2 青木紀伊守一矩と秀吉の母方一族 母縁につながる秀吉・秀長兄弟に仕えて戦国期大いに立身出世した武士に、青木紀伊守一矩(系図では「秀以」という表記が多いか)がいる。その子孫は関ヶ原合戦・大坂夏の陣により没落して、越前武生の町人で造り酒屋になったと伝える。先に見た青木一重の割合近い一族であったと伝えられる。 秀吉の母・大政所(従一位天瑞院)は愛知郡御器所村出身で同郡中村居住の木下弥右衛門の妻となり、秀吉兄弟等を生んだ。その系図はあまり取り上げられないが、中田憲信編の『諸系譜』第二冊(前掲青木系図の少し前のほうに掲載)には、刀鍛冶関氏出身の大政所の一族の系譜「太閤母公系図」が記載される。 これに拠ると、秀吉母公の「お仲」は、大和国当麻(この地は疑問か)に住した天蓋平三郎包永(佐波多村主姓)の末流で濃州関鍛冶の流れを汲む尾州愛智郡御器所村の鍛冶・関弥五郎兼員の娘であり、姉が一人、妹が二人あった。姉は杉原七郎左衛門家利の妻、妹は美濃国大野郡揖斐庄住青木勘兵衛一董妻、尾張国愛智郡中村住加藤弾正左衛門清忠妻と記される。杉原家利は秀吉正室・北政所お禰の母方の祖父(かつ、大伯父か)であり、家利の娘には浅野又右衛門長勝の後妻(七曲という)及び杉原道松(北政所お禰の父)の妻がいたから、この伯母の縁でお禰が浅野長勝の養女となっていた。これらが全て実系でつながっていたようで、その場合、秀吉の母方の従姉妹の娘が北政所お禰という関係にあったことになる。 さて、「お仲」の妹の一人(一伝には従妹)が嫁いだ先、加藤弾正左衛門清忠はその間に加藤虎之助清正を生んでおり、まさしく清正は秀吉の母方従弟であった。また、お仲の父・関兼員の妹お太祢が加藤小次郎清信に嫁ぎ清忠を生んだと母公系図に記される。この加藤氏は愛知郡熱田の大族加藤図書助家の支流であり(『諸系譜』第九冊ノ一)、道元禅師に従って入宋した加藤四郎左衛門尉景正の子孫とされる。すなわち、景正の子の四郎正信(法名春慶)が清正の遠祖であり、その弟・余三左衛門尉景業が熱田加藤の遠祖だと記される(『諸系譜』第十冊)。加藤景正は、貞応二年(1223)に入宋しその五年後に帰国、諸所で製陶を試みたのち尾州山田郡瀬戸村に定着して陶器製作をしたとされる。四郎正信の孫・三郎正家(その父を権中納言忠家と伝えるは誤伝。また遠山一族説もある)が清正家の始祖としてあげられ、その十世孫が清正に当たるのではないかと推される。 木下家と同郷の尾張中村には清正の玄祖父・四郎頼方が応仁の乱頃に来住したと伝えるが(『尾張名所図絵』)、一般にこの頼方の父とされる名前(小隼人正吉)には世代等からみて疑問がある。おそらく頼方の父祖の系図を欠き、そのため一族の系図に接合させた結果ではなかろうか(按ずるに、正家−家久−家方〔五郎左衛門〕と続いて、その四世孫くらいが頼方か)。とはいえ、清正の家臣には重臣に加藤美作・同右馬允・同頼母・同主水など同姓一族(殆ど頼方の後裔か)が多く見えており、熱田加藤の支流という系譜はほぼ信頼してよかろう。なお、加藤清正家は子の肥後守忠広の代、寛永九年(1632)に不行跡で熊本五十一万石を改易になったが、重臣の加藤右馬允正方の子・左内正直は五百石の旗本として存続した。 もう一人の青木勘兵衛一董に嫁いだ妹については、青木紀伊守(勘兵衛)一矩を生んだ。一矩は『若越小誌』には秀吉従弟と記されるが、これも事実であった。一矩の父、一董は重矩ともいい、美濃国大野郡揖斐庄住と前掲母公系図に記されるから、先に見た青木一重の一族とみられる。しかも、名前や世代を考えると相当に近い親類で、「加賀右衛門尉」という名乗りから本家筋とみられる刑部卿法印浄憲(重直)の従兄弟か再従兄弟くらいにあたるのが、勘兵衛一董(重矩)とみられる。 