏については、さらに資料が出てきたら再考を要します) (08.3.15 掲上)
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