三浦大多和氏とその系図

T 来信内容(2015.04.05受け)   ※誤記などは適宜、修正済 

  知人との関係もあり三浦大多和氏について調査しており、応永期に活動した三浦備前守について質問します。
 「鶴岡八幡宮神主大伴系譜」によると、十代持時の母は三浦備前守の娘で、持時は応永21年(1414)3月に11歳で鎌倉公方持氏から偏諱を賜ったとあります。「鎌倉大草紙」には、この三浦備前守が上杉禅秀の乱の折、公方持氏を守って公方邸から「小坪を打て出、前浜を佐介へ入せ給う」とあります。このように、三浦備前守は鎌倉公方足利氏と深い関係にあると思われ、公方奉公衆とみられます。「吹塵録」には、三浦備前守義高が、応永10年(1403)、三浦三崎浦に漂着した唐船の検分に赴いたとの記事があり、時代の整合性から、備前守の実名は義高であった可能性があります。
 鎌倉公方奉公衆の三浦氏としては、佐原流三浦介家の他に、横須賀三浦氏が知られますが、この三浦備前守の三浦氏における位置づけは明らかでありません。江戸初期以降、彦根藩臣となった「三浦十左衛門家系図」(早稲田大学図書館所蔵「三浦家文書」)には、「義遠−義武−義之−義雄−義高−持高」とあり、「義遠−義武」という三浦大多和氏にかなり特異的な実名とその系譜関係の記述から、この三浦十左衛門家の実系は相模三浦大多和氏の可能性があり、「義高−持高」の系譜関係、足利持氏からの偏諱の可能性から、この系図にある義高こそが、先述の三浦備前守にあたると推察しております。
 従って、三浦備前守は相模三浦大多和氏流れで、実名義高の可能性があるかと考えております。興味深いことに、鈴木かほる氏著『相模三浦一族とその周辺史』p337にも、三浦備前守義高は三浦大多和氏後裔との記述がありますが、出典資料を明記しておりません。この三浦備前守と相模三浦大多和氏との系譜関連、鎌倉公方と相模三浦大多和氏の関連について何か情報がありますでしょうか。この関係で、御教示いただけますと幸いです。
  
 (安部川 智浩様より、15.4.5受け)


 (樹堂の感触・考えなど)

 問題提起をありがとうございます。貴信をうけて、三浦氏の系図をいろいろ当たってみましたが、「三浦備前守」なる者は、この「鎌倉大草紙」に登場の者と、桶狭間の今川方に見える者しか、見当たりませんでした。そこで、三浦庶流の出ではないかと考え、ご指摘のように、相模国三浦郡大多和村(現・横須賀市太田和)に起こった大多和氏を中心に見ていくこととしました。
 (以下、である体
 
1 『東鑑』等に見える鎌倉時代の大多和一族
 同書巻一の治承四年(1178)八月条には、兄弟の三浦次郎義澄・同十郎義連とならんで大多和三郎義久が先ず見え、義久の子の次郎義成が見えるが、あとは実名の記さない大多和左衛門尉・同新左衛門尉などである。大多和氏の系図で、管見に入った限りでは最も詳しい「三浦系図」(『姓氏家系大辞典』p1214オホタワ条に掲載。その原典は『諸家系図纂』巻11の桓武平氏(第1)の大多和系図にあり、大辞典には誤記・略記があることに注意)に拠って実名比定をしていくと、貞永元年(1232)十月条の大多和左衛門尉は義成の子の左衛門尉義季で、正嘉二年(1258)から弘長元年(1261)にかけて見える大多和左衛門尉及び仁治二年(1241)から寛元二年(1243)にかけての大多和新左衛門尉は左衛門尉義季の子の左衛門尉義遠ではないかと推される。ほかにも、大多和氏が『東鑑』に見えるが、この辺が同書に登場の主なところである。
 三浦一族が起こした和田義盛の乱及び宝治合戦(三浦泰村らの乱)には、ともに北条氏に従って生き延びており、上記「三浦系図」に拠ると、左衛門尉義遠の子の左衛門尉義任は壱岐守と見える。その弟の与一師義(また定義)は、足利氏執事の高一族から養子に入った模様で(逆に、大多和氏から高一族に養子にいった可能性もあるが)、師義の甥には尊氏執事の高師直・師泰兄弟がいた。こうした人物関係から見て、左衛門尉義任の子の左衛門尉義綱(家祖の義久の五世孫)が南北朝初期の建武の頃に活動したことが分かる。
 
