□ 土佐の片岡一族 (問い) 私の片岡家親戚筋は、全員が高知県吾川郡仁淀川町の出身だそうです。その故郷を訪ね片岡家のルーツを調べたいという話になりましたが、実際の訪問の前の調査にご協力頂けないでしょうか。 私が調べる限り片岡家の出自は平家系、平家に仕えており、血統が平家というわけではなさそうです。一説には清和源氏、一説では藤原となっております。理解に苦しむポイントの一つです。
先祖が近江(滋賀県)在住の豪族で、その当時は片岡を名乗っていなかった模様で、一説では近藤経繁が初代片岡のようです。朝廷より上野(群馬県)平定を指示され下向し、そのまま領地を拝領しその地の地名をとり片岡と名乗ったようです。片側が丘、片側が沼地であったことから片岡という地名だったとの記述も見つけました。
その後も朝廷を支持し、時の平家に仕え壇ノ浦へ従軍したが敗北。遠縁を頼り四国へ逃げ込み定住した模様です。面白いのは仁淀川にはその他の平家落人も流れているらしく、近辺は京都の地名が散見。仁淀川も、淀川+天皇家名お決まりの「仁」。つまりは落人が絶対に見つからないほど辺鄙なところということだと思います。
片岡という地名は、栃木、奈良、愛知知多半島や千葉房総にも片岡が散見されます。
(愛知県の片岡様より) 10.8.13受け <※質問要旨の掲載です>
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(樹童からのお答え) 土佐の片岡氏の系譜は、俗に通行するものは宇多源氏、醍醐源氏等々できわめて混乱しており、これらは中世系譜の俗伝の典型のようです。先祖の系譜を失った事情があったのかもしれません。この具体的な解明には、明治期に鈴木真年翁とその関係者が収集した系譜が欠かせないものであり、以下に順を追って記述します。(以下は、である体で記す)
1 戦国期以降の片岡氏
土佐の片岡氏の系譜には、諸伝あるが、それらが一致してくるのは十五世紀後葉、応仁・文明期頃の人とみられる左衛門尉直常(直経)以降である。また、戦国期の長曽我部元親ころ以降の人物でも、同人が異名で史料に見える模様なので、系譜の混乱に拍車をかけるものとなっている。このため、管見に入った史料により整理を試みるが、まだ思違いがあるかもしれないことを予め断っておく。 まず、左衛門尉直常以降は、その子の「左衛門尉直道−左衛門尉直光−紀伊守(右近)茂光」と続いており、茂光の妻は長曽我部国親の妹とみられる(系図には直光の妻とされるが、直光と茂光とが別人であれば、世代的に茂光の妻としたほうがよい)。茂光の子が長曽我部元親に仕えた左衛門尉大夫(下総守)光綱とされる。光綱は高岡郡の黒岩城及び吾川郡の徳光城(徳光谷は吾川郡仁淀川町西南部の仁淀川沿岸にある)に拠っており、天正十三年(1585)に伊予金子の陣で、秀吉南征のもとの毛利・小早川の軍と戦い討死した。この者と摂津守親光との関係が難しいが、親光は文禄四年(1595)に見えるというから、親光は光綱の子弟とみておく(親光の子には、民部直勝(直親)・但馬守直近がいたというから、親光は紀伊守直季と同人であったか)。 左衛門尉大夫光綱の弟に出雲守継光(光信)がいて片岡城に拠り、その子に長兵衛がおり、子孫は山内家家老で高岡郡佐川の深尾出羽に仕えた。
出雲守継光の弟に紀伊守直季がおり、吾川郡上八川(現吾川郡いの町上八川)に居た。その子に八兵衛直正(直親)・直春・直賢がいたが、八兵衛の兄弟には右近(尾張守)・大炊助・二郎左衛門がいたとも伝え、これら通称がどの実名に対応するのか不明である。八兵衛は長曽我部信親に仕え、天正十四年(1586)に秀吉の九州征伐に従軍して、豊後戸次川の合戦で討死した。八兵衛の養嗣祐光は土佐郡本川郷の大藪紀伊守祐宗の孫であり、その七世孫が土佐郷士出身で明治期の政治家・実業家の片岡直輝・直温(大蔵大臣)兄弟である。
