肥前高木氏の系譜

(問い) 私の家は平野といい、元々は佐賀県の出身ですが、ご先祖のルーツを探しておりましたら、肥前・高木一族に辿り着きました。先般は、佐賀の高木一族を祀っている高木八幡神社に行きましたところ、そこの碑文には、高木家は「藤原隆家」の末裔と称していました。 
 貴HPでは、高木一族は「藤原」ではなく、「阿倍氏族」が出自とありますが、高木一族が「藤原」と名乗った理由は、何なのでしょうか。通婚によるものなのでしょうか?

  (平野様より 07.10.3受け)


 (樹童からのお答え)

  肥前の高木氏は、佐賀郡にあって、平安後期以降、肥前一宮の河上社の大宮司をつとめた大族ですが、その頃からの系図しか分かりません。この氏が藤原姓を称していたことは、例えば、建武元年八月五日付けの河上山文書に河上社大宮司藤原家直が見えます。その系譜・出自について確かなことはいえないのですが、同族と称する諸氏の分布、奉斎神などからみて、肥前ないし筑紫の国造一族など古族の流れをくむ可能性が大きいと考えられます。
 そうすると、藤原姓とはまったくの別姓であり、藤原姓は、肥後の菊池氏同様、本来は大宰府の上司であった権帥の藤原隆家(974生〜1044没)を先祖に仮冒する系譜に因るものとみられます。この辺の事情をもう少し詳しく見ていくと、次のようなことです。
 
 河上社はいま與止日女(よどひめ。以下は「与止日女」と書く)神社という社名となり、佐賀市大和町大字川上に鎮座している。『延喜式』では與止日女神社として肥前国佐嘉郡の式内社にあげられ、松浦郡の名神大社田嶋坐神社(現社名田島神社、唐津市呼子町加部島)とともに肥前一宮を争った。こうした古社だから、その奉斎氏族は古代からの当地の豪族とみられる可能性があり、その場合には、肥君や筑紫君の同族とみられる佐賀県主佐賀君の末流とするのが自然であるが、高木氏についてはそこほど古い豪族として当地にあったのかは不明である。このため、少し丁寧に高木氏の周辺を調査してみる必要がある。参考文献としては、森本正憲氏の論考「肥前高木氏について」(『九州史学』第49号、1967年)があげられる。
 
河上社大宮司とともに肥前国庁の執行職をつとめた高木氏は、肥前国府の南郊に位置する佐賀郡高木村(佐賀市高木瀬町高木・東高木一帯)を根拠地とし、一族もこの周辺に多く分布する。世に通行する系図では、肥後の菊池氏と同祖で藤原隆家の後裔に位置づけられており、一族には肥前の於保・竜造寺・河上・平野・八戸や筑後の草野・北野・上妻などの諸氏があげられる。ところが、菊池氏について、太田亮博士や志方正和氏などの研究により、藤原隆家後裔説が明確に否定され、それとともに、同族とされる高木一族の系図についても疑問がもたれるようになった。
肥前の高木氏について、史料のうえで確実な初見は、寿永二年(1183)十一月に高木氏(藤原朝臣宗家)が大般若免三町を河上社に寄進したことがあげられる。宗家は源平合戦に際しで源氏方に立ち、文治二年(1186)八月、源頼朝から改めて本領である佐嘉郡深溝北郷内甘南備峯の地頭職に補任され(「高城寺文書」)、幕府の御家人となった。建久六年(1195)八月二五日付けの「大友文書」には、肥前国押領使大監藤原宗家(朱書で当国押領使高木大郎大夫)とも見えるが、これは偽文書の疑いがあるといわれる。こうした諸事情によって、高木氏の実質的な先祖は宗家とみることができ、宗家の頃までの高木氏の草創段階が不明であって、系譜の裏付けもないわけである。
現在、高木氏の初期段階の系図として通行するものは、中納言兼大宰権帥の藤原隆家の子として文家をおき、その後は直系で文時、文貞、季貞、貞永と続き、貞永の孫が源平争乱期の高木宗家とされる。また、一説に隆家の子の中納言経輔の子が文時とするものもあるが、文時の後は、季貞の有無が異なるという若干の相違があるものの、系譜所伝がほぼ一致してくる。しかし、藤原隆家や経輔の子弟には、文時とか文家とかいう者は、『尊卑分脈』などの信頼できる史料・系図には見えず、存在が確認できない。高木氏が藤原隆家に系図をつなげるのが系譜仮冒だとした場合、この辺に系図のつなぎ目があるようである。        
 
