□ 巨勢氏の起源と系譜 (問い)九州の筑後地方の古代史を勉強しておりますが、貴ホームページの「雀部という氏」項に、「筑後から起った巨勢臣一族」との記述があり、この巨勢臣について大変興味を覚え、連絡させていただきました。 @「筑後」とは、今の地名でいえば、どのあたりになるのでしょうか。
A巨勢臣の名は何というのでしょうか。
Bその他、この巨勢臣に関するものをご教示お願いします。
(福岡県久留米市の妹川様より、2011.3.28受け)
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(樹童からのお答え) 1 巨勢氏の概要
巨勢氏は、大和国高市郡巨勢郷(奈良県高市郡高取町西部)を本拠とした古代雄族で、議定官としては、大化時の左大臣徳陀古から始まり、天武天皇十三年には臣姓から巨勢朝臣姓を賜わり、近江朝の御史大夫(大納言相当)の人(比等とも書く名前)は壬申の乱のときに近江方につき流刑となったが、その子・奈弖麻呂は大納言になり、その後も一族から中納言の邑治・麻呂や参議堺麻呂などを輩出し、平安前期の中納言野足まで顕官として朝廷にあった。その後の官人としては中下級として低迷するが、平安前期九世紀後葉の宮廷画家・巨勢金岡は絵画の名人で大和絵巨勢派の開祖となり、後裔は興福寺大乗院絵仏師、東寺絵所職として活動した。また、大神神社の祠官・越氏や京都大工の棟梁の中井氏はその末流とされる。 巨勢氏の祖は、『記』孝元段によると武内宿祢の二男(『三代実録』には五男)、許勢小柄宿祢とされるが、不明なことが多い。巨勢氏の史料初見は、突然登場して継体天皇元年に大臣となった巨勢(許勢)男人臣であり、その娘の紗手媛・香々有媛はいずれも安閑天皇妃となったことが『書紀』に見える。男人臣は、継体天皇を迎えるという大伴金村大連の提案に賛意を表して、即位後は大臣となり、娘二人が安閑妃となっている事情から、継体の登場とともにその支持勢力の巨勢氏が力を伸ばした。いま高取町西部の市尾駅北方近隣にある市尾墓山古墳(全長六六Mで二段築成)は馬具などを含む豪華な副葬品、埴輪X式、木製埴輪などを出して六世紀前半の古墳とされ、男人の墳墓とする見方(河上邦彦氏など)がある。近隣には、国際色豊かな副葬品をもつ宮塚古墳(全長約五〇M)もある。この辺りから、西南の巨勢寺塔跡のある御所市古瀬にかけての地域が巨勢氏の主要居住地とみられている。古瀬の宮ノ谷には巨勢山口神社もあり、巨勢寺の付近を巨勢川が流れる。
欽明朝には欠名の許勢臣が任那日本府の卿となり、男人の孫くらいの世代に比良夫臣が用明二年(587)に物部守屋大連を滅ぼす際に活動し、その同世代の許勢臣猿が崇峻朝に任那再興の将軍となり、『上宮法王帝説』に見える巨勢三杖大夫などを経て、大化時の徳陀古につながっていくが、男人と徳陀古との間の現伝系譜には数代の欠落があって、その間の許勢本宗の歴代や動向は不明である。
許勢小柄の母は、葛城襲津彦と同じ葛城国造荒田彦の娘・葛比売ともいうから、もっとも葛城本宗に近い姓氏ともいえそうだが、その傍証もふくめ、系譜を裏付けるものが何もなく、おそらく紀・平群(筑前国の志摩・早良郡の出か)、的(筑後国生葉郡の出か)などの諸氏と同様、祖を武内宿祢とするのは後世の系譜附会であって、北九州に出自をもつものとみられる。大和でも、神武侵攻時に和珥坂下土酋として居勢祝が見えるが、神武軍により誅されたというから、その流れではなさそうである。
以下に、巨勢氏の起源関係の検討をしてみる。
2 巨勢氏の祖先と起源
系譜所伝によると、巨勢小柄の後は、その子の「乎利−河上−男人」と続くとされるから、この系譜が正しければ、始祖の小柄は仁徳朝頃の人となる。同族には雀部(ささべ・さざきべ)臣・軽部臣があったと伝えるが、雀部氏のほうから系譜に異議が出された。すなわち、『続日本紀』天平勝宝三年(751)二月条に、正六位下内膳司典膳の雀部朝臣真人は、「継体・安閑天皇の御世に大臣となって仕えた雀部朝臣男人は、同祖である巨勢の名をとり、治部省管理の系譜には誤って巨勢男人大臣と記されているから、それを雀部大臣と改め名を長代に伝えたい」と奏言し、当時の氏の代表者たる大納言奈弖麻呂もこれを認めたことから、この願いは許されている。これが史実であれば、巨勢臣を名乗る前の本姓は雀部臣だったことになる。 『姓氏録』左京皇別の雀部朝臣の条では、祖の星河建彦宿祢が、応神朝に皇太子の大雀命に代わって御膳に奉仕し監督をしたので、その姓氏・雀部を負ったといい、子孫は雀部の伴造であって大膳職や内膳司の膳部(かしわで)に任じた者が多かったというから、雀部朝臣真人の奏上に巨勢男柄の子と見える星川建日子(星河建彦宿祢)は、年代的に考えると、実際には巨勢小柄の親であった可能性がある。
なお、上記の系譜と符合しないが、『紀氏家牒』には、「建彦宿祢−巨勢川辺宿祢(亦曰く軽部宿祢)−巨勢川上宿祢−巨勢男人宿祢」という内容の記事が見えており、この系譜だと、世代的に「巨勢小柄=建彦宿祢」ということで同一人になりそうでもあり、判断が困難である。ここで、巨勢氏の祖は巨勢小柄と同人かその父となる建彦宿祢まで遡ったが、それより先を具体的に探ることはできない状態となっている。
