□ 三菱財閥の岩崎家の祖先 (問い) 三菱財閥の岩崎家は甲斐の岩崎一族から出たと言われていますが、そもそも土佐にいた期間があって安芸氏に仕えていたという資料もあり、甲斐の岩崎が土佐に逃れてきたとしても時期的に合わないように思います。渦紋の三階菱も元々小笠原家のものと言われますし、同じ甲斐とはいえ微妙なものがあります。しかし、岩崎という苗字、三階菱という渦紋からやはり甲斐の氏族の可能性も十分考えられます。 さて、質問なのですが、 @甲斐岩崎一族の子孫
A甲斐小笠原氏から阿波小笠原氏となり、その子孫
B久米氏から、小笠原家と名乗ったもの
のうち、どれが可能性として高いと思われますでしょうか。
この問題について、すっきりと解決出来る答えが見つけられないできました。可能性、推測だけでも結構ですが、お答えいただけますでしょうか。
図書館など問い合わせをして調べた結果、菩提寺により岩崎弥太郎の九代前までは遡る事が出来るのはわかりました。しかし、甲斐岩崎一族が土佐に移った時期がわからず、それがわかればだいたいの検討がつくと思うのですが。
調べによると岩崎家には信憑性のある家系図等が残されておらず、ただ家紋が残されているのみで、ますます疑わしいばかりです。
久米氏が伊予から阿波に移り、それが小笠原一族と名乗ったということ、そして岩崎家もその家系かも知れないということ、これについての見解は現在も可能性としては十分考えられることなのでしょうか。
(evta様より 09.11.17など) |
(樹童からのお答え) 1 はじめに
この問題については、いままであまり関心がなかったのですが、ご質問を受けて調べてみましたら、岩崎弥太郎の家系について、江戸前期より前の時期については、検討のうえできちんとした見解を示したものが、確かに見当たりません。岩崎弥太郎・弥之助兄弟については、その伝記類がかなり多くありますが、どの書でも、中世までの部分については家伝を記すだけで、具体的な系図の分析をしておりません。その系図についておそらく最も詳しい記事があるのが、『岩崎彌太郎伝』(そのうちの上巻。1967年刊)ですが、基本的には、家伝では甲斐の武田一族岩崎氏の流れということであり、岩崎四郎長隆が阿波に遷り、その子孫の岩崎信寛のときに土佐に遷って安芸氏に仕え、その滅亡で長宗我部氏の家臣となり、山内氏の土佐入部で郷士さらには浪人となって明治の岩崎彌太郎(以下、「彌」は「弥」で記す)に及んだというものです。
これでは、系図分析にはならないので、いま検討した結果を以下に試論として記してみました。ただし、江戸期になって以降は私の関心が低くなりますし、『岩崎彌太郎伝』などでもかなり検討がなされているので、ここでは、中世及び江戸前期までの検討が中心です。
ご質問に対して、結論を先にいいますと、清和源氏とは無関係であって、おそらく四国古族の流れであり、その系図にも見えるように、阿波山奥の祖谷山に居住した土豪・菅生(すげおい)一族の流れが岩崎弥太郎の先祖だと思われます。(以下は、である体で記します)
2 土佐岩崎氏の系図について知られる事情
土佐井ノ口(現安芸市)の岩崎氏の系図について、これまでまともな調査・分析がないのは、具体的な史料を研究家が認識していなかったからと思われる。その事情は、入交好脩(よしなが)著の人物叢書『岩崎弥太郎』(吉川弘文館、1960刊)に次の趣旨が示される。
@正確な岩崎家系図は、弥太郎の先代・岩崎弥次郎を初代とする幕末期以降しかない。
A最も信憑性のある系図として、明治三十年代に編修されたと伝えられる『岩崎家系図』があるが、これが門外不出となっている。
このため、岩崎家伝記刊行会(代表者:脇村義太郎)が編纂した『岩崎彌太郎伝』『岩崎彌之助伝』でも、『岩崎家系図』に若干の言及があるものの、江戸前期の初代弥兵衛以降の記述にとどまり、それより前の具体的な先祖歴代の系図の提示がなかったということになる。前者の弥太郎伝では、その先祖について次のように記され、これが岩崎氏の系譜について知られるものの全てである。
