甲斐武田氏一族の甘利氏

(問い)HP「古樹紀之房間」で、飯富氏、山県氏、またネットで板垣氏の系図は判明しましたが、甘利氏に関しては、室町以降、虎泰まで全く情報がありません。
 板垣氏と並び武田信玄の家老とも言うべき甘利氏の系図がどこにも無いのが不思議なのですが、何かご存知ないでしょうか。
 
  (熊野三山様より、2011.7.24受け)

 (樹童からのお答え)

 甘利氏の祖・甘利二郎行忠が父に続いて鎌倉幕府から誅殺されたことで、その後裔が史料や系図に見えない状況が三百数十年、戦国期まで続きます。『尊卑分脈』には辛うじて、行忠の子の甘利二郎行義・上条三郎頼安の兄弟があげられますが、行義の後は武田信玄に仕えて有名な備前守虎泰まで歴代が不明になっています。
 以下に、調査の結果と甘利氏の概要について記します(以下は「である体」)。
 
1 甘利氏の概要と動向
 清和源氏義光流の甲斐源氏武田太郎信義の嫡子、次郎忠頼は、甲斐国山梨郡一条庄を領して一条を号した。忠頼は、治承四年(1180)父・信義に従って頼朝の挙兵に呼応して活動し、同年九月に信州伊那郡で平家軍と戦い、翌十月には駿河へ出兵して平家方の駿河目代橘遠茂を破り、続く富士川の戦いでも活動して、両戦役で戦功を立てた。こうしたなか、甲斐源氏一族の勢力拡大を恐れた頼朝は次々と武田一族の武将を排除する動きを見せ、その皮切りに元暦元年(1184)六月、一条忠頼は鎌倉において誅殺された(『東鑑』)。その長子の伊予冠者朝忠は出家して飯室禅師と号したが、次男の行忠は父に連座して常陸に流され、のち(翌元暦二年四月)に誅殺された。それでも、行忠の諸子は助命されて、兄の行義が甘利氏を継ぎ、弟の頼安は上条氏を名乗ったとされる。
 行忠は、父・忠頼の兼領した同国巨麻郡甘利庄(『和名抄』の同郡余戸郷に比定される)を領し、同庄内に館を構えて甘利氏を称したが、これが始祖となる。その甘利館跡は、現在の山梨県韮崎市旭町上条北割の大輪寺境内とされる。行忠殺害の際に、本領の甘利庄も幕府に接収されて、鎌倉後期には北条得宗領であったが、南北朝期の訴状で、甘利庄が「忠頼の子孫」に返付されたことが先例に見える(「八坂神社記録」の社家記録裏文書。『山梨県史 資料編6下』310頁に収録)。そこで甘利荘を承けたのが甲斐源氏一族だとして、それが甘利氏なのか、忠頼の甥で一条氏の名・跡を継いだ一条六郎信長の系統なのかは不明であり、甘利行義の後裔がどこに居たのかも不明とされる。

 その後、甘利氏は断片的に史料に登場するようだが、大きく現れるのは戦国時代の甘利備前守虎泰である。虎泰は譜代家老衆で、武田信虎・信玄の時代には武田家の最高職とされる「両職」(『甲斐国志』による)や寺社奉行を務めたといわれ、後世には武田四天王、武田二十四将として位置づけられる。天文十年(1541)の春ごろ、虎泰は板垣駿河守信方や飯富兵部少輔虎昌らと謀って信虎の嫡子晴信を擁立して、信虎追放の無血クーデターを成功させた。この晴信の家督相続で、武田氏は新時代を迎え信濃に進出を始めるが、虎泰は主君晴信を補佐して国内の治政に尽力し、天文十一年(1542)の信濃瀬沢合戦等では奮戦したと伝える。
 天文十七年(1548)二月、晴信は村上義清討伐のため信濃国小県郡に出陣し、両軍は千曲川の支流の産川・浦野川の合流点あたりの塩田原(一に上田原。長野県上田市)の合戦で激突した。緒戦で村上勢を破った板垣信方の油断もあったようだが、村上氏の逆襲により武田軍は次第に圧され、ついには大敗北を喫した。この合戦で、虎泰は板垣信方ら七百余名とともに戦死し、晴信は両腕の二将を一度に失う手痛い敗戦を喫したが、村上方の損害も大きかった。
  虎泰の嗣子の甘利藤蔵昌忠(左衛門尉。後に信忠に改名)は、虎泰の戦死後に信州上田に呼び寄せられ、父の名跡を継いだ。初陣をかざったのはその後のことで、藤蔵十五歳の時であったというから、この辺から虎泰の享年も推される(信虎とほぼ同世代であろう)。天文二十年(1551)には、板垣信方後継の信憲と甘利昌忠とが連署して、二宮造営の勧進状を発出している。昌忠は父に劣らない猛将といわれ、武州松山城攻めなどの合戦では度々戦功をあげたが、永禄七年(1564)頃、三十一歳の時に落馬が原因らしい不慮の死を遂げた。昌忠の跡は弟の信康(郷左衛門尉)が継ぎ、武田軍鉄砲隊の隊長を務めたが、天正三年(1575)の長篠合戦では鉄砲隊を指揮して戦い、設楽原決戦において弾丸が尽きると鉄砲を捨てて敵陣に突撃し討死を遂げた。
 これら甘利一族では、ほかに甘利信恒(三郎次郎)、次郎四郎の名前も『甲斐国志』に見えるが、武田氏滅亡とともに姿を消した。
 
