□ 新羅王家朴氏の系図 T 来信内容(2015.1.16受け) ※誤記などは適宜、修正済
1 新羅王の初代王たる赫居世の先代に「飯氷命−朴巫牙−提炎−力
![]() 2 飯氷命という名はとってつけたようなもので『日本書紀』に稲飯命、『古事記』に稲氷命とある命(神武帝の兄)の末尾の漢字たる飯と氷を繋げて考えだされた人名であって、ありえない名称と思います。
『新撰姓氏録』には「脱解は稲氷命が神武東征で死なずに海外に落ち延び脱解になったという記事があり」(原文ママですが、樹童註:これは誤解です)、その真偽は別にしてこの記事は神武帝が『日本書紀』のいう前七世紀の天皇ではなく、前五〇年頃つまり脱解と同時代の天皇たることを示す記事と考えれば、その後の百歳を超える天皇を基にして構成される日本古代年表に修正を迫る記事として注目に値すると考えられます。
3 その意味で「飯氷命−朴巫牙−提炎−力
![]() このほかにも天日矛以降の系譜についても『日本書紀』『古事記』の提示する系譜とはいくつか相違点が見られますが、それも合わせて詳しい説明があればありがたいです。
例えば、「次次雄−神乎多−迎烏−天香語山命−天村雲命−天忍人命(尾張連)・天種子命(中臣連)・天日別命」、「迎烏−天佐擬利−阿加流日古−曾那良−多婆耳−日矛・弟知古」などという系譜もありますが、これも凄い。
(日本歴史研究所より、15.1.16受け)
|
(樹堂からのお答え) 1 新羅など朝鮮半島の王家関係者の系図や史料は、年代・続柄等でいろいろ疑問があるものが多い。当の韓国には古い時期に作成された系図はまったく残っておらず、朝鮮両班の『族譜』でも古いものは15,6世紀の作成とされている程度である。しかも、その氏の始祖が朝鮮人でも中国人でも、その父祖を記さないものが殆どであり(一部に遥か遠い祖先をあげるのもあるが)、行動事績が簡単に記される程度だから、よほど朝鮮歴史の事情に通じていないと使いにくい面もある。
朝鮮の朴氏のなかで嫡流の密陽朴氏(新羅末期の第54代・景明王の長男・密城大君朴彦忱を始祖とする)などの現存族譜を見ても、初代王の朴赫居世より先に遡るものはない。だから、こうした時期の系図探索は、朝鮮半島の現地にあっても、そもそもが雲を掴むような話なのです。
明治期の鈴木真年や中田憲信も、どこから収集してきたか分からない満鮮関係の系図を何本か、その著作集のなかに所載しているが、いくつも矛盾する記事内容があり、真偽を判断しがたいというのが実情である。このため、十分なお答えにはなりませんが、『古代氏族系譜集成』にはその編纂当時の考え方段階のものを試案ないし参考程度として書いてみた次第だと聞いている。
2 『古代氏族系譜集成』の新羅関係部分をご覧いただけると分かることですが、神武天皇や朴赫居世は、同書には実際には概ね紀元二世紀後葉頃の人ではないかと把握されており、ほぼ同じ頃に新羅で重臣として活動した「瓠公」が倭からやってきたと『三国史記』に記される。これが、神武の兄にあたる稲氷命(稲飯命)にあたって、その後身だとしたら、稲氷命は妣国(母の国)である海原へ入坐としたとのみ記す『古事記』の所伝は、それなりに話が通るものである。もっとも、韓地が母の国というわけではなく、母系が海上交通に優れた海神族から出ているというものにすぎず、韓地はむしろ父系遠祖の地ではなかったかとみられる。
加えて、『姓氏録』には、新良貴(右京皇別。カバネの「公」が脱漏か)という姓氏があげられ、「彦波瀲武
![]() 現在の韓国には、日本の天皇家は実は朴氏の流れだという噂があるとも、かつて韓国在住であった友人から聞いたことがある。朴氏王家がツングース系で、わが国の天孫族と同流であったのならば、両者が遠い同族関係にあったことをあながち否定できないのではないかとも考えられる。
3 天日矛には、新羅からの渡来伝承があるが、その渡来のときに本国に弟・知古を遺したとされる。だから、倭地からの到来伝承のある脱解が、天日矛の後裔という可能性があるにしても、知古の後裔というのは無理があると考えられる。
脱解後裔の昔氏と前項の朴氏との系図関係は不明だが、なんらかの同族関係があったことも考えられる。昔氏の後裔にも、応神朝に倭地に到来してきた微伐角汗の後裔という近義首、山田造(両者同族で、録・和泉未定雑姓)という姓氏があると伝える。
(15.4.10掲上)
|
(応答板トップへ戻る) |
ホームへ 古代史トップへ 系譜部トップへ ようこそへ |