「鎌倉時代の初め、武田信光の子、七郎信隆が甲斐国山梨郡岩崎村(後ちの東八代郡)に拠り岩崎姓を名乗ったことが、尊卑分脈、武田氏系図等に見える。今日の岩崎家の所伝によれば、岩崎信隆の子四郎長隆なる者が阿波国板野郡吉田に居住したが、子孫岩崎信寛の時、土佐国に移住し、安芸の城主安芸忠国に仕へた。永禄十二年安芸氏は長宗我部元親に滅ぼされた。信寛の孫信名はこの時長宗我部氏に降り、爾来その家臣になったのであるといふ。」
これにすぐ続けて、「家伝の史的信憑性はしばらく措き」と文章が続くことが、江戸前期までの部分について、当該書では中世の系図調査をしっかりしていないことの裏付けにもなる。
それでは、岩崎氏の系図についてなんら手がかりがないかというと、そこはよくしたもので、明治期の系図研究家がきちんと記録を残しているのだが、いわゆる学究連中は、系図研究を知らないか無視しているため、いままで明らかになってこなかった。実は、こうした古族の系図は、『古代氏族系譜集成』でもずいぶん提示されたが、同書が名前の通り古代氏族の系譜を中心に掲載し、大姓である源平藤の諸武家については、古代氏族に関係ある範囲で編著者が気づいた留意個所のみをあげたため、そこにも岩崎氏が登場しなかった事情にある。だから、土佐の岩崎氏の出自について、はじめて取り上げたのが本考の調査・分析ということになると思われる。
なお、岩崎両家(嫡家の久弥と弥之助家)は明治二九年に男爵に列したから、他の華族諸家と同様、その後に宮内省に家系図を提出したことも考えられ(おそらくこれが、『岩崎家系図』編纂の動機か)、宮内庁書陵部に提出された岩崎家系図が残されている可能性もある。
前書きはこれくらいにして、以下に具体的に岩崎弥太郎につながる土佐岩崎氏の系図を見ていこう。
3 「岩崎家系譜」の編纂
明治期の系図研究家としては、鈴木真年が第一にあげられるが、明治二七年に享年六四歳で死去しており、次に考えられる中田憲信は、明治四三年(享年七六歳)まで存命である。そこで、中田憲信の編著作を調べてみると案の定、国会図書館所蔵の『各家系譜』第三冊に「岩崎家系譜」が九〇葉(表紙部分を除いた数字)にわたり所収されている。『岩崎家系図』の編纂が明治三十年代だとすると、明治二九年に中田憲信が甲府地裁所長を退官してからのことであるし、鈴木真年関係の系図史料には岩崎氏は近江の岩崎氏しか見えないから、おそらく中田憲信が同系譜の編纂に直接関与した可能性が大きい。
同系譜は、清和天皇に始まり、明治期の弥太郎・弥之助兄弟の諸子の世代まで記載されるが、鎌倉前期に岩崎氏が始まるまでの部分は、編纂者が武田一族の系図を前の方にもってきて、岩崎家に伝わる系図所伝に接ぎ木したことが窺われる。この前半部分(第三八葉まで)の系図記事をみる限り、そうした内容を盛り込むことができるのは、当時の系譜編纂者としては中田憲信しかいなかったと思われる。
同系譜の内容は、以下に具体的に概要を示すことにする。その主要な点は、『岩崎彌太郎伝』に見える記事と符合しているが、両者の大きな差異としての留意点は、阿波祖谷山の菅生氏を経由して土佐岩崎氏になっていることである。
4 「岩崎家系譜」の具体的検討
(1) まず、「岩崎家系譜」(以下、たんに「家譜」と記す)の主要な記事を紹介する。
家祖とされる岩崎七郎信隆までの部分は、『尊卑分脈』(以下、『分脈』とする)などの系譜と基本的に同じであるので、ここでは省略する。岩崎氏は、武田信光の子の信隆が甲斐国山梨郡岩崎村(現甲州市勝沼町の上・下岩崎一帯)に住んで起こったことは、異説がないが、信隆について「正嘉二年(1258)戊午正月十一日卒」と記事がある。
岩崎七郎信隆の子としては、「家譜」では、政隆(一宮七郎太郎)、時隆(武田七郎次郎)、信賢(上條七郎三郎)、貞隆(岩崎五郎)、実隆(窪田別当)の五人があげられ、阿波の岩崎氏はこの貞隆から始まることになる。
岩崎五郎貞隆の子としては、経隆(岩崎又五郎)、頼隆(岩崎三郎)、長隆(岩崎四郎)があげられ、長隆は阿波国板野郡吉田村に居住した。岩崎四郎長隆の子としては、長親(小四郎、岩崎右馬助)、胤信(弥四郎、岩崎左兵衛尉)の二人をあげ、長親は美馬郡の重清氏の祖となり、胤信は同郡の菅生氏の祖となった。
