幕藩大名脇坂氏の祖先系譜

(問い) 賤ヶ岳の七本槍として知られた脇坂安治に始まる武家華族脇坂氏ですが、他のホームページを見ていると、脇坂氏は定紋の「輪違い紋」を秀吉から賜る前は「桔梗紋」を用いていたとありました。
 しかし、江戸初期に『寛永諸家系図伝』が編纂された際には、安治の父・安明以前は不明としながらも藤原氏が本姓であると届け出をしており、明治の華族類別にも神別藤原朝臣として登録されていたようです。
 安治自身は佐々木一族を称する田付氏からの養子だったことや、桔梗紋を用いていることが伝わっているのにも関わらず、なぜ近江源氏でもなく土岐一族でもなく藤原氏をもって遠祖としたのかがよくわかりません。何かお気づきの点があればご教授願います。

  (宗次郎様より、09.9.10受け)
 

 (樹童からのお答え)

 幕藩大名家脇坂氏の系譜はかなり複雑であり、室町中期頃からいくつかの養猶子関係が絡み合っていて、端的には言いがたいのですが、「脇坂氏」という父系の流れは、江北に古来あった物部系浅井一族の支流とするのが妥当とみられます。以下に順を追って書いてみます(以下は「である体」)。
 
1 脇坂甚内安治の父母
 幕藩大名家としての脇坂氏は、藩祖の脇坂甚内安治(後に従五位下中務少輔。生没は1554〜1626)の男子実系が続かず、安治の子の二代目で信州飯田藩主・淡路守(甚太郎)安元は後嗣の男児がおらず、始めに弟の虎松丸安経を養子に迎えたものの早世、次に養子とした左兵衛安利(堀田正吉の子)も早世して、さらに養子として迎えた甚太郎安政(老中堀田正盛の三男、安利の甥)を三代目藩主(竜野藩初代)としており、ここから男子の実系としては堀田氏となる。さらに江戸後期に男子がなかった竜野藩第六代目藩主(脇坂家八代)の安実の後嗣としても、脇坂支系から入ったものの、実際には堀田正陳を父とする安親が入っている。こうした経緯もあって、江戸後期の脇坂安董(安親の子)のときには譜代大名とされ、老中にもその子安宅ともどもなっている。
 二代目の淡路守安元は寛永の提譜のときに藤原氏の末流といいながら、祖父の外介安明より前は記さずにおり、明治の華族提譜でも『脇坂家譜(播磨竜野)』では外介安明から始めている。家譜では、安明の記事に室は田付新右衛門景治の妹とし、はじめ従弟の田付孫左衛門に嫁して安治を生みこれを携えて再嫁したと記す。安治には、外介安明の実子説もあるが、ここでは家譜の伝えるところに従っておく。
 家譜によると、脇坂外介安明は、江州北郡脇坂の人で浅井家に仕え、永禄十一年(1568)六月四日、江州観音寺城戦で討死したとされ、江州脇坂庄で天文二三年(1554)に生まれた安治は、翌永禄十二年(1569)に信長の命を受けて丹波の黒井城攻めをした明智光秀に歳十六で従って敵の首級を得たと見える。その同年に秀吉に謁見してその部下となり、禄米三石を賜ったと記すから、裸一貫からのし上がったことがわかる。
 この家譜の記事にはいくつかの疑問がある。永禄十一年の観音寺城合戦とは、信長が上洛をめざして観音寺城主の佐々木六角義賢入道承禎・義治親子を攻め、六角一族を追い出した戦であり、同年の九月中旬に行われた(家譜のいう「同年六月四日」というのも不審)。信長と浅井長政との提携はこの年か前年になされているが、父外介が浅井氏に仕えていたのなら、浅井氏の滅亡の前に、父の討死後すぐに秀吉に仕えたはずがない。このときに脇坂外介安明は六角方の兵として討死したほうが自然か。浅井氏は長政の父・久政のときには観音寺城の六角氏に従属しており、長政も観音寺で生まれたというから、こうした動きのなかで脇坂氏も観音寺にあったのかもしれない。鈴木真年編の『華族諸家伝』脇坂安斐条には、安明は佐々木六角義賢に仕えて討死したとあり、このほうがむしろ妥当であろう。
 そうすると、安明が脇坂の人だとか安治が脇坂庄で生まれたという家譜の記事も、やや疑わしくなる(田付氏の実子でも、脇坂生まれは疑問)。安明が脇坂庄司家の嫡宗であれば、たった禄米三石から立身が始まるとは考え難いが、脇坂氏の庶流であって、江北ではなく江南に在った家の出だとしたら、父が討死して零落したところから、甚内安治の人生が始まったことになる。
 こう考えれば、秀吉への仕官の関係で、明智光秀の丹波攻めに従軍したというのもきわめて疑わしい。信長が丹波攻めを開始したのは天正三年(1575)のことであり、安治が仕えた当時の羽柴秀吉は未だ近江と深い関わりを持っていなかったという指摘も見られる。これらの諸事情から、脇坂家の馬印「貂の皮」の価値を高めるために後世に創作されたものとみられている。安治が名をあらわしたのは、天正六年(1578年)の三木城攻めなどであり、その後、賤ヶ岳七本槍の一人として大いに名を挙げてさらに立身し、ついには摂津国内で一万石、次いで大和高取で二万石、淡路洲本三万石の藩主となり、官位も従五位下中務少輔となり、関ヶ原戦後には西軍に属しながらも東軍に内応して、その功により伊予大洲五万三千石の藩主となって栄進した。
 