2 『太平記』及び南北朝期の大多和一族の活動
 『太平記』では巻十の「三浦大多和合戦意見事」に見える「三浦大多和平六左衛門義勝」があげられ、 元弘三年(1333)、新田義貞に味方して鎌倉攻めに際し、松田・河村など相模諸氏の軍勢を率いて馳せ参じ、その武功をたてたことで知られる。ほかに、大多和氏は同書に見えないから、唯一のはなばなしい戦いであった。大多和義勝の系譜上の位置づけについては、誤解もあるようだが、上記左衛門尉義綱(家祖の義久の五世孫)と同世代に彦六郎義勝が上記「三浦系図」に見えるから、これに該当しよう(系は、左衛門尉義遠の弟の三郎左衛門尉季信−義綱−彦六郎義勝となるが、義綱の兄に平六左衛門義行、その子に平六左衛門倫義も見えるから、『太平記』の記事に誤りがあって、実名が義勝でなければ、義行・倫義親子のいずれかに該当するのかもしれない)。
 建武三年(1336)五月の播磨の合戦には、三浦大多和左衛門四郎入道が足利勢として参戦したとされるが、左衛門尉義綱の兄弟にあたる者か。
 『新編相模風土記稿』には、公郷村(横須賀市)に永島庄兵衛という屋号の家があり、その先祖は大多和義勝で、義勝はその後に相模次郎時行に従って足利尊氏と戦い、楠正成の手に属したが、暦応二年(1339)に当地に帰住し、その子の義政のときに永島と改めた、という家系一巻が伝わると見える。この辺は真偽不明だが、ありうることかもしれない。
 さて、大多和氏は、『姓氏家系大辞典』にも言うように、伊勢国一志郡及び安芸国の豊田郡入野郷等での活動が南北朝期から知られており、同辞典の記事では、戦国末期の永禄・弘治の頃に、大多和宗兵衛が大道城に拠り、毛利氏に属して功あり、『芸藩通志』には豊田郡入野郷に大多和氏があったことが見える。
 とくに安芸での活動が史料に著しい。具体的には、建武三年(1336)六月に大多和彦太郎などの軍忠が見え(安芸の熊谷家文書)、観応二年(1351)四月に安芸国入野郷に関し大多和左衛門太郎(安芸の平賀家文書)、文和三年(1354)九月に同じ入野郷内の大多和八郎太郎入道、延文二年(1357)八月に同国久芳郷に関し大多和太郎左衛門尉(安芸の小早川家文書)、応永五年(1398)五月に入野郷半分に関して三浦大多和出羽入道浄本、などの活動が見える。
 岡部忠夫氏の編著『萩藩諸家系譜』に拠ると、「義久−二郎義成−左衛門尉義季−左衛門尉義遠−壱岐守義任−左衛門尉義綱」まであげて、その後の宗兵衛(河内守)就重までの中間に入る世代は不分明とされる。安芸の大多和氏は、賀茂郡中河内大道城が大多和有馬の居城で、中河内藤城城も大多和氏の城だと見えるので、賀茂郡本拠の豪族で、毛利氏に属し、萩藩大組で二五一石余を給わった、岡部氏が記している。
 ところで、上記観応二年(1351)の大多和左衛門太郎は、「三浦系図」には左衛門尉義綱の子に左衛門太郎義兼があげられるから、大多和氏本宗が南北朝期頃に安芸に遷住したのかもしれない。それでも、大多和一族は多いから、関東に残ったのもあったのだろう。
 
3 提示の大多和系図の検討など
 「三浦十左衛門家系図」(早稲田大学図書館所蔵「三浦家文書」)の実物を見ていないので、「義遠−義武−義之−義雄−義高−持高」とある系図の初祖的な位置にある義遠の続柄は分からないが、持高の名が持氏の偏諱に因るものだとしたら、世代が直系で続いていた場合には、義遠は、上記の検討で見てきた鎌倉中期頃の左衛門尉義遠に年代的に該当するとして不思議ではない。
 上記「三浦系図」には、左衛門尉義遠の子に義武の名は見えないが、孫に太郎左衛門尉義武(壱岐守義任の子)に見える。義武の子には義顕(小太郎、兵衛尉)・義季(三郎)が記されるものの、義之の名は見えない。義顕か義季かその他の別人にあたるかは不明であり、ご提示の「三浦十左衛門家系図」に譜註がないのが惜しまれる(原典に要確認)。
 ともあれ、義遠・義武の名が一致する事情を考えると、この「三浦十左衛門家系図」が大多和一族の出であった可能性がある。「三浦備前守」の名が三浦本宗関係者でもないようなので、この辺の事情も併せて、ご提示の貴見は妥当する可能性があるように考えられる。以上が、取りあえずの私見である。関係原典をあたることで別の見方も出てくるかもしれないが、この辺は留保しておく。
 
 ところで、彦根藩士の三浦十左衛門家は、旧今川家臣とのことであり、穴山梅雪(信君)が安土城において織田信長に謁見する際に同行した家臣のなかにの三浦十左衛門が見えている。三浦次郎左衛門家が今川氏の重臣であったことを示す史料として、有名なのが「今川仮名目録」(七代今川氏親の頃〔1473〜1526〕)に制定された分国法)であり、そのなかの一条に「一、三浦次郎左衛門尉、朝比奈又太郎、出仕の座敷さだまるうえは、自余の面々は、あながちに事を定むるに及ばず。……」とあり、三浦氏は朝比奈氏とともに、今川家家臣団の筆頭第一に挙げられる。この三浦次郎左衛門は範高とみられており、その一族に十左衛門安久がいた。
 また、三重県立図書館には、『伊勢国司諸侍系図書』(大嶋内蔵頭義千著。天正十年〔1582〕成立)の中に「三浦(大多和)兵部少輔」の系図が記載されているとの情報がある。その記事には、「「平氏一志郡八田城主阿坂騎後詰 旗頭 三浦兵部少輔 ヤシキ 丹生ノ俣。同 監物正。同 イ右近将監 斎進」と見える。
 
 なお、関連する参考論考に次のものがあり、詳しい研究を望む方はご覧下さい。
 大石泰史「今川氏家臣三浦正俊と三浦一族」(『戦国史研究』25。1993.2月
 酒入陽子「旧今川氏家臣、彦根藩士三浦十左衛門家について」(『戦国史研究』40 。2000.8月
 糟谷幸裕「今川家臣三浦右衛門大夫について」(『戦国史研究』42 。2001.8月
 
  (2015.4.12 掲上)
 
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