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歴史の挟間にはなかなか興味深い人物群がいる。その一つがここで取り上げる青木一族であり、秀吉・家康が天下人になる過程で興味深い浮沈を展開した。 1 青木民部少輔一重の一族と松平氏 多少の縁というほどでもないが、かって大阪在勤時に豊中市曽根に住んだことがある。その北西方近隣にこの青木一族から出た幕藩大名家があった。すなわち、摂津麻田藩一万十七石という大名家としては最小レベルの藩主青木氏であり、その陣屋は現豊中市蛍池中町(伊丹空港のすぐ東隣)にあった。阪急宝塚線でいえば、曽根駅から北西の宝塚方面へ三つ進むと蛍ヶ池駅となる。その領地には酒所の伊丹を含んでいたが、酒税行政にも携わったこともあった。 麻田藩主の初代を青木民部少輔一重といい、一般に武蔵七党の丹党青木氏の後裔とされている。天文廿年(1551)に生まれた一重は初め忠助、所左衛門と号し、重通、一治ともいったが、その父、刑部卿法印浄憲(1529〜1613)とともに信長・秀吉・家康の時代に活躍する。はじめ今川氏真に仕えた一重は、武功により黄金を褒美に賜ったこともあったが、永禄年中に氏真が没落すると家康の召しでその配下となり、元亀元年(1570)の姉川合戦で勇名を現す。朝倉方の有名な武士を討ち取る武功をたてるのである。 すなわち、『信長公記』の姉川合戦の頚注文冒頭には、朝倉義景家臣で有名な武勇の士、真柄十郎左衛門のところに「此頚青木所左衛門是を討とる」と註がある。青木所左衛門一重は当時家康の家臣であり、のちに秀吉に仕えて摂津麻田一万石の大名になり、晩年は幕府に仕えた。同書の著者、太田牛一の子の牛次はこの一重に仕えている。なお、『当代記』には、真柄十郎左衛門直元を討ち取ったのは家康家臣の匂坂式部とあり(匂坂一族と郎等という所伝もある)、『寛政譜』では一重が討ち取ったのは、直元の子、十郎三郎直隆とされるが、文献の成立年代を考えれば、『信長公記』の一重の武功を一概に否定できないと藤本正行氏は記述する(『信長の戦国軍事学 戦術家・織田信長の実像』(JICC出版局、1993.2))。真柄一族はいずれも武名高かったが、姉川合戦で、十郎左衛門直隆、その子隆基、直隆の弟直澄が一時に戦死し、直澄を討ち取ったのが匂坂式部と『戦国人名事典』にある。この辺の人名や事績には多少とも混乱があるが(直元=直隆で、十郎三郎のほうの直隆は直澄の誤記か)、真柄一族の勇者を討ち取ったという青木一重の武功は信頼してよさそうである。 このときの武功の刀は、美濃の名工関孫六兼元が製作したという「青木兼元」であり、「真柄斬り」という異名もあって、刃長2尺3寸3分、反り4分強、伝説のある業物である。関孫六が天下無双の斬れ味をしめす実例としてあげられる。この孫六はその後、一重の遺言により形見として丹羽家に贈られたが、一重がかつて丹羽の家臣だったという事情からである。この逸話を記憶しておいてほしい。関孫六の居住地は美濃赤坂(現大垣市赤坂)であったが、青木一重の生地青木村(現大垣市青木)もその東方ごく近隣であった。 事典・系譜等の資料に拠ると、このあと、一重は元亀三年(1572)の三方ヶ原合戦のとき本多太郎左衛門尉の一隊で高天神城を押さえる働きをしたが、食邑不満のため家康のもとを去って丹羽長秀に仕えた。秀吉柴田対立の合戦では、幼年の主君丹羽長重に秀吉方となることを進言し、戦後に長束正家等とともに秀吉に属して使番・黄母衣衆となった。天正十三年(1585)には摂津国豊島郡等で一万石を与えられ、同十六年(1588)には従五位下民部少輔に任じた。 