□ 大江政国の素性 (問い) 大江政國について 教えて下さい。 常陸國茨城郡寺の近隣にある「府中六井」のひとつ「小目井」に・・歌人?大江政國 ”見ぬ人は 汲みて知るらむ 小目井の 清き流れの 千代の行末”と詠んでいます。
續千載和歌集に「大江政國女」及び「大江政國女姉」の記載がありますが、本人政國の名前は見当たりません。
(ふくだ様より 09.7.6受け) |
(樹童からのお答え) 1 大江政国は平安後期の中下級官人でしたが、管見に入るかぎりの史料では、『大日本史料』第三編十二集413頁や『国司補任』『外記補任』に採録されています。
具体的な記事は添付ファイルを見ていただくとして、その要点は、
@ 延久四年(1072)春に文章生から越後掾に任じ、
A 天永三年(1112)正月五日に正六位上行少外記に在任していて栄爵を望んだ、
という事情が知られます。
2 この当時の大江朝臣姓の人では、掃部頭大江佐国の諸子の世代が同じ頃に活動していますが、政国は大江氏の系図には見えません。大江佐国の子では、大学頭通国、大外記敦国、主計頭家国が知られます。
大学頭通国は、『中右記』天永三年(1112)五月廿二日条に歳六十で死去したことが記されており、故佐国長男で民部丞・伊豆守を歴任したことが知られます。『除目大成抄』には、承保四年(1077)に文章得業生から少内記正六位上に任じたことが見えます。『本朝世紀』康和五年(1103)正月に従四位上大蔵大輔と見えます。
次に、大外記敦国は、『本朝世紀』寛治元年(1087)十二月に少外記から大外記に任じたことが見えます。
主計頭家国は、『本朝世紀』康和元年(1099)十二月に主計権助従五位下から土佐介に復任していることが見えます。
これら兄弟に比べ、昇進時期が遅く、官位も低かった政国は、兄弟のなかでも比較的年少であったとみられます。
3 これら大江一族は、文章道に専門化した中級公家の家で、父親の掃部頭大江佐国は文章生を経ており、上記兄弟も内記・外記から大学寮などの勤務をしています。その傍ら、諸国の国司にも任じており、佐国は越中権介、通国は因幡大掾や上記のように伊豆守、家国も土佐介にあったことが知られます。これら経歴は、大江政国とも合致しますから、活動期間を考えても、佐国の子で通国らの兄弟であったことは、まず間違いないとみられます。そうすると、大江政国の経歴に常陸国司は見えませんが、掾・介くらいの地位で常陸にあったことも考えられます。
なお、この当時は兄弟通字の時代でもあり、これら兄弟以外に「国」を共有する世代は大江氏には見られませんし、「政」を共有する世代は大江氏にはありません。
4 なお、『続後拾遺和歌集』は、勅撰和歌集で「十三代集」の八番目であり、二条為藤・二条為定の撰であって、正中三年(1326)に撰進されています。大江政国の娘はこの時期より前の人であることが知られますから、大江政国の年代としては上記のものとしてよいと考えます。
(09.7.7 掲上)
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