□ 近江の寺倉氏と今井・新庄一族 (問い) HPの清和源氏概観、義国流の新田一族に寺倉とありますが、何の書物に書かれてあったのでしょうか? また、近江国蒲生氏家臣に寺倉とあり、一族だと、太田亮博士の書物に書いてありました。新田一族とされる寺倉氏と関係があるのでしょうか?
(sinichi8様、07.10.22)
(関連質問)HPの清和源氏概観、義国流の新田一族に寺倉があるのが見受けられます。
私が調べられた範囲では、太田亮博士の姓氏の本に寺倉は近江の国、蒲生家臣に寺倉とあり、現在岐阜県海津市に多くあり、とありました。
その後、私になりに調べましたら、確かに室町期に滋賀県の鳥居平城城主に寺倉氏とあり、蒲生氏一族か?詳細不明とありました。滋賀県には、寺倉という地名もありました。このことをうけ、寺倉氏は蒲生一族であり、滋賀県に土着した藤原秀郷流かと思っていました。
ですが、今回、HPを見たところ、新田一族のなかに「寺倉」とあったので、どこからそのことが分かったのかが気になっています。本当に寺倉は新田一族から出た姓氏なんでしょうか?その文献などあれば、教えてください。
(sppw4様、07.10.28)
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(樹童からのお答え) T 寺倉という地名も苗字も、意外なことにきわめて少ないようで、管見に入ったところでは、近江国坂田郡の寺倉(現滋賀県米原市寺倉、もと坂田郡近江町)くらいしかありません。史料などに寺倉氏で具体的な活動が見えるのも近江国だけで、新田一族にどのような形で関わりがあったのかも不明です。
新田一族の関係を先に書きますと、南北朝時代の末期頃に活動した世良田大炊助政義の近親のなかには、ある系図に「寺倉氏の祖」と記される親季がおります。親季は通行する新田氏・松平氏関係の系図には、政義の子で、松平家祖の親氏の父祖とも泰親の父ともされますが、その系図では、世良田政義の兄弟に親季をあげて、「寺倉氏の祖」とされていました。ただ、寺倉氏の具体的な活動や地名が上州では見えないので、可能性としては、新田庄寺尾郷に起る「寺尾」氏の誤記の可能性も考えられます。政義の姉妹には、脇屋義助の男子とされる寺尾四郎義重の室となり、孫四郎の母となった女性がいるという事情もあるからです。この系統だという寺尾氏が旗本にあり、『寛政譜』に見えます。
いずれにせよ、上野国と近江国とではまったくの無関係だと考えられます。
U 以下は、近江の寺倉氏とその一族について記します。
1 『姓氏家系大辞典』テラクラ条に、「近江蒲生家臣に寺倉助兵衛あり、而して美濃に多し。此の国本貫か」とのみ記してあります。
この苗字の地とみられるのが、上記の近江国坂田郡寺倉(現滋賀県米原市寺倉)で、古代の息長君一族の本拠であった能登瀬の天野川の対岸(南岸)にあります。近江では坂田郡や蒲生郡に寺倉氏の活動が見られるとともに、寺倉の地から東へ近江・美濃国境を越え関ヶ原を経て、岐阜県海津郡あたりに居住した一族のものもあったと思われます。
2 近江の寺倉氏とその一族については、安土調査研究所さんの近江の城郭に関するHPなどに詳しく、何か所かに寺倉氏関連の記事が見えます。これらに教示をえたところが多いので、その関係を先にあげます。
(1)
坂田郡では、旧近江町寺倉の西隣の大字西円寺にある寺倉館は、今井氏の一族寺倉氏の屋敷とあげられ、旧米原町の三吉・寺倉には地頭山城があって、堀氏が築城して守備した鎌刃城(番場に所在)の支城であり、浅井長政の頃は今井氏が守備し、三吉の門根城は浅井家臣堀氏の屋敷だと記されます。
