平清盛一門の関係者

(問い)中田憲信の編著『皇胤志』をみて思うのですが、この書では一般系図とことなる記事に義経ジンギスカン説や爲朝琉球王朝創始説もありますよね。
 そして問題の系譜で、
 一般系図集たる尊卑分脈・系図纂要などと相違する個所を見れば、
平教盛の子が通盛(越前守・従4位下)・国盛(越後守・従4位下、八嶋戦後に阿波に入る)・忠快・教経(能登守・従五位上)・業盛の順に男子がいるとあるが、これは通常系図では国盛は教経と同一人のはずであるが、ここで別人というのはどう考えるべきか。
 また女子でも宗盛の室が教子で亦子が修明門院の母とあるが、これにも疑問あり。教子が修明門院の母というならわかるが、この相違はどうみるべきでしょうか。
 
 ウィキペディアには、宗盛の室は清子と能宗の母とあるが、皇胤志は清宗・能宗・宗親の母はいずれも教子。なお、源通親の室と藤原成経の室は不記載のようですね。
また上に小文字の手書きで土佐長岡郡本山大杉村と読める文字が有るが、これは誰に対する注かわかりますでしょうか。
 
 次に「清盛−基盛−行盛」の行盛については、壇の浦に沈んだと思うが、皇胤志では承久の乱に参戦して勢田で討死とあるが、となるとどうやって壇の浦から承久の乱の間を落人として生き延びたかですよね。
 
 更に「重盛−清経−惟経−惟重」の惟重については、壽永四一年一月に元服とあるが、壽永は安徳帝の年号のはず。安徳帝は壇の浦入水説で生存説にはなっていないのに壽永が四一年まで存続というのはいかなる理由か。
 
 一方、源氏に目を転じれば、
「義経−義鎮・オゴタイ」
「爲朝−爲家(舜天)−舜馬順煕−義本」とか問題の系譜あり。
ほかに、範頼が文治二年に豆州で誅されたとあるが、これは建久四年の誤りと思うが、よろしいでしょうか。

 (日本歴史研究所殿、2012.8.16受け)

 (樹堂からのお答え)

 桓武平氏全体の系図については、管見に入ったところで考える限り、『尊卑分脈』を含めても良本がなく、そのテーマなり対象の氏に応じて、ベターな系図を選んで、それを基に具体的に検討を加えていかねばなりません。
 中田憲信の『皇胤志』は、総じて皇族系図としては内容は豊富で、比較的に見て優れたものですが、系図認識や判断力については鈴木真年翁にすこし劣った面があってか、内容的にはかなり疑問なものも多く織り込まれています。だから、琉球についての為朝伝説とか義経のチンギスハン伝説なども含め、系図等の所伝に見える後胤伝承・落人伝承も多く書き込まれるわけです。ともあれ、同書に見える記事を平安期以降の信頼できる史料や公家の日記類、『東鑑』などによって様々な角度から十分に検討し、史実を確認して補訂していかねばならないということです。
 
平家の清盛一門についても、上記のように的確な系図はないのですが、『尊卑分脈』の桓武平氏系図が年代的にも妥当ですから、これを基として、同じような姿勢で関係諸系図と比較対照して、信頼できる史料を踏まえて原型探索に取り組むことが必要だと思われます。例えば、『皇胤志』には平家落人伝承とその子孫と称する諸氏の系図が随分、取り込まれておりますし、その原典の一つかもしれないものに、同じ中田憲信が編纂した『各家系譜』八所収の「杉系図」があります。ここの系図はなかなか詳しそうな記事があるものの、内容的には疑問な個所もかなりあり、一応の参考あるいは伝承という程度で考えていくのがよさそうです。
 
 具体的な問題として
(1) 平教盛の子女  
 @国盛 「杉系図」には、『皇胤志』よりも詳しく、「越後守従四位下。八島合戦後、寿永四年四月入于阿波国美馬郡祖谷郷、承元二年丁卯四月十日卒」と記されますが、『尊卑分脈』には不掲載であり、信頼できる史料での実在性の確認がされていないと思います。阿波祖谷谷から土佐にかけての地域において分布する、平家落人の系譜を引くと称する諸氏・人々がその先祖として造出した者だと思われます。教経は、「能登守正五位下(または従五位上)」で壇ノ浦合戦で討死していますから、屋島合戦の後に平家の軍を脱走し、生存して阿波山中に入ったわけではありません。『尊卑分脈』には、教経について「国盛」と記載がありますから、これだと同一人というはずであるが、阿波の祖谷郷入りまでが事績と考えたら、ありえない人物ではないでしょうか。
A娘たち 『尊卑分脈』と『皇胤志』には娘が三人、「杉系図」には娘が四人あげられます。「杉系図」には、@教子(内大臣平宗盛室)、A康子(内大臣源通親室)、B季子(従三位藤原範季室)、C女子(記事なし)、と記されており、他の史料等も合わせて考えると、順序が不明ながら、康子(内大臣源通親室)、教子(従三位藤原範季室、修明門院重子の母)の二人は確実だと思われます。あとは、娘が何人いたかどうかは分かりません。
 なお、宗盛の室については、平清子(時信女)は確かで、これが清宗の母とされますが、能宗と宗親などの母は不明です。
 
(2) 平行盛の生涯
 壇の浦討死が妥当と考えられますが、「杉系図」にも「承久三年六月於近江国勢田討死」とあり、その後に「信基−信式−信真……(以下、省略)」と続けられています。これは、南九州の肥後・種子島などの諸氏の系図につなげられておりますから、行盛の後裔と称する諸氏の伝える伝承で、子孫ともども史実ではないのは言うまでもありません。
 
(3) 平清経の生涯と子孫
 平清経については、豊前国柳浦にて入水自殺したとされますが、やはり落人伝承のなかに、壇ノ浦敗戦後に「入肥後国五家庄」という伝承があり(『皇胤志』)、「杉系図」にも「寿永四年三月に天皇(安徳帝)は潜幸して肥後国阿蘇大宮司惟泰のもとに行き、宮室を益城郡矢部山中に営み、清経以下が供奉した……」と見えます。この伝承では、安徳天皇も平清経も生存していることになりますから、同天皇を奉じて天皇が存命でおられる限り、年号が変わらないことになります。
 ちなみに、「清経?惟晴?惟重」という系図が「杉系図」のはじめのほうに見えます。惟晴に緒方右兵衛佐、惟重には緒方右衛門佐と記して、惟重について阿蘇大宮司惟継が烏帽子親となって、寿永四十一年正月に元服し加冠したと記事があります。惟重の弟の重玄が河内守となって、その子の杉七郎重教以下が周防の大内氏の配下の杉氏となっています。
 『皇胤志』に見える「土佐長岡郡本山郷杉村」という記事は、同書では誰に掛かるものか不明ですが、「杉系図」には重玄の記事のなかに、天皇を奉じて土佐国に拠り鎌倉軍と阿讃の間で戦い、重玄が退いて「同国長岡郡本山郷杉村」に居たと見えます。この辺は、勿論、みな伝承にすぎません。

  (12.9.7 掲上)
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