胤信の子には、氏信(菅生次郎左衛門尉)、頼氏(菅生四郎左衛門尉)、女子(福良内蔵助朝章室)、兼氏(菅生大炊助)がいた。菅生四郎左衛門尉頼氏の子、「四郎兵衛尉長信−四郎兵衛尉惟信−主膳兵衛尉頼信−信陣」と菅生氏として続いていて、文明十七年(1485)に卒した信陣のときに岩崎源左衛門尉を名乗り(これ以前でも、一族に岩崎の名乗りが見えるが、事情が不明)、その子の岩崎又左衛門尉信寛のときに土佐国安芸郡に入り安芸城主の安芸山城守忠国に仕えたが、享禄四年(1531)に卒した。これが、土佐岩崎氏の始まりであるとして記される。
岩崎又左衛門尉信寛の子の弥二郎左衛門尉信超、その子・弥兵衛尉信名と続くが、信名のときに主君の安芸氏が長曽我部元親に降った(注:永禄十二年〔1569〕のこと)。弥兵衛尉信名の子、新兵衛尉信懐、その子・弥二郎信定までは実名が記されるが、その後の歴代はほとんど全てが通称だけで続けられる。弥二郎信定は江戸時代前期の人であるが、「家譜」には信懐が元亀二年(1571)生れで山内一豊公入部の時に郷士となり安芸郡井之口村のうちの一宮に住み、信定が慶長五年(1600)生れと書込みがある。
弥二郎信定の子以下では、「家譜」の記載が二本あり、その子の「@弥二右衛門(後に弥兵衛と改)−A弥五右衛門−B弥兵衛(伝次右衛門、後に弥兵衛と改。この位置に藤蔵をおく一本あり)−C伝次右衛門−D嘉右衛門−E(養子)弥次右衛門成義−F弥三郎−G弥二郎−H弥太郎」とに記される。一方、『岩崎彌太郎伝』では、歴代について、菩提寺の過去帳などから、元禄時代に生き宝永元年(1704)に七七歳で没した弥兵衛を初代@として、以下を「A弥五右衛門−B藤蔵−C(養子)伝次右衛門−D嘉右衛門−E(養子)弥次右衛門−F弥三郎−G弥二郎−H弥太郎」とされるから、C伝次右衛門以降はまったく共通となっているし、B以前では「家譜」二本のうちの一本をとって『彌太郎伝』に記されるが、ほぼ同内容といってよかろう。両者の差異は、B藤蔵が「家譜」では弥兵衛の弟で別家の祖とされ、A弥五右衛門は弥兵衛の父とされる。藤蔵はいずれにせよ、弥五右衛門の子であり、弥兵衛を名乗る者は後に改名した者があって、複数いたというところか。
(2)
以上の「家譜」の要点について、とりあえずの疑問点や感触・検討は次のようなものである。岩崎氏系図については、いろいろと問題点があることが分かると思われる。
a 大きな問題は、阿波岩崎氏の祖とされる岩崎五郎貞隆が、甲斐の岩崎七郎信隆の子かどうかという点である。系譜の仮冒の問題は、総じてその出自をめぐってのことであり、従って、苗字が発生した初期段階で問題が起きることが多く、これは本件でも当てはまりそうでもある。
b 阿波の岩崎氏が、かりに甲斐の岩崎氏との系譜的つながりがなかったとした場合には、何に因んで岩崎と名乗ったのかという疑問も生じる。阿波には、現在も昔も、岩崎の地名が見られないからである。この事情は伊予(松山市の岩崎町は起源が新しい)でも土佐でも同様であった。
c 土佐国安芸郡に入ったという岩崎又左衛門尉信寛については、母が安芸山城守勝忠の娘という事情が記されるから、それが事実なら、母縁に因って土佐へ移遷したということになる。ただ、「安芸山城守勝忠」なる者は土佐安芸氏の系図(東大史料編纂所蔵『安芸系図』、安芸実輝氏原蔵など)には見えないので、こうした母縁には疑問もある。岩崎信寛が仕えたという安芸城主安芸山城守忠国についても、忠国という名の安芸城主は見えず、年代的には「山城守元泰」(滅亡時の安芸国虎の父)にあたるものか、と当初は考えた。
ところが、中田憲信が編纂した『諸系譜』のなかで阿波関係諸家の文書を収める巻19を見たところ、とんでもないことに気づいた。そこには、名東郡の上佐那河内村(現徳島県名東郡佐那河内村)の「安芸曽八良系図」が記載されており、同系図の末尾に近い部分に「山城守勝忠−山城守忠国−備後守国宗−備後守国虎−修理亮山城守宗忠」と見えるのである。佐那河内村は徳島県中東部に位置し、東流する園瀬川の上流部にあって、現在、佐那河内村上字奥野々に安芸家の民家がある。
同系図は土佐国安芸郡ではなく、阿波国名東郡の佐那河内城にあった安芸氏支流の家の系図であって、備後守国虎の名は安芸郡本宗のほうからの混入とみられる。山城守宗忠については、天正十八年(1590)の記事がつけられるから、戦国末期の人としられる。名東郡の佐那河内は、祖谷山の菅生から国道四三九号線を東に向かい、木屋平村・神山町を経て進めば一本道で達する地であり、菅生の東北方約五十キロの地である。そこに居住する安芸氏と通婚したり、遷住して従属したりすることは十分にありうる話である。