関ヶ原後も大坂城に出仕していた一重は、七組番頭の一人となり大坂冬の陣に参加して大坂城の二ノ丸追手門升形など二方面の守将を務め、城南方面で真田幸村が守る真田出丸の激戦でも勇ましく戦った。冬の陣が一応和睦となり、翌元和元年(1615)の夏の陣の直前に豊臣秀頼の和議謝礼使として駿府城の家康に会見したが、その帰路、武功を惜しむ家康の内命を受けた所司代板倉伊賀守勝重のため、京都で拘禁されてしまった。そのため、一重は大坂入城ができず、まもなく合戦が始まると、主を欠いた青木勢を率いて養子左衛門正重(外甥で、斉藤義龍の家臣小寺宮内右衛門則頼の子)が大坂に入城して戦ったが、遂に大坂落城となった。 一重はその後に剃髪して宗佐と名乗ったが、同年内に幕府に召し出されて旧領の摂津麻田で一万二千石を領した。同五年(1619)には引退して養嗣の甲斐守重兼(弟可直の子)に家督を譲り、死去したのが寛永五年(1628)八月のことであった。その時々の一重の運命は奇妙な変転をするが、最後は始めに仕えた徳川氏のもとにあって大名として生涯を終え、子孫も藩主として明治を迎え子爵に列している。なお、同藩当初の一万二千石は、のち弟の可直に二千石分知されている。 一重を丹党青木氏の後裔とするのは、『寛政譜』にそうした系図が記載されるからであり、それに拠ると、丹武綱四世孫青木直兼の子孫につなげており、直兼の後、「実直−実村−実時−実季−重実−重直−一重」と記している。ところが、太田亮博士は、『新編美濃志』の記事により、「其実美濃の青木氏にして丹党と云ふは後世の附会なるが如し」と既に看破している。 この記事とは、青木刑部卿法印浄憲の先祖は当村(美濃国安八郡青木村)より出て、始めの名は加賀右衛門尉藤原重直と称す、土岐家に仕え斎藤に属し信長公秀吉公に従い、慶長十八年大坂城にて戦死、その子一重も美濃に生まれ徳川家に奉仕し、後秀吉公にも属し御一統の後諸侯に列し子孫繁栄す、とあるものである。『寛政譜』には大名家の青木氏のほか、なお一流の青木氏があり、その呈譜には「世に丹治氏を称すと雖先祖藤原氏利仁より出るが故に勅許をかうぶりて藤原氏となる」とあるので、これも傍証となろう。丹治姓の系譜を見ても、年代に比して世代数がきわめて少なく、歴代の接続に大きな疑問があって、太田亮博士の指摘が妥当だと考えていた。 以上の青木浄憲・一重の事績を鈴木真年翁はその著『華族諸家伝』青木重義条で次のように記す。最初の青木氏の利仁流藤原氏という系譜部分は後にあげるとして、青木親子については、 「青木加賀右衛門重直初メ土岐範頼ニ仕ヘ濃州大桑ニテ八千貫ヲ領ス土岐家没落ノ後斎藤道三入道二仕へ道三生害ノ後織田右府二仕へ後豊臣太閤二仕ヘ剃髪シテ勧持院民部卿法印浄憲ト号シ後東照公ノ御伽衆ニ列ス男青木所左衛門一重永禄十一年戊辰遠州浜松ニ来リ東照公ニ仕ヘ元亀元年姉川戦ニ真柄十郎左衛門ヲ撃取リ同三年十一月三方原役ニ高天神ノ押トナル天正七年暇ヲ乞ヒ上京シテ丹羽長秀二仕ヘ後豊臣太閤二仕ヘ黄母衣衆ニ列シ天正十六年聚楽行幸ノ時従五位下ニ叙シ民部少輔ニ任ス慶長四年秀頼二仕ヘ大坂二在リ同十年七組番頭トナリ七千石ヲ加賜フ同十九年大坂役武功アリ元和元年正月豊臣秀頼命ニヨリ和議ノ使者駿府ニ到ル旧年武功ノ名有ルヲ以テ釣命有リテ駿府ニ留ル同夏大坂落城後二条城ニ召シ出サレテ摂州浅田及備中国ニ於テ本知一万十九石余ヲ賜フテ摂津国浅田ニ住ス」 上記の概要と若干異なるが大筋はかわらない。一重の諸弟については、重経・直継・可直が知られる。その弟で、川澄(一に渥美)素由の養子となって源五郎と名乗った重経は、三方原合戦で討死したが、その子源五郎勝吉も父とともに大須賀康高(家康の部下)の配下の勇士として知られた。次の太郎兵衛直継は、秀吉に仕えて毛利征伐の際に播州神吉で討死した。