これについて手がかりを与えてくれるのが「高向系図」(鈴木真年編『百家系図』巻53所収)である。この系図は蘇我臣一族の高向朝臣氏の系図であるが、宗像神社殿上職となった高向朝臣良範(天慶七年〔944〕卒、75歳)の曾孫に大宰少監文時(良範−良時−道時−文時)をあげ、「刀伊乱戦功、大宰帥藤原隆家卿{仗、改藤原氏」と譜註を付ける。この譜註記事が正しければ、この十世紀半ば辺りから高木氏の系図が明らかになるといえよう。
  ところが、高木一族について検討を加えるうち、宗像社祠官高向氏から入嗣があったにせよ、高向氏との間に養猶子関係があったにせよ、もともとは北九州の古族の後裔ではないかという心象のほうが強くなってきた。その理由としては、高木氏及び室町期には一族の鍵尼氏が河上社大宮司に補任されたことに加えて、一族の草野氏も松浦郡の鏡社大宮司を世襲したこと、竜造寺氏が火君忠世宿祢の後裔だと伝えること(「異本阿蘇氏系図」)、などの諸事情があるからである。
それでは、こうした古族出自についてどう考えたらよいのだろうか。
 
 そもそも、高木氏が何時から佐賀郡高木村に居住したのかという問題がある。
  国立公文書館に所蔵の『佐賀諸家系図』下巻の「藤家高木系図」には、高木宗家の祖父の貞永について、「大城三郎大夫」という称号が記載される。貞永の子には高木宗貞、草野永経、北野貞家の三人がいたとされるから、この記載が正しければ、高木氏の起源は意外に新しく、平安後期ないし末期になって初めて、肥前の高木村に遷ってきて住みつき、そこで地名に因り高木氏を名乗ったことになる。
このことを傍証するように、高木一族とされる諸氏は、殆どみな宗貞の後裔に位置づけられる。竜造寺氏については、宗貞の叔父からの分れだが、出自を秀郷流とも称するから別の系譜所伝をもっていた。東高木の八本杉にある高木八幡宮は、久安年中(1145〜51)に貞永がはじめて祀るところと伝える。その社記によると、高木越前守貞永が佐賀郡高木庄に下向してきて、夢の中の八幡大神のお告げにより、朝日の昇る像を旗の紋とすべしとされ、同宮を創祀したといわれる。ここでも、高木氏の高木遷住は貞永のときとされるから、貞永ないしは宗貞のときの遷住は、ほぼ信頼してよいのだろう。
貞永についての「大城(おおき)」という呼称は、『和名抄』の筑後国御井郡大城郷の地名に因むものであり、当地は筑後川中流域(北岸と南岸にある)の現久留米市北野町大城あたりとなる。高木氏の有力氏族に於保氏があり、系譜は宗家の甥の於保次郎宗益から始まるとされるが、於保の地名も筑後にあって御原郡於保村(現小郡市北部の大保)ではないかとみられる。大保の東隣の井上に因むとみられる井上氏も、草野支流に見える。なお、於保次郎宗益の弟・尻河六郎宗康の子に平野次郎宗季が見える。
 