また、讃岐の金比羅社多聞院の片岡氏の祖・熊之助宥腥は光綱の孫(光政の子)とされる。一に八兵衛の子ともいうが、吾川郡徳光城主の片岡下総守の嫡男民部少輔の一子熊之助が、二代目の別当宥盛の弟子になり、一時帰国していたが寛永八年に金比羅に出て、多聞院を名乗ったと伝える。
さて、先祖の話に戻って、左衛門尉直常の父は、左衛門尉直兼とも左衛門尉直綱ともいうが、「直兼=直綱」として、応永三四年(1427)に卒去したという所伝は信頼してよさそうである。その父については諸説多く、三宮左近将監実綱とも直長(醍醐源氏説)とも近江の佐々木六角時信(宇多源氏説)ともいうが、宇多源氏説(東大史料編纂所所蔵の『土佐国諸氏系図』第十七冊所収の「片岡系図」)の佐々木六角は地域的に問題外として、室町前期に直綱に当たる者が他氏から片岡氏に養子に入った事情を示唆する。また、三宮左近将監実綱に属した片岡左近大夫直之・直嗣兄弟がいたと伝え、片岡氏の系図には左衛門尉直正・直次兄弟が見えるから、これらがそれぞれ対応するものか。 2 南北朝期以前の片岡氏と黒岩一族
南北朝期以前の片岡氏については史料に見えないが、現存する系譜史料からは、醍醐源氏説(『系譜と伝記』第三巻第二号所収の「片岡商工大臣家系図抄」)か甲斐国造族説しかない。このうちの前者が多く通行するもので、醍醐源氏の公家が武家となり、上野国片岡郡を経由して土佐に来たという系図であるが、これはまるで根拠がない。この関係の系譜は、通字で自然な名前の直之より前の部分は信頼できないということである。『尊卑分脈』の醍醐源氏系図でも、経季の次代・忠綱から後は見えない事情にある。中下級公家である源経季の父の盛保が上野国片岡郡を領して片岡を称したという所伝は、裏付けがなく、不自然でもある。 これらの諸事情からいって、片岡氏の系図は、醍醐源氏説も宇多源氏説も、ともに拠るべきものではないことが分かる。そこで、最後の甲斐国造族の系図を詳しく見ていくことにする。
甲斐国造から片岡氏が出たという系図は、鈴木真年編の『百家系図』(巻二六の壬生直、巻十七の片岡)に見える。この系図では、甲斐国造の倉毘古乃直を祖としており、その十一世孫にあたる巨摩郡人の壬生直益成が天慶六年に山城国愛宕郡に貫隷し、従五位下遠江介まで昇進して寛平八年(896)に六八歳で卒去したとされる。その孫が歌人として著名な壬生忠岑であり、その子がやはり歌人の忠見である。
忠見の子の忠弘は天延二年(974)に土佐少掾に任じたが、これが、壬生一族が土佐と縁をもった始めである。その子の壬生宿祢弘重が土佐権掾、以下は、その子の「土佐権介忠重−土佐介忠久−伊予大目忠敏−土佐掾忠儀」と壬生氏の歴代が続けて土佐の国司に任じたので、忠儀の子の右近将監忠節の子の左衛門少尉忠頼は、父祖の所縁で土佐下向となった。伊予大目忠敏は保元の乱の時に平清盛に属して軍功があったというから、鎌倉前期で源氏の世になって京に居づらくなった事情もあったのかもしれない。忠頼は高岡郡黒岩郷に住し、のちに片岡郷寺尾村に遷ったと記される。
高岡郡黒岩邑(現高岡郡佐川町黒原のうち)は仁淀川中流域の南側にあり、その北に隣接して同郡片岡邑があり、現在は高岡郡越知町の大字片岡となっている。ご質問の片岡様の先祖が居られた吾川郡仁淀川町は越知町の西北に隣接して位置しており、仁淀川の少し上流にあたるから、この地域に片岡氏の支城もあったというから、支流が居住したのも自然である。片岡氏は戦国期には高岡郡のみならす吾川郡も勢力下においた。すなわち、片岡氏は法巌城を本拠として、最盛期には吾川・高岡両郡を支配し、仁淀川上流の別府山五名・大川五名・小川八名の山間部から、越知・黒岩・佐川の盆地を経て加茂・北地の平野部まで千町歩におよぶ広大な領地を有していた、とのことである。
初祖の忠頼の子には木工允忠知、忠直、忠季、忠勝の四子があげられており、そのうち忠直が片岡三郎と号して片岡氏の祖となった。先に掲げた南北朝頃の直正・直次兄弟は、忠直の曾孫にあたる。