この地の安芸氏は、土佐の安芸城が永禄十二年(1569)に落城した後に落ちてきた一族の子孫という所伝もあるようだが、元亀四年(1573)の奥書のある『故城記』には、「以西郡分、安芸殿、橘氏」と見え、『古城諸将記』にも「佐那河内 安芸左京亮、蘇我氏、紋古文字本ノ字、百貫」と見えるから、安芸郡の支流が既に戦国期には在ったことは確かである。
そうすると、弥太郎の先祖は何時、いかなる経緯で土佐国安芸郡に移ったのかがまるで分からなくなってしまった。祖谷山からいったん佐那河内へ行って、そこから土佐国安芸郡に行ったのだろうか。
d 長曽我部元親の時代(天正15〜18年頃)に作成された「天正地検帳」の記載には、安芸郡井ノ口村で土地を給付された者のなかに岩崎氏の名前が見えない事情にある。ただ、井ノ口村・一宮村の項には「岩崎分」の記事も見えるから、この辺りに岩崎氏があったことは認めてよかろう。ともあれ、元禄頃には井ノ口村に岩崎氏が居住していたことは確かなようである。
安芸郡岩崎氏は、安芸郡奈半利の岩崎五兵衛を元祖とすべしという見解もある(『土佐名家系譜』の著者寺石正路)。天正検地の頃には、安芸郡甲浦や香美郡の給人にも岩崎氏が見えるが、これらの岩崎氏諸家と弥太郎家の先祖との関係も不明である。「家譜」では、岩崎信懐以降が井ノ口村一宮に住んだことが見えるが、信懐の兄弟や父祖が土佐のどの地に住んだのかについての記事がない。寺石正路のいう岩崎五兵衛が弥兵衛尉信名に当たるものかについては、「家譜」からみる限り、否定的に考えられる。
ともあれ、土佐の岩崎氏はどの地のものもあまり顕著な存在だったとはいえないから、安芸氏家臣団のなかでも上級のほうの武士であったとはみられず、その意味でも母縁により土佐遷住したという所伝には疑問がある。
e 信寛の弟の岩崎新右衛門尉信命は阿波に残って三好長輝・元長に仕え、その子の信位も三好長慶に仕えたと「家譜」に見えるから、信命の系統は阿波に残ったことがしられる。また、信名には弟・有信、信名の子(「家譜」に見える生没年代からいうと孫か)の信懐には兄として淳信・信将がいたというから、土佐でも岩崎氏が幾つかの流れが生じたことも考えられる。阿波の岩崎氏については、阿波の有力諸家が出てくる『阿波国古文書』にも見えず、城持ちの有力土豪でもなかった。「家譜」には、徳島藩の蜂須賀忠英や筑前の黒田忠之に仕えた岩崎一族の者がいると伝えるが、徳島藩・福岡藩の家臣団のなかに見えるのだろうか。
f 江戸初期の弥二郎信定の子孫については、所伝に多少の相違があるものの、あまり問題がないとしてもよかろう。上記では簡略して記したが、弥太郎の家は宗家であって、分家の記載も見え、分家から時々養嗣が入っていることも「家譜」に見える。
5 岩崎五郎貞隆の位置づけ
「家譜」の最大の問題点が阿波岩崎氏の祖とされる岩崎五郎貞隆なる者の位置づけということになったので、これについて検討を加える。
岩崎七郎信隆は、『東鑑』寛元二年(1244)正月五日条に「武田七郎」として見えており、その子としては、「家譜」では、政隆(一宮七郎太郎)、時隆(武田七郎次郎)、信賢(上條七郎三郎)、貞隆(岩崎五郎)、実隆(窪田別当)の五人をあげるに対して、『尊卑分脈』のほうは、政隆(号岩崎、武田七郎)、時隆(中条七郎次郎)、信方(七郎三郎)、貞経(岩崎五郎)の四人をあげる。実隆(窪田別当)の名は『分脈』に見えないが、これはあまり重く考えなくともよい。要は、同じ「岩崎五郎」と見える貞隆と貞経とが同じ人物なのかということである。
「岩崎五郎貞隆」については、「家譜」には文永四年(1267)二月に同族の小笠原左兵衛尉長房と相倶に平家の残党平盛隆を三好郡岩倉に攻め、その功績で阿波国美馬郡重清の地を賜り、弘安三年(1280)に卒したと見える。この貞隆のときに阿波に来たということであるが、『分脈』には岩崎五郎貞経にはこうした阿波関係の記事がなんら見えず、その子に岩崎弥五郎信経をあげるのみである。「家譜」には、貞隆の子としては、経隆(岩崎又五郎)、頼隆(岩崎三郎)、長隆(岩崎四郎)があげられており、又五郎経隆が弥五郎信経に対応しそうでもあるが、実はほかの武田一族を見ると、そうでないことが分かる。