さて、草野も北野も筑後国御井郡の地名であり、とくに草野氏は筑後の在庁官人で在国司・押領使職を世襲した有力な武家であって、系図に宗家の従兄弟と見える草野次郎大夫永平は、『東鑑』文治二年閏七月条にも見える。草野氏はその先祖を天智天皇御宇の草野常門と伝えるから(「草野系図」)、古代から草野を氏としていたことが知られる。他の地の例から見ると、草野は草壁すなわち日下部に通じることが多く、例えば豊前国仲津郡の蒭野(くさの)郷が平安期には草野荘(福岡県行橋市の草野一帯)となり、この地に日下部氏の有力者が居住していた。このことは『本朝世紀』長保元年(999)三月七日条に見えており、記事には蒭野荘の前検校と見える部信理(法名寂性)は「日下部信理」の誤記と分かる。筑紫では、筑前国には嘉麻郡に草壁郷、筑後国にも山門郡に草壁郷があって、ともに日下部の居住地であったとみられる。
このように、筑後にも筑紫国造一族の日下部君が居たから、草野氏の本姓は日下部(姓は君か宿祢)だったと推せられる。日下部氏は筑紫の有力氏族であったから、大宰府の官人にも見える。寛弘八年(1011)十二月の根岸文書に「権少監日下部」、長和三年(1014)の尊勝院文書に「権掾日下部」、永承七年(1052)の大宰府官連署に「大監日下部」と見えるほか、大宰府の観音寺の牒には、寛弘三年(1006)に「検校少弐藤原、別当大監藤原、少典日下部」とあり、長和元年(1012)八月の文書にも「権少監日下部是高」と見える(『観世音寺古文書』)。こうした事情だから、藤原隆家が権帥として在任した時代の大宰府の官人として日下部氏がおり、それが後に筑後や肥前の在国司職を世襲するなかで、藤原隆家の後裔と称するようになったと推される。
高木八幡宮の上記社記に見るように、草野一族や竜造寺・鍋島・上妻などの諸氏が太陽の昇る様を象った家紋である「日足紋」を用いたのも、その日下部姓出自に因るものとみられる。また、筑紫国造は大彦命の後裔の阿倍氏族と称したから(国造本紀、孝元紀)、これが訛って草野氏の先祖が陸奥から来たとか安倍宗任の後裔ともいわれたことにつながる。

  肥後の菊池氏は、高木氏との分岐・同族ということで藤原隆家後裔と称したと伝えるが、これも日下部君後裔の故と思われる。菊池氏の故地も、筑前国穂波郡の高田牧(現飯塚市西部の高田の辺り)とみられるから、もともとは肥後の地つきの豪族というわけではない。高田牧は嘉麻郡の草壁郷とも近隣であった。両氏が平安後期に分かれたものという所伝(高木氏の祖の文時と菊池氏の祖の政則とが兄弟と伝える)については、実際には異なって、その分岐時期はもう少し遠い先ではなかったかと思われる。とはいえ、両氏の祖先が、嘉穂郡(嘉麻+穂波)あたりに居住した日下部姓の同族であって、大宰府官人として大宰権帥の下に同勤したことで、中世系図につながる同族意識を育んだことは考えられる。菊池一族の鷹羽紋は有名だが、この紋を用いる前には日足紋を用いていたという工藤敬一熊本大教授の指摘もある。
 
 もう少し補足ないし敷衍しておくと、高木氏が氏神として高木八幡宮を祀ったことを先に記したが、竜造寺一族も八幡神祭祀を伝える。高木一族が奉斎した河上社の祭神は、与止日女神社の社名が示すように、「与止日女神」(淀姫神)であり、その実体は五十猛神(八幡大神)の妻神の瀬織津姫神であった。筑紫国造が阿倍氏族というのは系譜仮冒であり、その実際の系譜は五十猛神の後裔にあたる火(肥)国造の同族であって、同国造の祖・建緒組命の子の大屋田子命の流れを引くものであった。大屋田子命が景行天皇の九州巡狩のときに随行したことは、『風土記』に見える。
火・筑紫両国造の祖には御井郡一帯を本拠としていて高良大社で祀られる高木神(高皇産霊尊)がいる。筑後国府付近の高良大社の祠官家としても日下部君氏(草部〔草壁〕氏、稲員氏)があった。佐賀郡高木村の地名は、平安中期の『和名抄』の郷名には見えず(当時の深溝郷)、高木が何時起った地名なのかは不明なので、あるいは高木氏が先祖の名前をとって地名を高木と名づけ、苗字も高木と名乗った可能性がある。興味がひかれるのは、前出の部信理が僧としていたのは京都郡高来郷(現行橋市高来で、草野の西方近隣)の平井寺であり、この東北近隣には高城山もあって、ともに「高木」に関係しそうでもある。そうすると、この地に在った日下部氏が肥前に遷った日下部氏となんらかの縁由があったものか。
こうして見ていくと、高木一族の祭祀関係や日足紋は、全体を通じて整合性がとれていることも知られる。
 