次の弟可直は次郎右衛門と号し、はじめ池田輝政に仕えたが、慶長十五年には召し出されて駿府に奉公した。その子に、三直・重寿・直澄がおり、このうち源五重寿(重兼)は伯父一重の養嗣となり、次郎右衛門直澄は元和八年に父可直の遺跡を継いで五千石を領した。 さて、次に美濃青木氏の系譜である。前掲『華族諸家伝』に拠ると、 「利仁将軍四世従五位下越前押領使為時孫匹田掃部允為永四世匹田斎藤武者所以忠二男次郎頼忠建久年中近江国甲賀郡青木ニ移住ス因テ氏トス七世青木武蔵守以季等持院将軍ニ仕ヘ勲功多シ五世青木加賀守以重義教将軍ニ仕ヘ永享四壬子年美濃国大野郡揖斐庄ノ内ヲ賜フ曾孫青木加賀右衛門重直」と記される。 この記述とほぼ符合する系図が鈴木真年翁と同好の士、中田憲信編の『諸系譜』第三冊ノ一に「青木家系譜」(以下、「青木系図」として引用)に見える。このほか、東大史料編纂所には数本の青木氏系図があり、同系図は福井県武生の青木長之助家に伝わる青木氏系図(「長之助家系図」として引用する)とかなりの類似を見せている。 青木氏系図の最初の部分は神代の天児屋根命から始まり、中臣・藤原の系図となり魚名の後裔、利仁流疋田斎藤氏となるが、青木次郎頼忠までは一般にあまり問題がなさそうである(仔細に見れば、疋田斎藤氏の出自や頼忠の父などの問題があるが、ここでは取り上げない)。青木の苗字が起った甲賀郡青木荘の地は南北朝期の文書に見えるものの、現在比定地は不明となっている。頼忠から以季(一に以秀)までの七代は『尊卑分脈』に歴代の名が見えており、青木系図はこれより稍詳しい程度である。 分脈は一般に室町初期の人物まで記載するから、武蔵守以季が尊氏とほぼ同時期の人であったことは信頼できそうであるが、「青木武蔵守以季等持院将軍ニ仕ヘ勲功多シ」という記事は青木系図からは確認できない(長之助家系図には、源尊氏公・義詮公に仕えて屡々書を賜ると記す)。以季の子の義季については、青木系図では、「武蔵守。建武中候吉野皇居尽軍忠賜綸旨数通、後属足利義詮及細川頼之康暦二年戦死」(康暦二年=1380)と記事がある。 その後は、「子の以藤(民部少輔。応永十八年卒、年四十七)−持通(次郎、武蔵守。仕義持公、永享四年卒。この弟に孫四郎以常あり)−通久(次郎、武蔵守。仕義教公、永享五年卒)、その弟以重(加賀守。仕義教公、永享四年分賜美濃国大野郡揖斐庄内)−重貞(加賀守)」(この部分の系図は後ろの記述に用いるが、「A部分」として引用)、まで見えている。真年翁の前掲記述は別の系図資料に拠るものであろうが、重貞の後は「重実−重直(加賀右衛門尉)−一重」と続いたものとみられる。 一方、以重の長兄・通久の後裔には家康の父・松平広忠の生母が出ている。すなわち、前掲青木系図に拠ると、通久−教方(仕義教、義政公)−方頼(武蔵守、伊賀旗頭)−頼利(武蔵守、仕将軍義晴)と嫡系はあげるが、方頼の四弟・筑後守貞景は「明応元年避六角高頼之乱、来住参河国碧海郡後帰住于甲賀、天文十三年(註:1544年)九月卒」と註される。貞景の長子又太郎貞義はそのまま参河国に住んだが、その弟四郎兵衛義俊は父や弟左京進貞季とともに甲賀に帰った。(教方の後の系図については、吉継までの間、異伝があり、後述の〔補注1〕を参照されたい) 四郎兵衛義俊のすぐ次の妹が松平次郎三郎清康の妻となって、広忠の母となったとされる。義俊の子の又四郎吉継は家康公に仕え、その子孫は徳川家に仕えたものや摂関家の鷹司家に仕えた者を出したと青木系図に記される。初めて鷹司家に仕えたのは青木志摩守吉次(吉継の孫)であり、本理院殿(鷹司信尚妹で、将軍家光の正室。その甥が教平)の御由緒で鷹司教平公房輔公に仕え寛文七年には正四位下に叙され同九年(1669)九月に卒した。