すなわち、岩崎七郎信隆の弟・武田十郎光信について、『分脈』には「岩崎、依為嫡子譲得武田屋敷」と見え、「家譜」にも、武田十郎光継をあげて、「初光信、居巨摩郡円井村」として、その子に円井五郎貞経を記すし、他の武田系図には円井五郎貞経の子に弥五郎信経をあげるのもある。これで、「円井五郎貞経=岩崎五郎貞経」ということであり、五郎貞経は甲斐の円井村に在って阿波には来ていないことになる。「岩崎五郎貞隆」なる者の実在性は確認できないということでもあるし、『弥太郎伝』でも貞隆は無視されており、阿波の岩崎氏と甲斐の岩崎氏とのつながりが認めがたいということでもある。
鎌倉期の阿波の地頭として史料に見えるものとして、『角川日本地名大辞典』の総説では守護小笠原氏のほか、富吉荘の漆原氏、板西下荘の小早川氏など具体的に名をあげるなかに岩崎氏ないし武田氏の名前は見えない。戦国期には美馬郡貞光の谷口城に拠った武田三郎重成という名も見え、『古城諸将記』には武田割菱を使う氏も僅かながら見えるが、実際に甲斐武田の流れなのかは確認できない。
さてそれでは次に、岩崎五郎貞隆の子とされる四郎長隆から以後なら、「家譜」が信頼できるのだろうか。先祖の長隆が阿波国板野郡吉田村(旧・土成町吉田、現・阿波市)に居たという所伝は、「家譜」にも『岩崎彌太郎伝』にも見えるが、これは確かなのかという問題である。「家譜」では、岩崎四郎長隆の子として、長親(小四郎、岩崎右馬助)、胤信(弥四郎、岩崎左兵衛尉)の二人をあげ、両人の子孫は同国美馬郡に分かれて、長親は重清氏の祖となり、胤信は菅生氏の祖となったと記される。
阿波では、重清氏も菅生氏も戦国末期まで続く著名な土豪で、ともに小笠原一族の流れと称したことがしられるから、この意味でも、祖におかれる四郎長隆が武田一族の岩崎氏から出たことが疑問となる。「長隆」という名前は鎌倉期の阿波小笠原氏の命名に通じそうなところもあるが、小笠原一族にはそうした名前は見えないし、また当時の三好氏は「義」を通字としていたようなので、長隆が菅生氏の先祖だったとしても、それより先の系譜は具体的に遡及しがたい。
重清氏は美馬郡重清村(現美馬市美馬町の沿岸部。半田町の吉野川対岸の地域)に起こり、初祖を長親とすることが多い。その系は小笠原一族から出たと伝えるが、長親の位置づけについては諸説多く、管見に入ったところでは、長親の父については、小笠原長経の孫あるいは曾孫の重清長宗としたり、阿波小笠原一族の祖・長房(あるいはその子)としたり、一宮長宗の子孫としたりで、マチマチである。長親以降は系譜が定まり、その子「長則−長勝−長連−長英(応仁文明時)−長行−長政」(「家譜」には長勝まであげる)として、重清豊後守長政のときまで、吉野川中流平野部を押さえる拠点・重清城(美馬市美馬町城)に拠った。ところが、天正六年(1578)には重清氏が十河存保に与することで、大西上野介(三好郡白地城主大西覚養の弟で、七郎兵衛)によって長政が謀殺され落城した。城趾内には城主を祭る小笠原神社が鎮座し、この周辺には子孫と名乗る小笠原姓が多いという。
諸伝からいっても、重清長親の活動したのが南北朝初期、建武の頃だとみられるから、長親を阿波小笠原一族の系図のどこに位置づけても疑問がある。それでも、重清氏が小笠原氏とも名乗ったのは、系譜仮冒に因ってのことだとみられる。だから、「家譜」に長隆の子として長親が置かれるほうが、まだ自然なのかもしれない。「家譜」では貞隆が重清の地を賜ったと伝えるから、重清ははじめからこの一族に縁由の深い地であった。
6 菅生氏の歴史と系譜
美馬郡重清村から南方約二十キロの奥深い山間地に位置するのが、美馬郡東祖谷山の祖山郷菅生名であった。現在は三好市東祖谷菅生(旧東祖谷山村の東端部)となる剣山西麓の山奥の地で、剣山から発して西へ流れる祖谷川(吉野川上流)の最上流域にあたる。祖谷川流域には南北朝時代に菅生、小野寺(喜多)、渡辺、小川、落合、得善(徳善、国藤)、西山などの「阿波山岳武士」が割拠し、阿波小笠原氏の宮内大輔(左馬権頭)頼清を中心とする勢力の一員として南朝方についておおいに活動する。