一董(重矩)の父は、上掲した「A部分」に見える青木持通の曾孫の七郎重任(重貞の子)であって、持通の弟・以常の玄孫の以豊の養嗣になったと長之助家系図に伝えるが、世代等に若干の齟齬がある。(別冊歴史読本『豊臣一族のすべて』所載の青木完太郎家の所伝には、いくつかの誤記があるので要注意。下の〔補注2〕で記述する) すなわち、同系図では、持通の後は曾孫で重任になるに対し、以常のほうは玄孫で以豊(間の三代は、以治−幸治−矩治)となるという差異があり、年代的にみて、前者では一代の欠落があるのではないかと推定される。また、重任の兄・重藤の子に加賀右衛門尉重直、さらにその子に一重が同系図に見える。これに拠ると、重矩と重直とは従兄弟で、一矩と一重とは再従兄弟となるが、仮に一代の欠落があったとした場合、その欠落が重藤・重任の前後どちらの世代に入るかにより、重矩と重直とは従兄弟だったかどうかが決まってくる。加賀右衛門尉重直の父を重実と伝えるものもあるので、決め手はないが、一応ここでは、重貞−重藤−重実と続け、重実の弟が重任だと考えておきたい。ただ、重矩が家を継いだ時点では、尾張犬山の人とか清洲の工人であったとかともいわれて諸伝あり、身分状況がはっきりしない。 一矩の生年は不明だが、従兄弟の秀吉生まれが1537年、加藤清正のそれが1562年とされ、一矩の経歴も清正同様、賤ヶ岳合戦から始まるから清正より若干年長くらいではなかろうか。そうすると、後述の子孫の活動年齢等から考えて、青木一重の生年1551年とほぼ同様であろうか。 さて、紀伊守一矩はもと勘兵衛とか勘七を名乗り、名は秀以、重治、重吉、秀政ともいった。はじめ豊臣秀長に仕えて立身出世していき、天正十一年(1583)の賤ヶ岳合戦に従軍、四国征討のときの功で同十三年(1585)に紀伊入山城主となり一万石、このとき秀吉の直臣となった。その後も順調に石高を増やしていき、播磨立石城主、越前大野城主、同府中城主(八万石)となって、慶長二年には従五位下侍従、同四年には越前北庄で二十万石を領する大大名となった。官位は従五位上紀伊守に至った。『大日本古文書』所収の毛利家文書「豊臣氏大老連署知行充行状」(慶長四年二月五日付け)には、羽柴北庄侍従と見える。 しかし、翌慶長五年(1600)の関ヶ原合戦では病床にあって、西軍に属し北庄城で籠城防戦体制を整えたが、東軍の前田利長に降服しまもなく、十月に死去して除封となった。その猶子、右衛門佐俊矩(一矩の弟・半右衛門矩貞の子で、善右衛門とも号した)は越前金剛院(現武生市域)で二万石を領したが、養父と同様、関ヶ原合戦後除封となり、前田利長の庇護のもとにあって死去した。その長子四郎左衛門久矩も、関ヶ原合戦後に浪人となり加州前田氏の客人としてあったが、秀頼公の招きに応じて大坂に入り元和元年の大坂夏の陣で討死した。この家の栄華はまことに短いものであった。 久矩は福井の田代万貞斎の祖となったと伝え、その子孫の流れには志士の橋本左内(田代春綱の孫)がいるという。久矩の弟には、加州で利長に仕えた「某」(実名等記載なし。〔補注3〕)、及び荘左衛門(庄左衛門。慶長十三年卒して法名江菴宗永)がいた。荘左衛門は多病であったため町人となり、平吹屋という屋号で酒造業を営み、子孫は代々府中新町にあって明治期の長之助となり(東大史料編纂所では、この人の代の明治三十年代半ば頃に系図・過去帳を謄写して現蔵する)、同家は大正中頃まで醸造業を続けた。さらに現在まで続いて青木完太郎氏となっている。 同家所伝の「青木氏系図」には、久矩・荘左衛門兄弟の長姉として女子をあげ、「木村常陸介室 木村長門守重成母、号二位宮内卿局 秀頼公乳母也、元和元年於大坂生害」と記すが、世代がやや合わないように思われる。