三浦貞連の位置づけ

(問い)元亨三年(1323)、北条貞時13回忌に銀剣一振などを奉納したと円覚寺文書にある三浦甲斐六郎左衛門尉(貞連)の系譜についての質問です。
 以前、馬場美濃守の系譜についての樹童様の論考において、三浦貞連についての記述があり、三浦行連(従五位下、甲斐守、十郎左衛門尉)の子として貞連(六郎左衛門尉)があり、この者が武田氏一条時信の養子となり、諸子として宮田太郎貞明、芦名大夫判官貞清などがあるとしています。しかしながら、貞連については、ほぼ同時代に佐原盛連を祖とする者が3名、盛連の弟・政連を祖とする者が1名、合計四名が系図に見えます。盛連を祖とするのは、@会津葦名一族の三浦政盛の子、貞連(六郎左衛門尉)、A甲斐守行連の子、貞連(六郎左衛門尉)、B安芸守時明の子、貞連(六郎左衛門尉、因幡守)であり、政連を祖とするのはC少納言房実雅の子、貞連(十郎)です。
 
質問1:冒頭に挙げた三浦甲斐六郎左衛門尉貞連は、@、A、B、Cのいずれの貞連にあたるのでしょうか。
質問2:また貞連については、武田一条氏時信から佐原流三浦氏の養子となったと主張する系図(@−系図纂要、A−a諸家系図纂、b清和源氏740氏族系図(千葉琢穂著)、c群書類従 武田氏系図、巻121)と、逆に三浦氏から武田一条氏時信の養子となったとする系図(郡書類従 武田氏系図、巻122)があり混乱しています。さらに@〜Bの貞連が全て六郎左衛門尉と記述(系図纂要、諸家系図纂)など不自然な印象があります。
質問3:質問2と関連して、三浦氏と甲斐武田一条氏との間で養子関係が成立したとした場合に、「三浦甲斐六郎」左衛門尉という呼称は、養子関係の方向性(一条氏→三浦氏あるいは三浦氏→一条氏)の実態を決定しうる材料となるでしょうか。
 貞連の実系についての整理の仕方について御教示をお願いします。
 
 (安部川様より 2010.12.27受け)
 

 (樹童からのお答え)

 ご指摘のように、三浦一族ではほぼ同時代(鎌倉後末期〜南北朝初期頃)と思われる位置に「貞連」を名乗る者が四名も見えますので、たいへん混乱を感じます。これらを整理する端的な史料は系図史料はあるものの、文書などの確実な史料に乏しいため、確定した考えとしては示せませんが、現段階の一応の答を提示して、今後の整理に向けての一助にしたいと考え、「三浦貞連」について を整理してみましたので、ご覧下さい。
 
質問1:冒頭に挙げた三浦甲斐六郎左衛門尉貞連は、@、A、B、Cのいずれの貞連にあたるのでしょうか。
 <お答え>
 
『東鑑』(
吾妻鏡)など鎌倉期以降の史料によく見える名前の表記法ですが、人名の表記が、苗字に続けて、次ぎに「1 父(ときに父祖)の官職・出生順を表す通称+2 自分の出生順を表す通称(排行・輩行)+3 官職(官職的な通称)」を記し、その後に実名をあげるものがあります。
 ご質問の例からいうと、最初の「甲斐」は父の受領名(甲斐国司)、次の「六郎」は自分の出生順関連の「排行・輩行」としての通称、最後の「左衛門尉」がこの貞連の官職名となりますから、その父は「甲斐守行連」とするのが妥当となります(Aに当たることは確かだが、養猶子関係を考えると、他の貞連と同人ではないとは必ずしも言い切れない点もある)。
 年代を考えると、一般的には概ね鎌倉初期の頼朝殿のときの人々の世代を第一世代とすると、南北朝初期の建武年間に活動した世代は第六世代となる傾向があります。きわめて大掴みに言えば、各世代の活動期間は、「頼朝殿−@承久年間頃−A建長年間頃−B弘安年間頃−C正和年間頃−建武年間頃」に世代配分がされると考えれば、よいように思われます。ところで、上記の貞連のうち、因幡守貞連は、『梅松論』にも見える有力武者で活動が最も知られます。
 すなわち、今谷明氏は、建武2(1335)年の中先代の乱で兄時継が北条時行方についたため、室町幕府で尊氏は貞連を登用。佐々木仲親と共に侍所頭人に任ぜられた。建武4/延元2年には甥の高継が頭人となったが、その後の三浦氏は振るわず動静も明らかでない。」と記します(朝日日本歴史人物事典』の主旨)。貞連は、安田元久編『鎌倉・室町人名事典』にも掲載があり、「因幡守に任ぜられ、建武二年(1335)、足利尊氏の京都進攻の際にこれに従う。十二月、侍所であったことが知られ、翌建武三年・延元元年(1336)正月十七日、三条河原の合戦の際も、佐々木仲親とともに侍所として首実検を行っている。同月二十七日、賀茂河原の合戦で討死」と見えます。(※なお、今谷明氏は、「時継の父の時明」と「貞連の父の時明」を同人とみていますが〔従って、貞連の甥に高継を考える〕、前者は三浦介〔相模大介〕で、後者は安芸守であって、それぞれの父も、三浦介頼盛、杉本下野守宗明と異なり、あげられる兄弟も異なりますから、別人としておいたほうが自然のように思われます。ここにも、同時代の時明が二人見えるわけです。
 ところで、系譜に見える「A甲斐守行連の子」のほうが「B安芸守時明の子」よりも一世代早いことにも留意すると、元亨三年の三浦甲斐六郎左衛門尉(貞連)がAで、これと別人のB因幡守貞連がいたとみることもできますが、年代の近接性からは、A甲斐六郎左衛門尉がその後に因幡守に任官したとも受け取られそうで、判断に迷うところでもあります。なお、会津葦名一族の@貞連は長井太郎左衛門尉政盛の子で、その子に二郎時連・三郎資連があったというから、上記A及びBの貞連とは地域も明らかに異なり、これも別人であろうとみられます。
 結論的には、兄弟などを考えると、Cの貞連とも別人で、四人の貞連がいたとするのが妥当なところではないかとみられます。
 