暦応四年(1341)を初見とする祖谷山文書を見るかぎりでは、挙兵から三十余年、天嶮を利した長い抵抗を経て、東西祖谷山とも次第に北朝の細川氏に属していった。菅生氏については、正平五年(1350)七月に先鋒として菅生左兵衛尉が挙兵したものの(『阿波国徴古雑抄』所収の小川文書など)、康暦三年(1381)正月に至って文書に北朝年号が使われており、最後まで抵抗した菅生氏もこの頃には北朝方に属したことがわかる。永徳元年(1381)に守護細川義之から所領を預けられて細川氏に降り、これで阿波の南北朝の争乱が終わったとされる。
菅生氏は祖谷山のなかでも代表的な武家であって、室町期には阿波守護細川氏に従い、戦国期は東十二名のなかに数えられ、近世初頭の天正一揆・刀狩り強訴を経て、蜂須賀氏が徳島藩主として入部しても生き残ったのは、菅生・久保・西山・阿佐の四氏となる。名主として続いた菅生家には、「菅生文書」十三通と三階菱に「八幡大菩薩」と墨書した軍旗一流が伝えられ(東大史料編纂所にも菅生新九郎原蔵の文書謄写本があり、『諸系譜』第二三冊にも所収)、ともに県指定文化財に指定されている。市原本『祖谷山旧記』によれば、高四七石余で名主の菅生四郎兵衛が知行したことが記される。
「菅生文書」は正平五年(1350)から同十七年(1562)にかけての文書が六通ほどあり、山岳武士の兵粮所として金丸荘(三好郡の旧三加茂町〔現東みよし町〕)・八田山(美馬郡のほぼ旧半田町域、現つるぎ町)・光富保国衙領(旧板野郡藍住町東中富、現阿波市)などの地が菅生二郎左兵衛尉、菅生四郎左衛門尉、菅生四郎兵衛などに対して宛われている。祖谷山と半田辺りとがつながる関係はまだある。東祖谷山では木地師が多く、ロクロで椀・盆・鉢などを作り、これを美馬郡半田へ移送して漆塗りをして製品に仕上げることが近年まで続いていた事情もある。
重清氏の苗字の地・重清村は中世の八田山、現半田の対岸であり、重清地頭職八分の一も山岳武士の西山兵庫助に兵粮料所として宛行われた事情もある。こうした事情だから、重清氏と菅生氏とが同族関係にあったとしても不自然ではない。重清小四郎長親と菅生弥四郎胤信とは、活動年代が南北朝初期で共通であるが、当時の命名法からいえば、両者が兄弟であったとすることは、やや不自然な感もある。ともあれ、重清村の総鎮守が八幡神社であり、菅生にも菅生八幡宮があって、菅生氏にも八幡大菩薩の軍旗が伝わる事情もあって、重清・菅生両氏が同族関係にあったとするのには問題が少ないと思われる。
東祖谷山の菅生新九郎家所蔵の古文書には、小笠原孫治郎長房が文治建久の頃に阿波国守護職となり阿波に居住して、その末流の菅生大炊助が祖谷山に引き籠り居住したとして、具体的な系図は示さない。それが「家譜」には、具体的に南北朝期の人とみられる菅生胤信から始まる系図が示されている。正平七年(1352)に卒した胤信の長子・次郎左衛門尉氏信の系統は、子の主膳兵衛尉賢信、その子の小太郎左衛門尉昌信まで見えており、胤信の次子・四郎左衛門尉頼氏の系統は、その子の「四郎兵衛尉長信−四郎兵衛尉惟信−二郎兵衛尉長健(その弟に岩崎氏の祖の主膳兵衛尉頼信)−内匠助信長」が見え、胤信の三子・大炊助兼氏の系統は子の弥左衛門尉長逵まであげられる(以上のうち、傍系は一部省略して記)。
これら菅生一族のうち、「菅生文書」等に見えるのが、正平五年七月の菅生二郎左兵衛尉(胤信に当たるか)、同十五年六月の源信親とその譲渡先の菅生二郎兵衛尉、正平十一年九月の菅生四郎左衛門尉と同十五年六月の菅生四郎兵衛尉(両者が同人で頼氏か)、正平十二年正月の宮内大輔安堵状に胤信の譲状の旨に任せて菅生次郎兵衛尉に預けおく、とある。さらに正平廿二年(1367)十二月には征西府から多年の軍忠を賞された菅生大炊助(兼氏に当たるか)も見える。
これら文書には、実名として見える菅生一族は胤信と源信親の二人だけであり、菅生氏が当時、源姓を称していたこともしられる。胤信は上記の「菅生二郎左兵衛尉」にあたると考えられるから、「家譜」の記す「弥四郎」という通称には疑問があり、源信親は胤信の兄弟に位置づけるのが妥当か。そうすると、菅生氏については、胤信より前は知られないということにもなる。源信親の去状に見える「坂根堂」は、八田山のなかで旧半田町域には字坂根の地名が残るから、祖谷山と半田の地域関係がここでも示されている。