木村常陸介重茲(一に重高、勝成)とは山城淀で十万石を領し豊臣秀次事件に連座して文禄四年(1595)自殺した大名であり、一説に大坂夏の陣で名高い木村長門守重成の父とされる人物であるが、久矩兄弟の叔母(父・俊矩の姉妹)に当たるくらいの位置づけのほうが妥当ではなかろうか。 〔補注2〕別冊歴史読本一族シリーズ『豊臣一族のすべて』(21巻27号、1996年7月)は、割合良くまとめられるが、青木完太郎家の所伝等青木氏関係には、いくつかの誤記とみられるものがあるので、参考のため、ここに掲示しておく。 気のついたところでは、 @加賀右衛門尉重直を重矩の甥と記す。(前掲の長之助家系図では従兄弟)。 A重矩の養父・以豊を以常の曾孫と記す。(同、玄孫)。 B重矩の子秀以の関係で秀吉生母の姉妹の記述がある。(同、秀以には、紀伊守従五位上、一矩、重治とし、母豊臣秀吉公伯母と記すのみ)。 C持通の子孫に「華陽院」が出たと記すが、これは誤りであり、系図にはその名の記載がない。(同、松平清康妻で広忠母の女性)。 問題の「華陽院」(けよういん)についても附記しておく。 彼女は、青木貞景の娘が広忠を生んだ後、松平清康の妻となった女性で、名は於留(於富)といい、出家して源応尼と号した。はじめ尾張小川の城主水野忠政の妻となって、於大(広忠妻で家康生母の伝通院。1528〜1602)及び三男を生み、のち清康の室となり源次郎信康と一女(碓井殿)を生んだが、清康の死後、さらに星野秋国など数人の夫をもち、それらと各々死別している。こうした戦国の世に生きた女性として数奇な人生を送ったが、駿府にいた家康の養育にもあたったといわれ、没年は永禄五年(1562)頃といわれる。 その出自は数説あって、尾張熱田の宮善七郎秀成(宮・岡本氏は大橋同族という)の女ないし養女とも、その実父は尾州の青木加賀守一宗(弌宗とも記す)ともいわれ、三河国額田郡の大河内元綱の養女となっている。 「柳営婦女伝」の華陽院殿之伝に掲げる系図(『百家系図稿』巻13にも同様な系図が記載)によると、江州栗太郡の青地(ママ)左馬允頼宗の子の青木加賀守高方の子として青木加賀守一宗を置き、佐々木高頼以下三代に仕えて度々軍忠を尽くしたとし、その子が華陽院と記載される。同書には、家康生母の於大も見え、華陽院の兄の青木加賀守政信の娘で、伯母婿の水野右衛門大夫忠政の養女となったとするから、これが事実としたら、青木氏の松平氏に対する比重はさらに高まることになる。 しかし、同系図は青地氏と青木氏とを混同するなど、いくつかの問題もあり、総じて信頼し難い。そうした前提の話ではあるが、同系図には、華陽院の甥に加賀右衛門尉重直を置くから、これが仮に正しい所伝だとすると、華陽院の父とされる加賀守一宗については、重直の祖父にあたる人物かもしれない。先に、私はその位置にある人物として加賀守重貞の子の重藤を考えたが、仮にこれらの比定・推定が全て正しければ、華陽院は青木民部少輔一重・青木紀伊守一矩の大叔母で、家康の外祖母となり、一重・一矩と家康とは再従兄弟という関係にあったことになる。ともあれ、華陽院は系譜の上でも数奇な位置にあったといえよう。 〔補注3〕久矩の弟で、加州の利長に仕えた青木「某」については、加賀藩の「諸士系譜」を見ると、青木氏が十家ほどあるうち、青木孫四郎家が比較的該当に近いのではないか、とも思われる。 同家の所伝では、織田信長に仕えた民部を祖とし、子の善四郎が信長ののち越前府中で前田利家に仕えたとする。「某」の父、俊矩が善右衛門ともいい、その嫡子久矩が四郎左衛門といった事情や、一矩・俊矩や「某」の弟・荘左衛門が越前府中に領地をもったり居住したりしたことを考えれば、訛伝して伝えられたことも考えられる。