土佐・若藤氏

(問い) 若藤氏については、現在高知につきあいのある親戚等居ない上、祖父が太平洋戦争にて戦死しているため情報が入手出来ずにいます。高知県高岡郡仁淀村高瀬の出です。

  自分で調べられた範囲で書くと、
@貴HP古樹紀之房間からは、
「清和源氏 頼義の子義光の流れ 佐竹一族  若藤?土佐国高岡郡人」という記事が見てとれました。
A他に佐竹一族の集いの掲示板にて書込みがあり、
若藤は高知県の四万十市中村から江川崎に向う国道441号線の途中にあり、少し行った所の山に若藤城があります。若藤氏は若藤城の城主で土佐一条家の家臣です。「高知県地名大辞典」に「若藤源大輔」の名があり、「若藤家は一条氏時代の大豪族で、中村宿毛方面で判明するだけでも3家あわせて39町2反余にのぼる」とあります。若藤家から久礼城主佐竹掃部少輔義之に嫁いだ娘から生まれた男子は、一条家と長宗我部元親との抗争の時期に母方の苗字で若藤越中守義永と名乗り宇和島で暮らし、子孫の1人・木工右衛門高豊が幕臣に登用されています。高知県内にも若藤姓が残っていますが、佐竹との関係等詳しいことは分かりません。
と掲示板主の佐竹氏より返事を頂きました。

  年代や当時の地理関係等いまいち理解出来ておらず、同じ流れなのか別物なのか、分かりません。
 上記内容以上の詳細な情報等有りましたら是非教えて下さい。
 以上 宜しくお願い致します。

 (若藤晃由様より。 2012.5.16受け)


 (樹堂からのお答え)

 まず要点的なものを述べますと、
 若藤氏の史料は乏しいのですが、東大史料編纂所蔵の史料がネットのデータベースにあり、そのなかに少し見えます。
 具体的には、清和源氏の常陸佐竹氏の庶流と称しており、頼朝時の佐竹秀義の子の秀繁(承久時に宇治川討死)の子孫という系譜を称しています。ただ、系譜に見える歴代数が少ないなどの事情がありますので、どこかに欠落か系譜仮冒があるのかも知れません。
 ともあれ、若藤そのものを調べるのではなく、土佐の佐竹氏(『姓氏家系大辞典』サタケの15項など)を広くあたるのがよいと思われます。

 貴信などを踏まえて、もう少し具体的に管見に入った主なところを書いてみます(以下は、「である体」で記す)。
(1) 現・四万十市(旧中村市で、土佐一条家の本拠)の四万十川中流域北岸に若藤の大字が残り、この地に土佐一条家の有力家臣として若藤氏が史料に見える。
(2) 『寛政重脩諸家譜』には、清和源氏にあげて、延宝年間(1673〜81)に杢右衛門高豊が御家人に加えられたとして、その子の房秋、その養子の房則が見える。
(3) 東大史料編纂所蔵の史料『土佐国諸氏系図』の第7冊に「佐竹系図」があげられており、そこには土佐の佐竹氏から若藤氏が分岐して、この一族の具体的な歴代があげられるので、次項以下はこの系図などに則って記してみる。