黒岩邑に残った者から黒岩氏が出たとみられるが、上記の忠直の兄弟のうち、誰がその先祖になったのかは記載がない。『南路志』の記事には、「黒岩石見守信安は、世に伝ふる片岡氏にて、姓は壬生と云ひ、その旧記に見ゆるは、永正七年に黒岩信安、文禄四年に壬生親光等あり」とあって、これが『姓氏家系大辞典』にも引かれる。
黒岩氏はその後、安芸郡に行って領主の安芸(安喜)氏に仕えたようで、安芸備後守国虎が長曽我部氏に滅ぼされたときに、その家臣の黒岩越前守は殉死した。その子の掃部(三右衛門)種直は長曽我部元親に仕えて、天正十年(1582)の阿波中富川合戦で討死した。種直の子・小三郎は香美郡山北村に移住したと伝える。明治の小説家に、『巌窟王』など名高い黒岩涙香がおり、高知県安芸郡の出身であった。
こうして見ていくと、片岡氏が壬生直姓だとする系図が妥当であることは明瞭である。
3 甲斐国造の系譜
甲斐国造の倉毘古乃直より前は不明かというと、必ずしもそうではない。倉毘古乃直はその子に小長谷直の祖となった御麻佐乃直があげられるから、五世紀後葉の雄略天皇朝頃の人とみられ、甲斐国造の祖・塩海宿祢の後裔であるが、その中間の世代も甲斐国造の系図からほぼ分かってくる。 先祖の塩海宿祢は、「国造本紀」に景行天皇朝に塩海足尼が甲斐国造に定められたと見える。その系譜は狭穂彦王(崇神天皇の兄弟と記紀に記されるが、これは系譜仮冒)の後裔と同書に記されるが、これは誤伝であって、実際には、天津彦根命の後裔となる近江の三上祝一族の分岐であった。
国造初代の塩海宿祢の後は、その子の「速彦宿祢(玉緒神を奉斎)−百襲彦−津留古−佐美−韓人」と「甲斐国造系図」(中田憲信編『諸系譜』第七冊所収)に見えており、この最後にあげる「韓人」が「倉毘古」にあたるのではないかとみている。世代的に同じ雄略天皇朝の人とみられること、音の「カラビト」が「クラビコ」に似てるという事情があることがあげられる。同人ではない場合には、兄弟くらいの近親関係にあるとしてよかろう。
壬生部は、『書紀』仁徳七年段に皇子の「大兄去来穂別皇子(後の履中天皇)」のために設置されたと見えており、津留古の代に壬生部に定められて、このため子孫が壬生直の姓氏を負うようになったとみられる。津留古の兄弟の伊志良の流れが甲斐国造本宗の甲斐君姓を負った事情とも、これは符合する。 以上のように見ていくと、土佐の片岡氏の長い歴史は、たいへん興味深いものといえそうである。
(2010.8.16 掲上)
(片岡様からの来信) 10.8.16受け
ふと気になったポイントがあり、再度ご連絡しております。 当家の家紋は土岐氏と同じ○に桔梗紋です。源氏系であれば 使用していてもあまり違和感がないのかも知れませんが、この家紋は関西東部から中部地方に掛けて分布しているようですから、なぜこの家紋を使用していたのかが大変疑問となります。 何か ご存知の点がありましたらご教示頂けないでしょうか?
(樹童からのお答え)
1 家紋は中世以降のもので、かつ、一つの家で複数を併用した例もあり、家系を考える場合に参考になる場合とそうではない場合とがあります。
2 沼田頼輔の大著『日本紋章学』に拠って考えると、土佐では桔梗紋は殆どない模様であり、桔梗紋自体も使用者が主に土岐一族に多いということですが、なぜ貴家におかれてこの紋を使用したのかという経緯が不明で、しかも何時の時点から使用したのかも不明ですので、見当がつきません。 ちなみに、一族とみられる安芸氏家臣の黒岩氏は、主家の家紋の橘を使用したとのことであり、同族ではないのに主家などの縁由で家紋を使用した場合があったことにご留意下さい。
(2010.8.18 掲上) |
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