善四郎の後は、その子善四郎定照−善四郎定政……と約250石取りの武家として続いた。 3 その他の秀吉の一族 秀吉母公の一族にはこのほか、小出氏があったという。すなわち、大政所お仲の妹にあたる女性(栄松院)が同郷中村に在住の小出甚左衛門秀政(1540〜1604)の妻となり、吉政・秀家兄弟を生んだと伝える。しかし、秀政は秀吉より三歳年下であって世代が合わず、おそらくは秀政の妻となった女性はお仲の姪くらいではなかろうか。小出播磨守秀政は和泉岸和田三万石の城主となり、秀頼の補佐として関ヶ原時には大坂城にあったが、西軍についた子の秀家の功績等で家名存続を許され、子孫は但馬出石を経て丹波園部藩主として明治を迎えた。小出氏は信州伊奈郡小井弖に因む藤原姓の苗字で、伊豆工藤一族の出とも二階堂支流とも称したが、実際には諏訪神党一族(神人部宿祢姓)の出であったとみられる。『百家系図稿』巻十二には、工藤一族に出る小出氏の系図が信濃と尾張に分かれて歴代が所載される。 また、福島正則の母もお仲の妹だったという説があるが、正則は母ないし父が木下弥右衛門の妹弟という説もあるなど諸説きわめて多く、海東郡の福島氏については実際よく分からない。 こうして見ていくと、太閤母公お仲の実家一族・関氏は、有力な鍛冶として血脈にかなりの広がりをもち、愛知郡中村を中心とした土豪たちとネットを持っていたことが分かる。青木一重が用いた関孫六も、この関一族につながる刀鍛冶の製作であった。 また、秀吉の正妻・北政所お祢の出た杉原氏も関一族につながることは先に述べたが、室町幕府の引付奉行杉原兵庫允政綱の後裔と称された。その孫の伊賀守賢盛が美濃国池田郡一橋郷(現揖斐郡池田町南部の市橋で、青木村・赤坂村の西北約二、三キロの地)に遷住し、その子の治郎大夫隆盛が尾張国津島に移ったというが、この辺は確認できない。年代的に考えると、弘治元年(1555)に死去したという隆盛の子に杉原家利を置くのは無理がありそうである(仮に、隆盛が実際には賢盛の弟で死去年時ももう少し早かったのなら、問題は少ないが)。 とはいえ、杉原賢盛の孫娘が市橋下総守長利(1513〜85)の妻となり、その子・下総守長勝が伯耆矢橋で大名となり幕藩大名(近江西大路藩)として明治まで続いた事情もあって、この大垣市北辺あたりの地域は注目される。市橋氏の系図も『諸系譜』第十二冊にあり、京都の公家西園寺家支流で六角堂執行池坊一族から出た専節という者が、姉の夫・美濃国住人市橋太郎長氏の養嗣となり、その子が市橋下総守長利と記される。専節は市橋壱岐守利尚にあたる人物であり、市橋氏がこれで藤原姓とも清和源氏ともいう事情が分かる。また、華道家元の池坊が小野妹子に発するという系図もあるが、これは誤伝ないし仮冒であることが知られる。 北政所お祢の兄弟姉妹から出た杉原・木下氏、浅野氏の検討については、ここでは省略する。 ここまで豊臣秀吉の母方、妻方の一族を見てきたが、ついでに秀吉の父方一族も見ておこう。 秀吉の家が尾張中村に定着したのは、曾祖父の中村弥助国吉のときで、近江国浅井郡丁野村から出た昌盛法師が還俗してのことという。それ以降、その子弥助昌高、その弟右衛門尉吉高、その子弥右衛門昌吉と続いて、秀吉に至るという系図が宮内庁書陵部所蔵の『中興武家系図』巻十九に記載される。これとほぼ同様な系図が、『塩尻』『尾陽雑記』にも見えており、あながち否定しなくともいいのではなかろうか。 始祖弥助国吉については、父が長介、兄が長右衛門と記されており、一説に浅井長政の先祖一族重政とかその子氏政が国吉の父とも伝えるが(鈴木真年翁関係資料)、かりに国吉以下の系図が正しいものであったとしても、長政・淀君にそれほど近いものではなかろう。