子孫はそのまま江戸期中鷹司家に諸大夫として仕えて明治に至るが、青木系図はこの青木氏に伝えられたもので、明治初期の吉順・その養子吉元及び一族の世代まで及んでいる。青木吉順は鷹司政通公輔熈公に仕え、安政六年任美濃守、元治元年叙従四位下、明治三年京都府貫属士族、などという経歴が記載される。 話を室町後期の青木貞景に戻して、貞景の弟には、甲賀郡夏見(現甲賀郡甲西町夏見)に住んだ青木五郎貞久がいた。その妹には、蒲生郡の大族で六角定頼(前掲高頼の子)に仕えた蒲生左衛門大夫高郷(享禄三年〔1530〕卒、氏郷の曾祖父)の妻となったものがあり、その子梵純は母姓により青木玄蕃允と名乗った。 青木貞景の娘がなぜ松平清康の妻となったのだろうか。その事情は不明だが、青木系図が一部事情を示唆してくれる。すなわち、青木貞景は下向した参河で天野隆正の娘を妻として義俊を生んだと記されるが、その妹で清康妻となった女性は同母であったことが推される。清康の父・信忠は天野弾正資久の娘を母とすると伝え(『新田族譜』)、世代を対応させると資久は隆正の父であった可能性がある。清康は、最初の妻たる西郷弾正左衛門昌安入道の娘を離縁した後、祖母天野氏につながる青木氏の女に婚縁をもったものであろう。三河の天野氏は中山七名の領主天野弥九郎、岩戸城の天野麦右衛門などを出す、古くからの額田郡の土豪であり、現在伝える系図の伊豆の天野遠景後裔とは別系(額田郡古族の末裔か)であった可能性がある。『姓氏家系大辞典』所載の天野麦右衛門の家系には、「正」の字を持つ者が多く見え、これらが天野隆正の一族であったか。 〔補注1〕 上述の教方以下、吉継までの系譜には異伝が『浅羽本系図』にあり、年代的に見ると、こちらのほうがほぼ妥当ではないかとも考えられる。その大きな差異は二つあり、 @ 教方の長男を武蔵守政久とし、代々、武蔵守を名乗る系統は、それ以下、「政隆−隆頼−頼元(改頼利)−利依」と続け、政隆の弟・備後守通国以下もその子・政春−義春と続ける。本文の方頼は浅羽本の隆頼に当たるようであり、将軍義晴に仕えた頼利の世代は浅羽本のほうが妥当である。 A 教方の次男を六郎隆久とし、その子に筑後守隆道(又の名を吉道)及び六左衛門隆吉をあげ、前者の筑後守隆道には「若年の時江州を出て駿州に来、今川に仕え後に三州に居。天文元年(1532)十二月死、六十九歳」と記事をつける。その子には、女子(松平清康妻広忠母、永禄四年八月四日卒)、四郎兵衛隆重(又の名を吉継。元亀三年十二月二十一日味方原合戦討死卅四歳)、権十郎隆員をあげる。吉継の子の四郎兵衛吉久は、天正十年(1582)十一歳で召し出され相州で千石下されたが病気で仕えず、元和元年(1615)四十三で早世、と記される。 両方の青木系図を比較してみると、各々一世代分が脱落しているようであり、すなわち、具体的に推定系図を記してみると、次のようなものではなかろうか。 「教方─六郎隆久─筑後守隆道┬女子(広忠母) (=貞景) └ 兄弟に四郎兵衛隆重 ─ 吉継 ─ 吉久 (=義俊) (=義継) 」 東大史料編纂所に所蔵の「青木系図」の一つには、筑後守貞景の弟・伊豆守康春(初め義時)の家の系図が主に記載されるが、そこには「貞景−義俊−義継−吉久−吉重」とあげて、吉重の子孫は水戸家に仕えると記される。 こう考えると、筑後守貞景の経歴も青木系図とは少し違ってくる。各種青木氏関係系図を突き合わせると、兄弟とともに近江を出た貞景は、駿州に下って今川義元に仕え、遠州の二俣城を預かったとされよう。貞景の女子には、甥の青木伊豆守義勝の妻、松平善兵衛正親の妻もあったことが系図に見える。 (続く) |