2 甘利氏の系図と検討
 いろいろ当たってみたところ、甘利氏の系図は単独では管見に入っていないし、明治期の系図収集者の鈴木真年・中田憲信の系図資料集にも見えない。ところが、そこはよくしたもので、支族が多い武田一族ということで、その一族が伝えた系図のなかに甘利氏歴代の系図が伝えられていたことが分かった。それが、東大史料編纂所に謄写本が所蔵されている、森源太郎氏(兵庫県佐用郡行宗村)原蔵の『武田系図』【請求記号】2075-455)であって、明治廿二年(1889)に採録されている。
 それに拠って甘利氏の直系を概略であげると、「行忠−行義−頼高−高行−宗信=甘利四郎基信(実は宗家大膳大夫信武の子)−景信−信氏−景氏−信広−景光−景長−信益(備前守、仕信玄)−晴吉−藤蔵(左衛門)−利重(三郎次郎、藤蔵、長篠役討死)」と記載される(その具体的なものは別添系図を参照のこと)。
 
 年代的にいうと、高行・宗信親子のころが南北朝時代にあたり、宗信の跡を武田宗家の信武(1359年卒)の・基信が養子に入ったとされるが、基信の名は他の武田系図には信武の子として見えない。しかし、『系図総覧』所収の「武田源氏一流系図」には信武の孫(信成の子)に上野介基信をあげ、「相伝十七代」(十六代は兄で宗家の修理亮信春)と記され、本武田系図でも同様に「信成の子」として「四郎基信」をあげており、大膳大夫を名乗ったのは信成のほうだから、正しくは「信成の子」とされよう。ともあれ、本宗から甘利氏に養嗣が入ったのは確かなようであり、これが甘利氏の地位の高さにつながるのかもしれない。
 その後裔の備前守信益が事績・通称などから備前守虎泰に当たるとみられるが、ここまでの世代数はほとんど問題がないとみられる。武田宗家では、信玄が信武の九世孫であり(信虎は同八世孫)、上記系図では備前守信益が信武の八世孫とされているから、世代がほぼ対応しており、この辺までは直系で続いたものか(仮に上記の甘利氏系図では一世代多いとしたら、景氏は信氏の弟で景信の子かもしれない)。
 総じていうと、この甘利氏の系図部分と記事はほぼ信頼して良さそうである。
 
 記事の相違に関しては、備前守信益(虎泰)以降は、晴吉、藤蔵(左衛門)、利重の三人が皆、兄弟で信益の子ではないかともみられ、上記の甘利氏の動向で見た内容と名前が皆、違っているが、事績はそれぞれがほぼ相通じるので、備前守信益以降は異名記載と解してよさそうである。阿部猛等編『戦国人名辞典』では、甘利晴吉について、「昌忠・藤蔵・左衛門尉」とし、「天文十九年(1550)に左衛門尉」となり、三方ヶ原合戦(元亀三年1573)に武田軍を救う軍功があったが、「一説には、永禄七年(1564)に没という」とあって、虎泰の息子三人が多少とも混同されていることもありうる。
 ただ、備前守信益の討死自体も、上記系図記事は『甲斐国志』など一般的な所伝と違って、場所・相手が同じ信州で村上義清でも、武田信玄軍が総敗北の様相を示した「戸石合戦」(戸石崩れ)として異なり、従って討死年月が「天文十九年九月」と異なっている。なお、『甲陽軍鑑』でも甘利備前守の討死を記すが、戸石合戦の時期を天文十三年(別の箇所では十五年)と誤っており、山本勘助の活躍が目立つ形で記される特異事情もある。
 備前守虎泰以降も、「晴吉、藤蔵、利重」が「信忠、信康、信恒」に当たるのか、三人の名前が実は二人で、中間の「藤蔵」「信康」が前後のどちらかと重複するのかか、定めがたいようでもある。しかも、利重も「藤蔵」という呼称をもつというから、話が複雑である。 ともあれ、甘利氏では長篠で討死した者で絶えたことは異説がない。

 以上の異説の整理は、できるだけ信頼できる史料を基に要点を押さえていく必要があるが、現段階ではここまでの史料提示に留めておくこととする。
 
  (11.8.04 掲上)
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