ただ、居住地からみて、秀吉の遠い先祖を浅井郡司一族と同じくした可能性までは否定できないが、別の可能性があるかもしれない。弥助国吉が木下越中守高泰の娘を妻としたという所伝もおそらく疑問で(「越中守高泰」は高島氏とみられる。『尊卑分脈』参照)、『中興武家系図』には「妻は中村住人弥五右衛門の娘・鷹女」と記載される。 次に、弟・豊臣秀長の実父をお仲の後夫・筑阿彌とする所伝があるが、最近は秀吉同母弟とする説も強くなっている(桑田忠親氏など)。京都瑞竜寺過去帳より書出しの「木下家系図」に拠ると、「木下弥右衛門 天文十二年癸卯一月二日死、于時秀吉七歳、秀長三歳、旭姫一歳」という内容が記載されるとのことで、この記事が正しければ秀長の実父は筑阿彌ではないことになる。しかし、弥右衛門が木下を名乗ったかどうかは確証なく(可能性はあろうが)、秀長の幼名が小竹(小筑)であったことを考えると、異母弟説のほうに私はやや傾いている。なお、桜井成広氏は、大政所が弥右衛門を離縁した後、木下の名跡を保持して筑阿彌を入り婿としたとするが、これもどうであろうか。 筑阿彌の系譜として唯一知られるものは、鈴木真年翁編の『百家系図稿』巻11所載のものであり、三河の水野氏の支族だと記される。この系図の真偽は不明であるが、水野忠政の曾祖父貞守の弟・甚五右衛門為善の曾孫が筑阿彌とされる。為善は尾張国春日井郡水野郷に住み、その孫・藤次郎為春が同郡迫間村に住みその子が筑阿彌であるというのである。 よく知られるように、三河の水野氏と安城・岡崎の松平氏との通婚は多く、家康の曾祖父信忠は水野下野守清忠(忠政の父・信政と同人か)の娘を妻として清康を生み、その子広忠は水野右衛門大夫忠政の娘・於大(伝通院)を妻として家康を生んだことは先にも述べた。この水野氏の系図はかなり複雑であり、一般に春日井郡水野郷起源で清和源氏、一伝に桓武平氏良兼流とされるものの、仔細に検討してみると疑問も出てきて、実際には尾州知多郡の古族末流ではないかと推される。そうしてみると、筑阿彌が三河水野一族というのも当然疑問となろう。 また、秀吉の姉・瑞龍院日秀(とも)が縁付いて関白秀次等を生んだ三位法印一路(三好武蔵守吉房)にも触れておく。その系譜については、大和国の三輪一族の出で宣政の子だという系譜もあるが(『姓氏家系大辞典』に所載の「高宮系図」)、確認し難いし、信頼性もどうであろうか。『百家系図稿』巻十二所載の「三輪系図」には、宣政の子には記載がないこと、当初、長尾を名乗ったことから考えて、「宣政の子」には疑問が大きい。前掲の『中興武家系図』には、中村弥助国吉の子・弥助昌高の孫に保政を置いて、「三好武蔵守尾張守 三位法印一露」と記す。この系図も確認及び信頼がしがたいが、参考のためここに記しておく。 一路はもと長尾弥助といったといわれるから、『尾張志』に「大高村の人・長尾武蔵守吉房は秀吉公の姉婿也」とあるのが最も妥当であろう。そうすると、尾州知多郡長尾村(武豊町域)より起る古族(和邇氏族か)の末流とするのが適切かもしれない。秀吉の一族福島正則の重臣に長尾隼人がおり、正則が安芸広島太守として在ったときは、安芸東城に配置されていた。 話はあちこちに飛んだが、こうして青木氏・関氏を中心に女系や通婚関係を通じて秀吉一族(木下氏)を概観してみると、農民よりは上位の階層、すなわち尾張中中村の小土豪クラスの出自だったものとみるのが自然そうであり、あるいは祖先の居住地などから鍛冶関係者の可能性もあろう。そのなかで、天瑞院お仲の存在の大きさが分かるが、これは早瀬晴夫氏が『織豊興亡史』(01.7刊)で指摘するところでもある。従って、秀吉の出自が江戸期に実際以上に卑下視されていたのではなかったか、という結論にも導かれそうである。 (02.2.16一応終了、2.21などに追加修補) |