 安治の母の実家のほうからも見ておこう。家譜に見える田付新右衛門景治と従弟の田付孫左衛門についていうと、田付氏は神崎郡田付に起こった「江州中原一族」(天武天皇後裔の中原真人姓を称する井口氏〔「湖北四家」の一で、浅井氏とも通婚し長政生母も出た〕などの一族であるが、実際には江北古来の息長真人末裔か)の出であり、戦国期には六角氏に従っていた。その後裔は江戸幕府の旗本にあり、『寛政譜』には「美作守景広−美作守景定−兵庫助景澄−兵庫助景治−四郎兵衛景利−四郎兵衛直平」とあげられる。『近江輿地志略』にもこの系統は見えており、田付兵庫助景澄は、父を美作守景定といい、神崎田付村の人で鉄砲の達人であり、子の兵庫介景治、其の子四郎兵衛方圓が御旗本にあって子孫相続す、これを田付流の鉄砲というと見える。なお、『寛政譜』には佐々木承禎の族というが、これは仮冒であり、実際には近江佐々木氏の一族ではないことに注意したい。
 美作守景広より先の田付氏の系図が鈴木真年編『百家系図』第五四冊に見える。それによると、平安後期堀河院のときの近江国愛智郡大領盛行(一般には「成行」)から始めて、その六世孫で鎌倉中期頃の田付黒左近仲俊が祖であり、その曾孫景親がおそらく建武頃の人であり、その五世孫が右兵衛尉景義、その子民部少輔景致、その子が美作守景広であって、美作守景定までの歴代の名前が省略なしで記されているが、右兵衛尉景義以降は直系のみしか記されていない。
 
 さて、田付兵庫助景澄は生没年(1556〜1619)がほぼ脇坂安治と同じであって、徳川家康に仕えて大坂夏の陣に従軍した者であるから、その子にあげる兵庫助景治は、脇坂安治の伯父新右衛門景治とは別人であり、景継という又名も知られる。このため、旗本田付家と新右衛門景治との関係は不明であるが、割合近い同族ではなかろうか。また、竜野脇坂藩の用人として田付氏が『武鑑』に見えるというから、脇坂安治の母が田付氏から出たという所伝の傍証になろう。信州飯田にあったときの藩士が「脇坂家分限帳」(『蕗原拾葉』巻之63)に見えており、そのなかには二百石取りの田付源右衛門があげられる。
 さらに、脇坂氏の起った浅井郡脇坂庄に残った本宗家とみられる脇坂左介秀勝がおり、浅井久政・長政親子に仕えて外交文書などを発行する奏者を勤めたが、天正元年(1573)の小谷落城のときに主君に殉じている(『戦国人名事典』など)という事情もある。
 以上の諸事情からいって、脇坂安治の家は脇坂庄に因むものの、その本宗家ではなく、父安明のときには江南にあって佐々木六角氏に仕えていたようだと整理される。この辺が、脇坂安治家の検討の基礎であり、上記『脇坂家譜』には疑わしい記事も多いということが分かる。
 なお、『華族諸家伝』脇坂安斐条には、脇坂安治は九条関白植通公(註:生没が1507〜94)の落胤で、母は近江国住人青木日向守藤原秀盛の娘であって、九条関白殿下に伺候して懐胎し、殿下の荘園預の脇坂外介の家に便り安治を生むという故に安治は藤原氏なりとも記されるが、これはまったくの偽伝である。青木日向守藤原秀盛はもう少し早い時期の人とみられ、その娘は脇坂安治の父祖の母かもしれないから、まるで顧慮しないほうがよいとはいえないものであるが、どうも戦国成り上がりの家には疑問が大きい所伝があることに留意しておきたい。
 