 土佐の佐竹氏と若藤氏の系譜
(1) 土佐の佐竹氏については、『姓氏家系大辞典』サタケの15項にかなり詳しく記事があり、山城の『革島家伝覚書』に「土佐の佐竹氏も義隆の末葉也」(「義隆」は隆義の誤記で、後ろにいう秀義の父)とまず見える。この革島氏は、常陸の佐竹一族という系譜を称した山城の有力国人であったが、実際の系譜としては、史料に藤原姓で見えることもあり、山城古族の末流ではなかったかと疑われる。しかし、土佐に佐竹氏があったことは『姓氏家系大辞典』にいうように、「佐伯暦応文書」や『南路志』などに見えており、高岡郡の名家で久礼(現・高岡郡中土佐町久礼)にあって南北朝期頃から見え、室町期には国司一条家に仕えたことが知られる。ただ、同辞典では、土佐における起源などは記されないから、佐竹氏族にあってどのような流れなのかは不明なままである。
(2) 『土佐国諸氏系図』の「佐竹系図」では、頼朝のときの佐竹秀義から始めて、その子の嫡流・佐竹別当義繁の弟に左衛門尉秀繁をあげて、この者が土佐の佐竹氏の先祖だとする。秀繁は、承久の乱のときに宇治川で討死したが、その子におかれる信濃守経繁は津野氏に仕えたとあり、その記事の大意は、関白(一条家の者とみられるが、誰に比定されるか不明)とともに土佐国高岡郡久礼に来て、この地を中心に付近一円を押領し、その子の左衛門尉光繁は「正安元年(1299)」(死没か?)、さらにその子の「信濃守義宗−主水正宗秀−修理之助光繁−信濃守繁末」と続いて、その子に玄蕃頭繁義(北村在城)と修理大夫義則(山北原在城)があって2系に分かれた。
(3) 玄蕃頭繁義の後から若藤氏が出たとされているので、この系統の人々を紹介すると、繁義は元亀二年(1571)に一条康政卿に仕えて阿波国で死去し、その子の久礼城主掃部頭義之は天正四年(1576)に長曽我部元親に仕え同十四年に戸波郷で津野氏と戦い大勇を振るった。その子に久礼城主信濃守義直(一に義通)は弓の達人で天正十四年(1586)に豊後国にて死去した。その子が兵部少輔親辰で、慶長五年(1600)頃に摂州堺に立ち退いたと見える。信濃守義直の弟・太郎兵衛義秀は上加江城主、弓の達人で元親七人の家臣のうちとされ、その子に内蔵助親直がいて、長曽我部盛親に属して大坂陣に参加し元和元年の五月七日に討ち死にしたが、その子に内蔵助某(母は元親の娘)がいた。
(4) 信濃守義直・太郎兵衛義秀の弟に若藤越中守義末と若藤三太夫義高(佐竹芝舜斎、医師)がおり、前者は一条康政卿に仕えて永正十四年(1517)四月に討死したとも大坂陣のときに籠城したともいう(この辺は記事に混乱があるか。系譜の年代から言うと、康政卿に仕えたとしておいたほうがよい)。
(5) 若藤越中守義末の子は記されないが、その末葉に若藤木工左衛門が御家(徳川将軍家)に奉仕して御納戸役を勤めたが、元禄二年(1689)に遠流となり、同十年(1697)に御免となって江戸近辺に居住した、と見える。

 前項に述べた「佐竹系図」は、『姓氏家系大辞典』サタケ15項とかなりよく合致しており、例えば、「永正の頃には佐竹掃部頭ありて、国司一条家に属す」とか、『南路志』に「久礼は佐竹信濃守義通、其の子玄蕃頭繁義などのありし地也」と見える、あるいは、上加江村椎葉稲荷社棟札に「大檀那佐竹下総守義直、延徳三辛亥(1491)十月」などと見え、「義直の子孫に義通、繁義などのありて、天文の末に亡びしか〔地名辞書〕」とも記される。
  この記事から言うと、系図に見える義直と義通とは同人ではなくて、先祖と子孫という関係であったのかもしれない。上記「佐竹系図」は年代に比して歴代数がやや少ないきらいもあって、所伝の世代の欠落があるかもしれない。また、遠祖の承久時の秀繁については、『尊卑分脈』には「承久乱宇治川被討了」と見えるものの、その子孫については記載がない。だから、秀繁の子孫がどのような経緯で土佐に至ったのかもよく分からない。多少の憶測を言うと、佐竹秀繁は、承久時に京方に味方して討死したものの、その子孫は公家一条家に仕えて残り、その所領の縁で鎌倉後期頃までに土佐に至ったのかもしれない。
ともあれ、中世の土佐で久礼あたりに佐竹一族が勢力をもち、国司一条家や長曽我部氏に属して活動したことが知られ、その一族から若藤氏が出たとされる。そして、『寛政重脩諸家譜』に見える延宝の若藤杢右衛門高豊にも、元禄の「杢左衛門」がつながることが分かった。
  ただ、地域的には問題がなくもない。若藤から見て、中土佐町久礼へは東北方約五十キロほども離れており、上ノ加江も久礼の近隣(南方約七キロで、同じ町域)にあるから、土佐の佐竹一族の者が元からあった若藤氏の家を継いだのかもしれないという可能性も残る。この辺は、先に述べた系図の記載不備にもつながるものである。これら不明な諸点は残るが、若藤氏について一応の追跡ができたということで、本稿はここで終えておきたい。

  (2012.7.16 掲上) 
    応答板トップへ戻る   
   ホームへ     古代史トップへ    系譜部トップへ   ようこそへ