『徳島県史』では、「菅生左兵衛尉、その子次郎兵衛尉・四郎兵衛尉・孫大炊助に至るまで南朝に尽した家柄である」と整理するが、この菅生一族の具体的な系譜は唯一「家譜」にのみ記されており、これが岩崎家に伝えられたということでその価値も知られる。「家譜」には菅生一族が室町期に仕えた細川氏一族の名前も見える。
7 菅生・岩崎氏の先祖
こうした菅生氏から岩崎氏が出たとされるから、岩崎の苗字の地が祖谷山あたりにあったことも考えられるが、いまそうした地名は見当たらない。
祖谷山あたりでは、ほかに西祖谷山村有瀬名の有瀬氏や、南に近隣する土佐国長岡郡豊永郷(現長岡郡大豊町)の豊永氏が小笠原一族の出だと称し、実際に小笠原とも号した。有瀬氏は、一宮宮内少輔成春の弟・左兵衛家貞(貞成。一宮左兵衛ともいう)の嫡男・左兵衛佐成次が祖谷山有瀬名を領して、有瀬氏を称したというから、「成」を通字とする阿波古族の田口氏の後裔で以西郡一宮城主(徳島市一宮町)の一宮氏一族の出だとわかる。豊永氏のほうは、系図(原本は高知県立図書館所蔵)は『大豊町史』に所載されており、小笠原とも号したが、実際には三好氏と同族ではないかとみられる。
以上の諸事情から見れば、菅生氏が小笠原一族の出だと称しても、実際には清和源氏ではない別族の出ということが考えられる。その先祖の可能性を考えてみると、祖谷山及びその周辺・近在の住人としては、三好・久米氏と同様に伊予から来たらしい小野寺(喜多)・豊永氏があり、阿波忌部と同族の木屋平(松家)・三木氏が種野山におり、田口氏同族とみられる上記の有瀬氏があり、桓武平氏で平家一族の落人出身と称する阿佐・久保氏があり、播磨・讃岐の古族佐伯氏の後裔も祖谷山に居た。平安後期の寛治四年(1090)十月九日付けの某郡(阿波国三好郡)の郡司解には、忌部・播磨・佐伯・宗我部が郡司層を形成していたことが見える。土佐国豊永郷の豊楽寺知識には、八木・佐伯・宗我部・紀・秦などの諸姓も見える。
このように系譜の異なる諸氏が祖谷山に混在していたことが知られるから、菅生氏の実際の出自がどれとは決めがたい。三好・豊永氏が清和源氏小笠原一族と称していたことを考えると、久米氏族という線が一応考えられるが。
ただ、もう一つの可能性も浮上してきた。それは、ロクロを扱う木地師が古代の鴨族後裔とみられることである。三加茂町・半田町の一帯には、加茂・葛城の地名があり、加茂には式内社の鴨神社(祭神は別雷神)もあるから、当地に古代から鴨族の居住が知られる。讃岐には阿野郡・寒川郡にそれぞれ鴨部郷があり、式内社の鴨神社があり、阿波では阿波郡の人として平城京出土木簡に「鴨部真弓」の名も見える。『故城記』には那西郡に「賀茂殿、源氏、カトスハマ鱗」と見えている。名東郡に加茂名村(現徳島市)、名西村に加茂野村(現石井町)、三好郡三野町に加茂野宮という地名もある。正平十一年(1356)文書には、「ろくろしの内下名分」が徳善治部亮に宛行われたことが見えるが、西祖谷山村の西岡名を「ろくろし」というとされるから、東西の祖谷山地域にロクロ師が存在したことが分かる。
三好郡の加茂から加茂谷川を遡る形で徳島県道44号で南下すれば、桟敷峠・落合峠を経て菅生に至るという道路事情もある。往時でも、半田村から小島峠を越えて祖谷山に至る山道(祖谷街道)が通じており、京柱峠を経て土佐(豊永村方面)に抜けた。
菅生には剣神社もあり、これは天孫族の剣神天目一箇命(鴨族の傍系祖神)とか忌部につながりそうでもある。以上の事情から、上古代に吉備地方あたりから瀬戸内海を経て讃岐に渡ってきて、さらに阿波の山地に分け入った鴨族(ないしその同族)の後裔が菅生氏ではなかったか、とみられる。その一方、三好長輝の六男と称する久米義広が天文十八年(1549)に予州久米より来て加茂郷を領し宮西の鴨城に居たが、同二一年には名東郡芝原(現徳島市)に移ったという所伝があるという(『三加茂町史』)。ここで、またまた三好・久米氏の影がちらついてくる。
