飯尾氏の諸流

(問い)『姓氏家系大辞典』の木村氏(但馬)の項にある武田信玄家臣の飯尾右京進直利の出自を調べています。
 武田家臣には三善氏流の飯尾助友・祐国や自称清和源氏浜名氏流飯尾正孝(浜松市立中央図書館蔵「清和源氏飯尾引間氏関係資料」所収系図)がいたようですが、ご教示頂ければ幸いです。また、浜松の曳馬城主飯尾氏については、三善氏流と浜名氏流が混同されているようですが(前掲資料)、浜名氏流飯尾氏の実像はどのようなものだったのでしょうか。

   (兵庫県 木村様より、2010.7.26受け)


 (樹童からのお答え)

 飯尾氏は各地に諸流あり、阿波に起こった三善氏流飯尾氏が鎌倉幕府・室町幕府の奉行人をつとめて著名で、広く分布しましたが、これも含め具体的な系図がよく分からないことが多い事情にあります。戦国時代の甲斐の武田家に数家の飯尾氏が見えますが、三善氏流とはどうも別流のようですが、この二つを中心に次ぎに見てみます。(以下は、である体で記す
 
1 幕臣で奉行人の飯尾氏

 頼朝に登用され問注所執事をつとめた三善朝臣康信の子弟の後裔は、町野・太田・一宮・矢野・飯尾・布施などの数家に分かれて、鎌倉・室町両幕府の奉行人として存続したが、そのうち飯尾氏は康信の弟・行倫(大舎人允、隼人佑)の後で、行倫の孫の兵庫允倫忠の子孫とされる。三善倫忠は、『東鑑』天福二年七月条に兵庫允三善倫忠と見えるが、『百家系図稿』『諸系譜』など鈴木真年関係の系図史料に拠ると、幕府の評定衆をつとめた矢野倫重の子で、飯尾氏の初代とされるから、阿波国麻殖郡飯尾村を所領として、その地名に因み飯尾を称した。徳島県の吉野川中流南岸にある向麻山の北麓を流れるのが支流の飯尾川であり、いま吉野川市鴨島町飯尾の地名が向麻山の西北に見える。
 飯尾氏は、南北朝期、建武元年の雑訴決断所の交名に飯尾兵部右衛門尉頼連などが見えており、『阿波国徴古雑抄』所収の「飯尾文書」には建武三年二月に阿波国麻殖荘西方惣地頭の飯尾隼人佑吉連、舎弟四郎為重の名前が見えており、その子孫は当地に残って、戦国期の『阿波古城記』には「麻植郡分 飯尾殿(三善)」と見える。
 室町幕府の奉行人としては、大和守・近江守・肥前守・美濃守・加賀守などの諸流が見えるが、これら諸家の系譜はかなり断片的であって、全体関係は不明である。その一族から、遠江・三河・尾張などに分かれた家も出しており、著名なのは今川氏に属して遠州引馬(曳馬)城主となったものである。この家は善左衛門尉長連を祖としており、長連は今川義忠に属して文明三年塩貝坂で討死にした。その子の賢連が初代引馬城主であり、斯波氏の被官大河内貞綱が引馬を占拠して暫くこの地に拠ったが、永正十三年(1516)に今川氏親に滅ぼされた後に飯尾氏が引馬城主となった。その後は、その子の「乗連−連竜」と引馬城主で続いて、飯尾豊前守連竜は今川氏真に裏切りとみられて永禄八年(1565)に殺された。この一族は豊前守家で、「連」を通字とし、名前に「為、実、貞」を用いた一族もいたが、名前に「助・祐」を用いる三善朝臣一族は見えない。
 ただ、奉行人飯尾氏の一族でも後に藤原姓を名乗った事情もあり、『見聞諸家紋』に見える奉行飯尾左衛門大夫之種が『海東諸国記』には「京城奉行頭飯尾肥前守藤原朝臣之種」と記される。

 
2 甲斐武田氏家臣の飯尾氏

 甲斐の武田氏には、ご指摘のように数人の飯尾氏が見えるが、どうも戦国後期の今川氏の衰滅期になって武田氏に属したようである。そうすると、もとは駿遠あたりの武家の出と考えられる。
 具体的には、武田信玄の異母弟で、長篠合戦で討死した河窪(武田)信実の与力の浪人衆頭三人のひとりに飯尾与四郎右衛門助友があげられる。『姓氏家系大辞典』では、飯尾右京進直利が信玄家臣にあり、その子の新左衛門尉が播州加古郡木村に移遷して、子孫は木村氏と称し、さらに但馬にも拡がったことが見える。
 飯尾助友と飯尾直利との関係は不明であるが、かりに同族であったとしたら、その系譜についても手がかりを得られる点がある。
 すなわち、飯尾助友は井伊弥四右衛門とも名乗ったといい、一方、飯尾直利は藤原姓というから、併せ考えると、遠州引佐郡井伊谷(浜松市引佐町)の井伊氏の一族が甲斐に来て、音が近い飯尾を名乗ったということになる。「直」は井伊氏一族の通字であった。なお、遠江国には清和源氏頼政流と称した浜名氏の一族にも飯尾氏が出たというが、浜名一族の名前には「頼・政」が多いので、藤原姓と「直」の通字、井伊氏の称から見ると、遠州井伊氏の一族から出たとみるのが自然である。ただし、浜名氏も実系としては、源頼政の子孫ではなく、頼政郎党の猪早太高直の子孫であった可能性があり、この猪氏はすなわち井(井伊)氏のことだとみられる。
 
