雀部氏の動向

(問い) 雀部とは、どこに繋がって行く系統なのでしょう?
 何も知らないのですが… 。簡潔に遡れませんでしょうが、繋がって行く先の概要だけでもご教示下さい。

 (mekira様より)10.8.29受け

 (樹童からのお答え)

 雀部(サザキベ。後に、苗字ではササベと訓むことが多い)は、仁徳天皇(大雀命)の御名代(皇室関係者の名をつけた私有の部曲〔カキベ〕)ですが、全国的に多く分布しますので、一概に言えず、かつ、不明なことが多いので、とりあえず、史料に出てくるものを整理してみました。(以下は、である体で記す

 その伴造(トモノミヤツコ。部を管掌する氏族のなかで統率者の氏族)は雀部臣、後に雀部朝臣という姓氏ともち、武内宿祢の後裔で巨勢臣の同族と称していた。『古事記』では、神武天皇の皇子の神八井耳命の後裔とも記されるが、おそらく、これらは別族ではなく、筑後から起った巨勢臣一族という共通点があったものとみられる。巨勢臣の実際の出自は、筑紫国造・火国造と同族であったとみられる。
 雀部は全国的に分布し、その姓(カバネ)も臣、君、造、連、直、部(無姓で、部民)など各種あったから、これら姓に応じて系統も異なっていたが、畿内の雀部を中心に以下に記述する。畿内でも、京のほか、山城、大和、摂津、和泉に雀部があり、近隣の丹波・但馬にもあった。
 
 伴造の雀部臣については、祖の星河建彦宿祢が、応神朝に皇太子の大雀命に代わって御膳に奉仕し監督をしたので、その姓氏を負ったといい、その後裔も大膳職や内膳司の膳部(かしわで)に任じた者が多かった。そのなかでは、八世紀中頃の官人の雀部朝臣真人が名高く、内膳典膳正六位下で『続日本紀』に見え、大族の巨勢臣は本来が雀部臣だったと奏上した。その六世孫の祖道も貞観期に内膳典膳の官職で『三代実録』に見える。その一族で近衛府の武官になったものが史料に見え、「是国−重国−重季」の三代が『小右記』『御堂関白記』などに番長・左近衛府生や道長随身という身分で出てくる。
 これら一族とは、かなり早い時期に分かれた系統に、外記・算師という官職で現れる雀部宿祢姓の一派があり、十世紀代に大外記になった是連・有方親子が史料に見える。この系統の子孫は平安後期頃まで系譜に見えるが、それ以降は不明となっている。
 
 平安前期の『新撰姓氏録』には、雀部は左京の雀部朝臣と摂津の雀部臣があげられている。摂津国菟原郡に起った雀部氏は、京都の雀部氏との具体的な系譜関係は不明であるが、大島雀部荘(尼崎付近)の土豪として戦国期に細川氏に属して活動しており、戦国時代の『細川両家記』に活動が見える。すなわち、永正16年(1519)、細川高国と同族細川澄元との合戦では、摂津国大島住人の雀部与一郎・次郎太郎兄弟が高国方で、澄元方の田井蔵人(堅頼)の首を取るも、雀部兄弟も傷を負い、後日に死亡したことが見える。
 その後裔と見られるのが、河内国高屋城主三好康長の配下にあった雀部玄蕃充重政(生没が1559〜95)であり、のち豊臣秀次に仕えて馬廻組頭となり、1590年には従五位下淡路守に叙位任官して、豊臣姓も許されたが、1595年には秀次を介錯したうえで、主君に殉じて死んでいる。この同じときに、雀部伊豆守の子という蒔田淡路守も自刃しているから、両者は兄弟くらいの近親にあったものか。
 雀部重政の子孫は江戸時代に旗本で残り、八百石取りで、家紋は 剣花菱、清和源氏と称した。その遺子重次が長じて家康の小姓に召され、近江に采地を与えられたものである。
 この系統は、阿波にも雀部があったこと及び三好氏配下ということで、阿波出自ではないかという見方もあるが、おそらく、実際には摂津古族の末裔とみられる。
 
 このほか、和泉の堺あたりにも雀部氏が見られる。戦国末期に大鳥郡家原城に拠る雀部次兵衛(治兵衛)らが見え、永禄十二年(1569)に三好笑岩(康長)ら三好一族に攻められて落城、討死をした。
 また、『和名抄』には丹波国天田郡に雀部郷が見えるので、この地から起った雀部氏もあり、『丹波志』には雀部鍛冶も見られる。
 
(2010.9.2 掲上)
 
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