2 脇坂安治の父祖の系譜
 脇坂安治の祖先の系譜については、『華族諸家伝』脇坂安斐条には、物部連一族の出と記される。すなわち、物部上祖伊賀色雄命の六世物部目大連の孫・奈洗連が近江国愛智郡に住し又浅井郡に別れて居り、その後裔の物部武真が浅井郡司大領となる。その十四世の浅井新大夫秀政は三条家所領預として浅井郡丁野村に住み、その長男の浅井新二郎信政は戦国大名浅井氏の先祖となり、秀政三男の浅井又五郎生政の孫・五郎左衛門尉教政は九条殿所領の同郡脇坂庄下司となり、その五世が荘園預の脇坂外介安明であって、その妻が懐胎のまま嫁いで安治を生み、次にその弟の外記安景を生んだ、と記される。
 浅井氏が起こったという丁野村は現在、東浅井郡湖北町東部の大字丁野(ようの)一帯であり、その東方二キロほどの近隣山地に浅井三代が拠った小谷城があり、現在、小谷城跡のすぐ近くに「脇坂安治生誕地」があげられているが、この辺が脇坂野だったか。丁野の付近には、河毛・伊部・中野・月ヶ瀬という地名が湖北町とその南隣の虎姫町にあり、これらの地に住んだ者が先祖俊政(常政)の兄弟として浅井一族の系譜のなかに見えるから、地理的に見ても、脇坂氏が浅井一族がら出たことは信頼してよかろう。
 
 これと同じく近江物部一族から出た浅井氏の支族としながら、中田憲信編『諸系譜』第十二冊ノ一に掲載の「脇坂」系図では別の系譜を記す。これによると、浅井郡司物部常永(その娘は内舎人橘俊忠の妻となり、俊政の母)の弟・浅井二郎常清の曾孫の清正は鎌倉殿(頼朝)から脇坂庄地頭を賜り、その八世孫の脇坂庄司教安は女婿として勝政(橘光政の男)を迎え、その孫の脇坂二郎五郎教安は実は青木武蔵守通久二男であって、その子が脇坂五助安定、その子が外助安明であって、安明は浅井郡脇坂庄に居し佐々木六角義賢に仕え、永禄十一年六月に織田右府が六角攻めをしたとき江州観音寺で戦死したと譜に見える。安治は九条東光院殿下の庶男で母が青木日向守秀盛女と見えるから、鈴木真年はこの系図にも基づいて上記記事を記したとみられる。
 脇坂二郎五郎教安は、上記の五郎左衛門尉教政の孫ともされており、五郎左衛門尉教政の十一代前の先祖には浅井郡司常永が見えるから、常永兄弟以降二系に分かれた系譜が二郎五郎教安のところでまた合一することになる。また、橘光政は橘俊忠・俊政親子の後裔とみられ、浅井氏は一説に橘姓とも藤原姓ともいわれる。橘俊忠の父は近江甲賀の山中氏の祖・散位橘俊清とされるが、俊忠が敏達天皇の子の守屋太子の孫におかれる系図もある(もちろん、信頼できないが、「守屋太子」は物部守屋大連の転訛で、物部一族後裔の趣旨か)。
 以上に見るように、脇坂安治の祖系は諸姓諸氏が複雑に込み入っており、一概には言いにくいことが分かる。
 
