物部守屋大連の子孫

(問い)物部守屋の長男と三男は戦死したのか何処かで恩情で生かされたのか、その辺りを知りたいと思います。四男は唐松神社だったかと思いますが合ってますか?
 
 (jintan様より、09.9.2受け)
 

 (樹童からのお答え)

 物部守屋大連の子孫については、信頼される史料には見えず、系譜・所伝関係にはいくつかの守屋大連後裔というものが見えます。そうした所伝を個別に検討してみますと、次のようになります(以下は「である体」で記述)。
 
1 『日本書紀』の記事
 崇峻天皇即位前紀には、蘇我馬子らの討伐軍が守屋の「大連併せてその子等」を誅すと記されるのみで、一般に「その子等」については不詳(岩波の日本古典文学大系『日本書紀』上註など)とされる。この時に「大連の児息と眷属、あるいは葦原に逃げ匿れて、姓を改め名を換ふる者あり。あるいは逃げ亡せて向かふ所を知らざる者あり」とも記されるから、うまく逃げ延びた者もあったことが分かる。
 なお、物部氏の系譜を記述する『旧事本紀』天孫本紀には、守屋大連の子として「内大紫位物部雄君連公」をあげるが、物部雄君連とは大海人皇子の舎人の榎井連小君(朴井連雄君)として知られる者で壬申の功臣であり、年代的にも姓氏から見ても守屋大連の子ではありえない。これは、雄君が守屋の後の物部氏の氏上を引き継いだということの表示にすぎないと思われる。
 
2 守屋大連の具体的な子孫
 物部連について、管見に入ったかぎり、最も詳細な記事がある系図としては、明治期の中田憲信編『諸系譜』第一冊所収の「物部大連十市部首」系図があげられる。このなかには、守屋大連の子として片野田連公と辰狐連公があげられて、前者は筑前鞍手に流され、後者には肥前松浦に流されたことも記される。鎌倉後期の文保二年(1318)の著作であるが、『聖徳太子伝』には「物部守屋の次男片野連、四男辰狐連を筑前鞍手に流す」と記されている。
 片野田連の子には、薦何見連・乙子連があげられ、薦何見連の子の富足の子には牛養・玄賓僧都、富足の弟の櫛麻呂の子に道鏡・浄人、富足のその次の弟の牧夫の子に耳高・薩摩があげられている。これら薦何見連の孫にあげられる六人はいずれも『続日本紀』などの六国史に弓削宿祢・弓削朝臣姓の人として見えており、この辺の系譜記事はほぼ信頼してよさそうである。道鏡には守屋大連の子孫という所伝があったことが知られるが、これは信頼して良いということであろう。
 また、『諸系譜』第十三冊所収の「稲生」系図には、守屋大連の子として忍人・益人・真乙比売の三人をあげ、忍人は四天王寺家人となり、その子孫は弓削連を称し、七世孫の世代には陰陽頭となり元慶元年に弓削宿祢姓を賜ったと『類聚国史』に見える弓削是雄が出たが、これが伊勢の稲生氏の先祖であったことが記されている。上記の崇峻即位前紀には、大連の奴の半ばと家とを分けて四天王寺に属させたとあり、「四天王寺御手印縁起」には「子孫従類二百七十三人を寺に永く奴婢となす」と記されており、同寺には、守屋祠があって守屋大連のほか弓削小連・中臣勝海連の三座が祀られていることからいって、こちらの系譜もほぼ信頼してよさそうである。
  このほか、三河国額田郡の真福寺については、大連守屋の次男の真福が父のために建立したという所伝が残る。同郡には物部氏がおり、後裔に平岩氏などが出ていると伝えるが、これが弓削連の後なのか三河国造一族・物部(興原宿祢の祖)の出なのかは判然としない。普通に考えれば、後者ではないかと思われるが。
 
3 出羽国仙北郡の唐松神社の物部氏
 出羽国仙北郡、いま秋田県大仙市協和境に鎮座する唐松神社は、物部守屋の子孫と伝え、神主は古代から連綿と続いて六十代ほどを数えると称してきた。すなわち、同社に伝える「物部文書」に依ると、守屋の子で当時三歳の那加世は、祖父・尾輿の家臣によって守屋滅亡時に奥州に逃れ、同社神主の初代となったとされる。しかし、この創祀伝承は裏付けるものがなく、唐松神社は延喜の式内社でもなく、「物部文書」はいわゆる超古代文書とされる後世の偽書である。その文体からは古代まで遡るものではなく、「阿比留草(あひるくさ)文字」が使われていることも、偽書とみられる要因の一つである。
 この物部家は、土木工学の権威・物部長穂とその弟の陸軍中将長鉾を出したほどの地域の名門であるが、同家の系譜が具体的に何時から信頼できるのかは不明である。物部家譜によると、物部長梶が天慶二年(939)に出羽国平鹿郡八沢木(すなわち保呂羽山。現在の地名は秋田県横手市大森町八沢木)へ入り、その四三年後に、長梶の子・長文が唐松神社へ遷ったというが、これらの者についても史料の裏付けがなく、真偽不明である。保呂羽山には出羽国平鹿郡の式内社の波宇志別(はうしわけ)神社が鎮座しており、大友家と守屋家が両別当(社司)家として永く守り伝えてきて、守屋家は物部氏後裔というから、両神社はたがいに縁があるのであろう。波宇志別神社は、現在、安閑天皇を主神とし火産霊神・スサノヲ神・大山祇神を配祀するというが、祭神の実体は不明である。
 『白鳥伝説』を著した谷川健一氏は、各地の物部一族を精力的に取り上げているが、唐松神社の物部氏については、同社が物部氏の祖のニギハヤヒを祀ること、祠官は代々物部姓を名乗って今日に及んでいること、近隣の荒川には鉱山があって金・銀・銅・鉛を算出し物部氏と鉱山との関係を暗示すること、を記すにすぎない。

 唐松神社の物部氏については、以上に記述したように裏付けのある起源がまるで不明である。傍証的なものからの推察にすぎないが、物部連一族ではなく、その従者の天物部二五部のうちの二田物部か芹田物部の流れを汲むようである。北陸には二田物部、芹田物部に由来する地名・神社がかなりあり、出羽には由利郡芹田邑があり、物部の始源の地に近い筑前国鞍手郡には二田郷のうちか近隣に芹田の地名も見える(すなわち物部本宗の出ではありえず、日本列島古来の久米部族の出か)。その場合、四世紀前半、垂仁朝の大幡主の越遠征の従者として北陸道に来て出羽まで至った可能性が大きい。那加世の一族は何代かを経て北陸を経由してきたという所伝もあるとのことであり、この辺と符合する。(この関連は、宝賀会長の著『越と出雲の夜明け』を参照のこと
 
 このほか、各地の守屋氏では、諏訪の神長官守矢(守屋)氏、秩父の社家守屋氏、飛騨守屋神社の守屋氏等々、これらの多くが「守屋」の名前から連想して物部守屋の子孫と伝えるが、すべて疑問が大きく信頼できない。
  
  (09.9.8 掲上)
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