永正七年(1510)頃の浅井家臣に、坂田郡箕浦城を本拠とする今井肥前守がおり、その墓が西円寺にあるといわれます。寺倉にある禅寺・総寧寺(そうねいじ)は、亨禄年中に兵火にかかった後、新庄氏によって再建されました
これらに見える今井・寺倉・堀・新庄はみな同族で、藤原秀郷流と称されます。
(2)
蒲生郡の寺倉氏については、永楽七年頃に小倉氏を滅ぼした日野中野城主蒲生定秀が桜谷一帯を所領として、蒲生氏の家臣寺倉氏が佐久良城から鳥居平城(滋賀県蒲生郡日野町鳥居平)に居城を移ったとされています。日野町佐久良には寺倉氏居館の伝承地もあり、寺倉氏は蒲生氏の支流とみられているようです。
3 これらの記事を踏まえて、もう少し分かったことがあり、それを次に記します。
(1)
蒲生郡速水村にあった速水氏の系図の記事には、戦国期の佐々木六角承禎の頃に「寺倉半左衛門」がおり、小倉将監の二男同源兵衛大夫源実清を弓で射たことが見えます。寺倉半左衛門と寺倉助兵衛との関係は不明ですが、寺倉氏が佐久良に近在の小倉氏と対立関係にあったことが分かります。
(2)
今井氏は、箕浦三郎大夫俊季(秀郷七世孫という)の子の泉八郎俊宗の曾孫の今井九郎俊綱の子孫であり、江戸時代の常陸麻生藩主の新庄氏(駿河守直頼が藩祖)はその一族で、坂田郡新庄(能登瀬の西、顔戸・箕浦の東)に起りました。蒲生氏は、箕浦三郎大夫俊季の弟、牛飼藤大夫惟季の養子の蒲生太郎惟俊の子孫です。惟季の末子の上野田兵衛大夫忠俊の子孫も、蒲生郡上野田(日野町)にあります。こうした系図関係がありますから、蒲生郡の寺倉氏は、坂田郡の寺倉支族とみられますし、蒲生一族の系図には寺倉氏は見えません。
(3)
寺倉氏が今井氏の一族に出たことは、東京大学史料編纂所に所蔵の『島系図』(沖与左衛門〔高知県幡多郡鍋島村〕の原蔵)に見えます。具体的には、泉八郎俊宗の子の藤二俊正が寺倉氏の祖と見えており(※系図の当該部分は黄色マーカーをつける)、地域的にも天野川中下流域には今井一族の諸氏が繁衍しておりますので、これは信頼してよいとみられます。
また、同所には別本の『島系図』(島良三〔兵庫県明石郡大明石村〕の原蔵)もあり、そこには、鎌倉中期頃の中上新藤三実俊(泉八郎俊宗の曾孫)の娘が「寺倉進士太郎」の妻となったことが見えます。
4 坂田郡の箕浦三郎大夫俊季の後裔諸氏を関係系図に拠りあげると、次のとおり多数であり、それらの苗字の地が天野川(古名は息長川)の中下流域にかなり集中しています。
箕浦、泉、堀、石山、中上、黒田、速水、内藤、宮野、額戸(現地名は顔戸)、安食、今井、河瀬、岩脇、海津、若宮、近藤、河多、弭田(はつた)、井戸村、多和田、新庄、中西、中北、井村(同、飯)、島、寺倉。
これら苗字のうち、速水氏の具体的な分岐過程は不明ですが、浅井郡速水郷(現東浅井郡湖北町大字速水のあたり)に起こり、速見、早水とも記されます。速水氏は、上記のように蒲生郡にもあって、蒲生氏郷家臣に速水左衛門、速水勝右衛門などが見えるといわれますから、江北から蒲生郡に遷ったことも推されます。
また、『江北記』には、戦国期に京極氏の根本被官としてあげられるなかに、今井・堀・河瀬が見えます。今井氏は、一族のなかで重きをなしたようであり、代々が箕浦城を本拠としていました。
5 次に、これら箕浦一族の先祖については、系譜と行動で興味深い部分がありますので、附記しておきます。
箕浦三郎大夫俊季の先祖として、清和源氏の源頼義・義家一族に属して奥州合戦に従軍した藤原季俊・季方親子が知られます。