 井伊氏の一族は浜名湖の東方一帯地域の地名を苗字として繁衍した。藤原北家の良門流、藤原南家の為憲流とも三国真人姓とも称したが、いずれも系譜仮冒とみられる。その実、井伊介(俗に「八介」の一と称される)として古くから遠江在庁官人の有力者であったから、遠州の古族の流れで物部氏族の浜名県主の族裔にあたる可能性がある。南北朝動乱期には井伊氏は、宗良親王(その妃に井伊道政の娘という)を迎えて南朝方として活躍したが、後に武家方に転じ、今川氏に属するようになった。
 戦国期の井伊氏では、信濃守直盛が今川義元に仕えて桶狭間で討死し、その家督を継いだ従兄弟の肥後守直親は永禄五年(1562)に謀反を企てたとして、今川家氏真の命を受けた今川重臣の朝比奈備中守泰朝により掛川で殺害され、その嫡子の万千代(虎松)直政は難を逃れるため、井伊谷を離れた事情があるから、上記直利もこれに関連して甲斐に到り苗字も変更した可能性がある。
 もっとも、真偽確認はできない面もあるが、彦根藩主井伊氏に繋がる井伊谷井伊氏とは別に、渋川村を本拠の渋川井伊氏(上野次郎直助を祖)が当時の文書に見える。寺院の造営などから相当の力を持っていたようであるが、渋川井伊氏は遠江守護職をめぐる斯波氏と今川氏の戦い(16世紀前葉の永正年間)に際して斯波氏に味方したため、今川氏が遠江守護職になったのちに直泰(直助の六世孫)は甲斐に移住していった、とも伝える。
 これも疑問な書であるが、『井伊直平公一代記』という史料があり、それによれば井伊直平(信濃守直盛の祖父)は家老の飯尾氏によって毒殺されたと見える。一代記の内容は誤謬が多いようで、直平の墓碑によれば、永禄六年(1563)に陣没と見える。しかし、これも、引馬城主飯尾連竜の妻により毒茶を呑まされ死亡したともいう。どうも、「井伊氏家老の小野氏の讒言によって、今川氏に属した飯尾氏によって毒殺された」というのが実態か。ともあれ、井伊氏の関係者として飯尾氏が見えるのが、興味深い。
 井伊直親殺害後に井伊氏の当主になったのが「次郎法師直虎」を名乗る女性(祐円尼でで、もと直親の婚約者)で、信濃守直盛の娘であった。この時期に、井伊氏の勢力は大きく衰退し、武田信虎などの侵攻を受けたから、この時期に甲斐に遷った一族もあったのかもしれない。祐円尼は、直親の遺児虎松(直政)を養子として育て、徳川家に出仕させ、後の彦根藩主家につながった。

 以上に見るように、井伊氏の一族に飯尾氏があった可能性が考えられるものの、甲斐移遷の時期については不明である。
 
 (2010.8.1 掲上)



  <木村様よりの来信> 2010.8.2 受け

  若干の追加情報をご参考までにお知らせいたします。

 いくつかの浜名氏系図によれば,浜名氏から分かれた飯尾氏は井伊谷に住んでおり,系図に「重隆」「重政」という諱が見られます。三善氏流飯尾豊前守連龍が永禄8年12月死亡に対して、浜名氏流飯尾豊前守政純は永禄12年3月8日死亡で,その弟である飯尾二郎右衛門尉正孝が甲斐に落ち行き武田氏に属したとのことです。
 井伊家伝記や井伊直平公御一代記によれば,飯尾淡路守定重(その女は井伊直平の側女)の子である飯尾豊前守則重の妻が直平を毒殺したということになっています。
 兵庫県但馬地方の郷土資料によれば,飯尾右京進直利の息子二人が最終的に但馬國朝来郡に定住したとなっています。兄は諱を「倫重」といい、弟は新左衛門尉(諱は不明)といったそうです。新左衛門尉の子も新左衛門といい,江戸中期頃には木村新左衛門直敬という人物がいたようで,「直」が通字と考えられます。現在も新左衛門家は存続してい
るようです(私の先祖はその傍系庶流ですが。)。「直」と「重」という兄弟で異なった通字であることも不審です。ひょっとして,浜名氏流と井伊氏流が合流して同族のようになっていたのかと思ったりします。

 井伊氏及び飯尾氏関係で何か新しい情報がございましたら,HPにUP して頂ければ幸いです。今回は誠にありがとうございました。

  (2010.8.3 掲上)                         
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