雀部については、仁徳天皇(大雀命)の御名代であるが、全国的に多く分布するので、姓氏・系譜は一概に言えず、かつ、不明なことが多いが、『古事記』神武段に神八井耳命の後に雀部臣・雀部造があるというから、これらが皆、同族であったとすれば(君、連、直は別系統)、雀部臣については、神八井耳命の後裔で多臣の同族を称した肥君・阿蘇君一族であったという系譜が考えられる。そうすると、北九州の筑肥に繁衍した建緒組命一族の流れで、筑紫国造・火国造と同族であったということになる。
3 コセの分布と出自の推論など
ここからは推論がかなり入ってくるが、気のついたところをあげておく。現段階では、この辺は一試論として見ていただければ、と思われる。 (1) 北九州に「巨勢」に関する地名を求めると、筑後の浮羽郡に巨勢川(巨瀬川、九十瀬川)があって九十瀬入道の伝承*があり、肥前国佐嘉郡に巨勢郷・巨勢神社(佐賀市巨勢町牛島にあり、巨勢大連が祭神とされる)・巨勢川があった。
* 福岡県うきは市(もと浮羽郡)浮羽町妹川の大山祇神社内にある御神体の敷板には、九十瀬(こせ)入道の伝承が次の趣旨で書かれている。「妹川村地方は昔、巨勢氏の領地で、その同族の妹川朝臣が開墾した。巨勢大夫人は白鳳年中に勅命により賊を討ったが敗れて罪を蒙った。その子孫の蟻(あり)は僧となり諸国を修行し、先祖の遣蹟を慕ってこの地に来住し、村民のために田園の守護神として山神を祀り、濯漑の便を図ることなどを教えた。蟻は後年自ら九十瀬入道と称したが、山に入って帰らなかったので、これを敬慕した村民が滝の傍に小祠を立て蟻権現と崇めたが、これが九十瀬水神である。」
コセの部民も、筑前には正倉院文書の大宝二年嶋郡川辺郷戸籍に「己西部酒津売、己西部薄ヴпA戸主己西部直酒手とその子女たる己西部直五百猪・同与利売・同若津売」「許西部直多豆売、許西部直犬手売、許西部直秦売」が見えており、許西部直が己西部の管轄者であったとみられる。同じ戸籍には、大族の肥君猪手が同郡大領で戸主追正八位上勲十等でその大家族・一族とともに見える。コセ部の分布は、山陽道・南海道・西海道に多いとされ、これは韓地出兵が多かったこの氏の特性によるという見方がある(『日本古代氏族人名辞典』)。上記の市尾墓山古墳も、韓地関連を思わせる豊富な副葬品があった。
筑後には、慶雲四年五月紀に筑後国山門郡の許勢部形見が見える。形見は、百済救援の白村江戦に参加して捕虜になり、長年唐にいて、遣唐使粟田朝臣真人に随行して帰国したので、その苦労に対して衣・塩・穀を賜ったということである。同じく捕虜となって帰国した人々のなかに筑紫君薩野馬などもいた。
なお、関連は不明であるが、伯耆国西部の会見郡に巨勢郷・星川郷があり、全国でもう一個所、巨勢神社が鎮座する。現在の鳥取県米子市八幡の地で、この社名はもと祇園天王社と称したのを、明治元年に神社改正の際、鎮座側近の旧地名により現社号に改称したと伝える。
(2)
火国造と同族とみられる筑後の水間君について、その祖を国背別命とする記事が『旧事本紀』天皇本紀の景行段に見える。この者がその兄弟にあげられる同書に見える伊与宇和別の祖・国乳別命と同人とみられ、景行紀には国乳別皇子が水沼別の始祖と見える。その実体は確認しがたいが、建緒組命かその子弟ではないかと推される。
国乳別命以下の水沼別の系譜が、中田憲信編『皇胤志』に見えており、「国乳別命−伊波狭賀命−倶低比古命−石尾命−赤目別直−田島直−古麻見直」と記される。伊波狭賀命を「石佐賀命」の意と解すれば、この者は肥前の佐賀(佐嘉)県主・佐賀君の祖ともみられる。佐賀郡に巨勢郷があったことは先に述べたから、巨勢・雀部両氏の祖の星川建日子は石佐賀命の子孫にあたるのではなかろうか。なお、景行紀十八年条には景行巡狩のときの「水沼県主猿大海」が見えるが、上記系譜の誰に当たるのかは不明である。
水間・水沼は三瀦とも書き、もとは筑後国三瀦郡三瀦郷の地で、いま久留米市西部の三瀦町(佐賀利の地名もある)一帯であるから、筑後川を渡って肥前に入り、西に行くと巨勢・佐賀に至り、川の北には三根郡(雄略紀に嶺県主泥麻呂が見える)が位置するから、筑後川下流域の一帯を押さえる県主はみな同祖同族ではないかとみられる事情にある。
(3)
巨勢臣の支族に巨勢神前臣があり、天智紀に巨勢神前臣譯語(おさ)が見える。その起源の地を太田亮博士は近江国神崎郡とするが、肥前国神埼郡との関係が考えられないだろうか。神埼郡には神埼郷のとなりに三根郷もある。
以上の諸事情を考えると、巨勢臣は筑後の水沼県主、肥前の佐賀県主の一族から出たとみるのが自然のようにみられる。あるいは、星川建日子は年代・名前からみて上記系譜の倶低比古命の兄弟あたりに位置づけられるのかもしれないが、そうした場合には、具体的な系譜としてつながることになる。 (2011.4.3 掲上)
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