岩崎氏の家紋である三階菱については、菅生氏が共有するものであるが、阿波の小笠原一族と称する諸氏においては、三階菱・松皮菱の家紋をもつものがきわめて多い。『古城諸将記』を見ると、全体88氏のうち26氏がこれら菱紋であり、『城跡記』でも全体46氏のうち11氏が三階菱紋であった。このように、「紋章分布上阿波は三階菱の分野が形成されている」と沼田頼輔博士が指摘する(『日本紋章学』)。戦国期では、岩倉城の三好徳太郎(三好笑岩入道の長子で、式部少輔康俊のこと)が三階菱紋、高畠(下六条城)の三好何右衛門が松皮菱紋、重清城の重清豊後守長政が松皮菱二双、一宮城の一宮長門守成祐が松皮菱雲紋、勝浦郡の森城及び名東郡寺島城の福良氏も源氏と称して三階菱紋を用いたといわれる。沼田博士は、吉野川の源が土佐に発しているので、「三階菱の紋は、吉野川流域を伝わって土佐にはいったのである」とも言われる。
武田氏は割菱(武田菱)を用いたから、全国的に三階菱を用いた小笠原氏の流れだと岩崎家が主張した事情もうかがわれる。
8 一応のまとめ
以上の諸事情を考慮すれば、岩崎家の先祖が阿波西部の山間地にあって清和源氏を称し、戦国時代後・末期頃に祖谷山から佐那河内を経て土佐に入ったことになる。それ以前から岩崎氏が土佐にあったとすれば、「家譜」自体が信憑性を失うことになるが、ここでは、「家譜」の記載をもとに、それがある程度参考になるという意識で検討してみたところであり、土佐岩崎氏の淵源探究のためにはさらなる資料が望まれるところである。
(09.11.23 掲上)
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<岩崎様からの来信の要旨> 2015.4.24受け 貴HPの http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/iwasaki1.htm を読み、その中の、黒田忠之に仕えた岩崎氏がいるという記述に驚きました。
我が家は黒田藩の黒崎という宿場町で、寛永年間から関番所を黒田藩士として明治に至るまで任せられてきたと伝えられています。このことは、『遠賀郡史』などにたくさん記載があります。禄高は50石5人扶持と書かれた資料を読んだことがあります。家紋は三階菱ではなくて松川菱です。この家紋は先祖の墓に見ることができます。 関番所ができたのが、寛永年間に豊前に細川の代わりに小笠原がきたことが契機だという郷土史家の研究もありました。黒田と小笠原の対立もあったようです。森鴎外の「栗山大全」にもその様子が描かれました。我が家の一番古い記録に残っている先祖は岩崎茂蔵は、寛永年間に造られた寺に残る過去帳に寛文3年に没したと記されています。
岩崎弥太郎と我が家の家紋が似ていることに驚いたことがあり、私の近親にも土佐や三菱などの関係もあって、こうした巡り合わせにも驚いております。
<樹堂からの情報> 黒田家に仕えた岩崎氏一族 1 当該HP記事では、「弥兵衛尉信名の子、新兵衛尉信懐、その子・弥二郎信定までは実名が記されるが、その後の歴代はほとんど全てが通称だけで続けられる。弥二郎信定は江戸時代前期の人であるが、「家譜」には信懐が元亀二年(1571)生れで山内一豊公入部の時に郷士となり安芸郡井之口村のうちの一宮に住み、信定が慶長五年(1600)生れと書込みがある。」に関係します。 2 長曽我部元親に仕えた弥兵衛尉信名の二男(新兵衛尉信懐の兄)に孫兵衛尉信将がおり、その子の武田孫太郎信欽の弟、信国(孫二郎、岩崎孫左衛門尉)に「仕筑前黒田家松平筑前守忠之朝臣」と「岩崎家家譜」に見え、信国の子孫は記載がありません。黒田忠之は、1602生〜1654没であり、
新兵衛尉信懐は1571年生で、その子・弥二郎信定が1600年生であり、信定の従兄弟が信国ですから、主君黒田忠之の生存年代とも相応します。
寛永年間は1624〜1644年ですから信国の活動期間と思われ、寛文3年(1663)に没したという岩崎茂蔵なる方は、信国かその子に当たるのではないかと推定されます。「茂蔵」の生年が知られれば、この関係が分かると思われますが。
3 「岩崎家家譜」は、中田憲信編著の『各家系譜』第三冊に所収され、国立国会図書館の古典籍室で閲覧・コピーができます。
(2015.4.25 掲上)
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