藤原季方(季賢、季堅)は「腰滝口」の異名とその豪勇さで知られ、『源威集』には、前九年の役のときの天喜五年(1057)の冬、安倍貞任らが籠もる黄海柵攻めに際して味方に利がなく、将軍頼義・義家親子らとわずか七騎で取り残されたことが見えます。その七騎とは、将軍頼義のほか、腰滝口末方・後藤内範明・大宅大夫光任・光房親子、豊嶋平{仗恒家の五騎とされます。次の、後三年の役でも、寛治元年(1087)に清原家衡・武衡などが籠もる金沢柵に使者として遣わされて豪胆さを示したことが『奥州後三年記』などに見えます。
その後、義家の弟・義光の郎党となっていた藤原季方は、甥で源氏惣領の義忠及び兄の義綱を滅ぼす義光の陰謀に加担して重要な役割を果たし、天仁二年(1109)二月には、義綱の子の義明とともに季方(義明の乳母の夫)も検非違使源重時に追補され、散々に戦ったのち自害して果てたとされます(『百錬抄』)。義光に利用されて消されたわけです。
この季方の子が箕浦三郎大夫俊季とされますから、この頃には坂田郡箕浦に居住していたことが分かります。なお、源義光の孫の義定は近江国浅井郡に住んで、その子孫から山本、早水、箕浦、柏木、錦織などの諸氏を出しているから、季方の一族となんらかの通婚があった可能性も考えられます。
ところで、藤原季俊の父とされるのが左近将監藤原頼俊であり、この者は永承二年(1047)二月廿一日付の「藤氏長者宣」に従五位下で見える頼俊(右近)にあたるとみられます。その一族(兄弟?)らしい藤原頼元(近江)という者も同じ史料に従五位下と見えますから、この時点でも近江にあったことが推されます。
問題は藤原頼俊の父祖であり、頼俊の父が頼清と一致していますが、その父については、系図によっては、正頼とも正清とも千清とも久頼ともされていて、定説がありません。そして、正頼とか正清の祖父や、千清とか久頼の父が千時ないし相模介藤原千晴(千春)になるという系図です。藤原千晴とは鎮守府将軍藤原秀郷の嫡子であり、安和の変の際(安和二年〔969〕三月)に左大臣源高明の一味として、前相模介藤原千晴が、子の久頼とともに検非違使源満季により捕らえられました(『日本紀略』)。これら千春・久頼の子孫が近江国坂田郡にあって中世の郡内に繁衍したとは、ちょっと考え難いように思われます。
そうすると、藤原頼俊は「藤原」姓を名乗っていても、本来は古代から坂田郡の在地にあった古族の末流ではなかったかとも思われます。史料に見えるところでは、奈良・平安時代(天平〜承和期で、八世紀半ば〜九世紀半ば)の坂田郡の郡司層では、息長真人、坂田酒人真人及び穴太村主(一部が志賀忌寸に改姓)の三氏が大領を出すなど有力でしたが、その本拠地などを考えますと、これらのなかでは息長真人一族の末流にあたるのが箕浦・今井一族ではないかという蓋然性が高いように思われます。
天野川下流域の筑摩御厨(米原市朝妻筑摩一帯)には、平安中期の長徳元年(995)十月に息長光保が御厨長として『権記』などに見えますが、新庄氏が戦国期の朝妻城主であったことも通じるように思われます。この頃に息長信忠が山城追捕使として見えており(「北山抄裏文書」)、息長氏が武士化している事情も知られます。
近江の息長一族が平安後期以降は杳として消息不明になりますが、藤原姓を称して源氏に仕える武家になり、中世以降も坂田郡に繁衍したとしたら、そのつながりは血脈として後世までしっかり在地に残ったことになります。 (2007.11.1 掲上)
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