  (07.10.8 掲上)
  


  肥前の平野氏 
 
 <平野様よりの返信> 07.10.9受け

  数年前に、ちょっとしたきっかけで「平野」家のご先祖が、どこから来てどんな人物だったのか調べてみたくなり、探し始めてやっと辿りついたのが「肥前・高木氏」でした。
  平野家は、幕末には佐賀藩の士族で、佐賀郡川副町に住居がありました。父がある時に、お寺の住職に聞いたところによると「代々この地域の豪族と伝え聞いています」とのことでした。
  しかし、その地域は平氏の一族が住み着いて、干拓した土地だと聞いたことがあり、一時は「平氏」かと考えましたが、肥前の平氏一族(千葉氏)の中に「平野」姓はなく行き詰ってしまいました。 
  すると、二十年前の父からの手紙の中に、元々「平野家」は川副町ではなく「川上」というところから遠い昔に移ってきたらしい。言い伝えによると「豪族」だったいうがどの程度のものか?・・・父が年寄りから聞かされていた内容だつたのでしょう。そこで、「川上」という地名を探したら、すぐ近くに「平野」という地名まで見つかり、やがて高木氏に辿りつきました。
 
  今は行き来のない「平野」本家は、確か高木瀬町に近い鍋島町に住んでいると聞きますし、曾祖母は竜造寺家から分かれた「三上家」から嫁いできました。これも何かの「縁」なのでしょうか・・・?

 
 <樹童の応答>

 高木一族の平野氏については、あまり知られるところはありません。管見に入ったところを記しておきますと、次のようなもので鎌倉期の活動が知られます。

  その系譜は、高木宗家の弟の「益田新次郎大夫宗綱−於保次郎大夫宗益、その弟・尻河六郎宗康−平野次郎宗季(イ定秀)−三郎定宗(イ定家)−又三郎宗仲」までしか分かりません。益田(現在は増田で、佐賀市鍋島町大字鍋島のうち)、於保(佐賀市大和町大字池上のうち)、平野(佐賀市大和町大字東山田のうち)は川上川中流に近隣して位置しますので、この系図は信頼してよいと思われます。
 
  又三郎宗仲は鎌倉時代末期ごろの人で、その子の世代には南北朝時代に入ると思われます。『姓氏家系大辞典』には、ヒラノ第35項に肥前の平野氏をあげ、川上社文書の文保二年(1318)三月文書に「小成松平野三郎入道」、元亨二年(1322)文書にも「平野三郎入道」が見え、また鎮西引付に「三番・平野大和房」も見えるとのことです。最初の二つの「平野三郎入道」は年代的に見て、又三郎宗仲に当たる蓋然性が高そうです。
 
  また、「多久文書」には、弘安八年(1285)四月の肥前守護北条時定書下案に、河上宮五八会流鏑馬を惣領の催促に従って勤仕すべきことを高木太郎・於保三郎・平野三郎入道・砥田次郎入道に命じたことが見えますが、砥田は系譜不明も平野の西に近隣しているので(佐賀市大和町大字東山田のうちの戸田)、皆同族かとみられます。肥前守護北条時定は、蒙古合戦勲功賞として地頭職を配分され、その代官のなかに平野行真房が見えます。こちらの平野三郎入道のほうは、三郎定宗とみられます。
  阿蘇品保夫氏所蔵文書には、弘安六年夏五月に肥前執行の於保四郎種宗が平野三郎入道・笠寺三郎入道等の肥前国住人を率いて博多警固番役を勤仕しようとして抵抗にあったことが記されます。於保四郎種宗は於保次郎大夫宗益の孫で、平野三郎定宗の又従兄弟にあたり、於保次郎大夫宗益の弟の忠益が笠寺氏の祖となっています。
 
 竜造寺一族の三上氏は、竜造寺隠岐守康家(1510卒)の子の豊前守胤家(又、家弘、継千葉氏)の子の胤直について、「藤井、村上、三上祖」と見えますが、詳細は知りません。豊前守胤家の弟の山城守家兼の曾孫というのが山城守隆信の実系です。
 
  (07.10.10 掲上)

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