質問2:貞連については、武田一条氏の時信から佐原流三浦氏の養子となったと主張する系図(@−系図纂要、A−a諸家系図纂、b清和源氏740氏族系図(千葉琢穂)、c郡書類従 武田氏系図、巻121)と、逆に三浦氏から武田一条氏時信の養子となったとする系図(郡書類従 武田氏系図、巻122)があり混乱しています。さらに@〜Bの貞連が全て六郎左衛門尉と記述(系図纂要、諸家系図纂)など不自然な印象があります。
 <お答え>
 
上記四名の「貞連」がCの「十郎」を除き、ほとんど全てが六郎左衛門尉と表記されていて、ほかに通称・事績が記されないのも、混乱の要因となっています。どこかに誤解・誤記があったか、一人が多くの人と養猶子関係を結んだのかは判断がしにくいところです。結論的には、上記のように皆が別人とするのが妥当そうです。
 『姓氏家系大辞典』ミウラ条第23項には甲斐の三浦氏があげられ、八代郡本栖村の名族として、『諸家系図纂』を引いて一条信長の孫の時信(甲斐守、甲斐守護代)の子に「貞連(号三浦郎左衛門、三浦甲斐守養子)」と記しています。この記事だと、甲斐の三浦氏は貞連の子孫とみられることと、貞連が「三浦甲斐守養子」すなわち三浦甲斐守の養子となったとされますが、事実は「三浦甲斐守子、為養子」の誤記か転訛ではないかと考えられます。この貞連は、「A甲斐守行連の子」と考えられます。「B安芸守時明の子」の因幡守貞連は、初名貞明といい、その諸子としては芦名大夫判官貞清、芦名下野守貞久、四郎久家、僧義誉などが伝えられ、その後裔諸氏も見えますが、甲斐居住の者が見えません。因幡守貞連の子孫には、その父・時明の名乗った「安芸守」という通称をもつ者が多く見られます。この貞連の母は、一族の大多和行季の娘と伝えられ、甲斐との関係も知られません。
 これら後裔諸氏としては、三浦郡に宮田(現三浦市)、芦名、走水(現横須賀市)、大住郡に馬乳(現平塚市馬入)があり、横須賀時連の後裔にふさわしい分布をしています。こうしてみれば、甲斐六郎左衛門尉貞連と因幡守貞連を別人とするほうが良さそうであり、その場合、同人として記載した当HPの馬場美濃守関係記事は誤りであったことになります。
 
質問3:質問2と関連して、三浦氏と甲斐武田一条氏との間で養子関係が成立したとした場合に、「三浦甲斐六郎」左衛門尉という呼称は、養子関係の方向性(一条氏→ 三浦氏あるいは三浦氏→ 一条氏)の実態を決定しうる材料となるでしょうか。
 <お答え>
 上記の貞連たちの先祖は、頼朝に仕えた三浦佐原十郎左衛門尉義連であり、義連は甲斐の武田信光の娘を妻として遠江守盛連を生んでおり、この頃から甲斐武田氏と相模三浦氏との縁が生じていたとみられます。遠江守盛連の三世孫が甲斐六郎左衛門尉貞連であり、四世孫が因幡守貞連及び会津葦名一族の貞連であると位置づけられます。もう一人の貞連は盛連の弟・政連の三世孫となっています。
    〔以上は次の関係系図参照のこと〕 

 貞連が養父とした時信も、「甲斐守、甲斐守護」に任じており、「三浦甲斐六郎」の受領通称の甲斐がどちらの父から由来するのかは不明ですが、実父の三浦甲斐守から来ている可能性のほうが大きいと思われます。 
 
  (2010.12.29 掲上)
  
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