3 安治の近親一族
 安治の近親一族についても触れておく。
 安治の兄弟としては、同母の弟・外助(外記、治兵衛)安景があげられるだけであり、安景は若いときに安治の怒りをかって他氏に仕え、元和元年の大坂役では伊達政宗に属して討死し、その養嗣の重治は伊達氏に仕えて子孫は仙台藩士となるから、兄弟の子孫は脇坂藩中にはいなかった。その妹は渡辺七右衛門の妻、佐野勘七茂光の妻とされる。渡辺七右衛門は伊予大洲のときに脇坂内膳とならんで二人が長臣であったが、前者は罪あって死し、安治の子の右馬助安重(内匠安治)が替わって長臣(家老)となると家譜に見えており、安重の子に玄蕃安直が見える。
 また、安治の娘七人のうち脇坂氏を名乗る者に嫁いだ者が四人もおり、家譜等には嫁ぎ先が順に脇坂牛之助一盛、脇坂伊織一長、脇坂宗兵衛安盛、脇坂仁右衛門景直があげられる。第二代安元のときの上記の「脇坂家分限帳」でも、信州飯田藩のなかで脇坂姓の大身が多く見え、千五百石の脇坂玄蕃(家老。上記安直か)、千二百五拾石の脇坂新左衛門、四百五拾石の脇坂彦之丞、五百五拾石の脇坂左近右衛門、七百石の脇坂文右衛門、同七郎兵衛、六百二拾石の脇坂覚兵衛、二百石の脇坂左近、千五百石の脇坂仁右衛門、二百石の脇坂数馬、二百石の脇坂宇衛門、二百石の脇坂太門兵衛、四百石の脇坂弥兵衛とあげられる。
 これら脇坂姓の者は一族か縁戚・功臣とみられる。一族の者は安治の子孫のほかは、安治の父・安明及び祖父・安定の兄弟の子孫なのであろう(竜野藩関係の史料があれば、この辺の事情が分かるかも知れない)。現存する脇坂関係の系譜では安明及び安定の兄弟は記されないが、それぞれ数人いたことも考えられる。脇坂仁右衛門景直については、安治生母の実家ないし最初の嫁ぎ先の田付氏から出たこともありえよう。
 
4 青木武蔵守通久とその一族
 外助安明に至る男系についていえば、実系は青木武蔵守通久の後裔ということにもなるので、この青木氏の系譜についても触れておく。
 青木武蔵守通久は甲賀の雄族であって、その系譜は利仁流藤原氏とされ(系譜は本HPの別項を参照)、その長男が武蔵守教方、次男が脇坂教安といわれ、武蔵守教方の子の筑後守貞景は明応元年(1492)に六角高頼の乱を避けるため三河へ行って、その娘が徳川家康の祖父・清康に嫁し広忠を生んだ。こうした系譜からは、脇坂氏の系譜が三河松平氏にもつながることが知られる。脇坂教安の実系が甲賀の青木氏であれば、江北ではなく江南に居した事情も知られる。青木通久の没年が永享五年(1433)と伝えられ、またその孫の貞景の上記活動時期からみて、応仁の乱のときころに青木教方・脇坂教安兄弟が活動したことになる(こう考えると、脇坂教安から安治に至る世代には一世代の欠落の可能性も考えられる)。
 なお、青木日向守秀盛は武蔵守教方の子のなかに『諸系譜』脇坂系図では記すが、これには疑問があり、おそらく同族ではなかろうか。
 
5 脇坂氏の家紋
 脇坂氏が桔梗紋及び輪違紋を用いたのはたしかであるが、美濃の土岐一族が多く用いる桔梗紋については由来がまるで分からない。輪違紋については、藤原氏の三条流を称する浅井氏が花輪違を用いており、江北出自で実際には浅井同族とみられる小堀氏(遠州政一の家)も同じく花輪違を用いたので、所伝とは異なり、輪違紋のほうが脇坂氏の本来の家紋ではないかと推される。近江の佐々木一族から出た出雲の塩冶・富士名・隠岐の諸氏も、花輪違紋を用いたと沼田頼輔著『日本紋章学』に見える。
 桔梗紋については、上記の系譜からみて甲賀の青木氏の家紋との関連も考えて調べてみたが、『日本紋章学』には藤原姓ないし丹治姓の青木氏の家紋としては、桔梗紋が見えないという事情もある。『姓氏家系大辞典』では、甲賀の青木氏について家紋が揚羽蝶を主にしていたことが記される。
 ついでにいうと、安治・安忠親子が甚内を名乗り、安元・安政・安致の親子三代が甚太郎、安致の弟の安照が甚之助を名乗るなど、歴代の呼称に「甚」が用いられたが、神氏に通じる「甚」の字がこの一族になぜ多用されたのかも不明である。
 以上のように、脇坂氏については不明な点が多く新資料の出現が待たれるが、とりあえず上記のものを試論として示しておくことにする。
 
  (09.9.17 掲上)
 
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