山城の橘姓岩下氏

T 来信内容(2015.04.22受け)   ※趣旨は適宜、記載 

 このたびは橘姓岩下氏について聞きます。
 岩下氏について、『寛政重修諸家譜』(巻第千三百七十二)に、「岩下 先祖山城國岩下郷に住せしより家號とす」と記されます。しかしながら、管見の限り山城国に岩下郷という地名を見つけることができません。信濃国の海野氏の一族(小県郡海野庄岩下郷)の誤りかと考えていた矢先、貴webページの「物部氏族概観()」というページにおいて、「風早直(風速直)、(中略)善友朝臣(岩下−山城国人)、物部首、物部朝臣」とあるのを見つけました。山城の国人に物部氏族の岩下を名乗る一族が居たということでしょうか。 もしこの善友朝臣や岩下氏について詳しいことがお分かりでしたら、ぜひ教えてください。
 
 (鈴木浩史様より、15.4.22受け)


 (樹堂からのお答え)

 山城の橘姓岩下氏については、『寛政重修諸家譜』に掲載があることから、苗字の本には取り上げられていることが多いのですが、それ以上の検討記事は見たことがありません。そもそも、山城国に岩下郷という地名を見出すことができない事情にあり(平凡社の日本歴史地名大系、角川の地名大辞典とも)、現在の京都市に住む岩下という苗字の人たちを見ても、市内各地に分散していてなんら手がかりをえません。
 ところで、 『古代氏族系譜集成』では中巻の物部氏族、「20風速国造風速頭、佐夜部首、善友朝臣」の項に、先祖から鎌倉初期の頼朝殿のときの光政までの具体的な歴代の名の系図を掲載しており、『寛政譜』の山城の橘姓を含めての手がかりから、どこの地か捜してみました。この辺の考察を以下に記します(以下はである体)。
 
 この一族の具体的な系図の詳細は、『古代氏族系譜集成』の当該個所を見ていただくこととして、原典は鈴木真年編著の『百家系図稿』巻2「善友朝臣」系図にあって、『旧事本紀』天孫本紀に見える饒速日命第十世孫の物部伊與連公に当たる阿佐利連から始まり、子孫の牛甘が摂津国難波の狭屋部邑(西成郡讃楊郷で、大阪市中央区高津あたりかという)の子代屯倉を管掌したことから佐夜部首の姓氏を負い、その七世孫の頴主のときに直講となって承和六年(839)に善友朝臣姓を賜り、左京四条二坊に貫した。その子孫は、長子の主計允飯成の後が八世代続いて系図に見えるが、その後の行方は不明となる。
 飯成の弟・広主の後の系統がその後も続いており、平安後期頃の十二世紀代にあたると思われる系図部分をみると、「……光長刑部少録−光守能登権介−光範帯刀−光政雑色」とあって中下級武官をつとめており、系図の最後の世代が光政で、「鎌倉殿(頼朝のこと)のとき」と見え、山城国の岩下の粗と記されて終わる。こちらの系図には、橘姓を称したことは見えない。
 一方、『寛政譜』では橘姓のなかに先祖が山城出自という岩下氏をあげるが、初代が寛永のころの之房で、それより前の世代は記されないから、この2つの系図が実際につながっていたとしても、中間の歴代については、ほとんど手がかりをえない。
 
 そこで、平安後期頃の通字風の「光」と橘姓で、鎌倉期の史料『鎌倉遺文』にあたったところ、安貞2年(1228)10月17日付けの「西念田地譲状」(第6巻所収の3785号。原典は東寺百合文書ミ)という文書に当たった。これは、左京九条(その割注には、左京職内にあって、「石田」と号する地)の田地は、西念なる者が先祖相伝してきたが、これを「橘次兵衛尉光貞」に譲与するというものであり、西念は橘次兵衛尉光貞の父とみられる。そうすると、年代的に見て、上記系図に見える頼朝殿のときの光政に当たりそうである。
 この左京九条の「石田」という地はどこかというと、山城国紀伊郡にあって、いま京都市南区東九条石田町からその南接の南石田町にかけての地だとされ(鴨川西岸部で、JR京都駅の南方)、この文書の地名が史料の初見とされる(『角川地名大辞典 京都府』)。橘次光貞が岩下氏の先祖であった場合には、いま「石田」は「いしだ」と訓むが、昔は「イハタ」と読んだことも考えられ(伏見区〔旧宇治郡〕のほうの「石田」は「いわた」と訓む)、その地域の下半分(南方部分か)が「岩下」と呼ばれたのではなかろうか。その地に居住したことに因む苗字が岩下であろうと思われる。
 この東九条の地域は、摂関家の九条家の主な家領の一つ、「東九条荘」として発展をしたが、藤原忠通のときに菅原氏が下司をつとめ、その後、鎌倉中期頃から宇治宿祢姓(物部氏族)で同郡石井に起る石井氏が九条家諸大夫をつとめるとともに下司職も世襲したことが史料から知られる。橘次兵衛尉光貞の子孫にあたりそうな者は見えない。それでも、九条家とか朝廷の下級官人として江戸期まで続いていたのであろう。
 
 『寛政譜』では、初代にあげる市大夫之房とその子で第二代の久兵衛之則には、二代続いて「鳥見役」という奇妙な職掌が記されており、おそらくこの特技をもって、幕府に仕官する途を得たのではなかろうか。
 「鳥見役」とは、鷹狩場の管理と将軍などが鷹狩をする際の準備にあたった役人で、若年寄の下に十人が鳥見に任じられ、正式な役職として成立したのは寛永二十年(1643)のことだとされる。之房は、「寛永九年、御徒に召し加えられ、のち鳥見役をつとむ」と見えるから、こうした幕府内の職掌整理の動きにもほぼ符合するといえよう。鳥見頭は2名で200俵高など、鳥見(当初10名、最終的に32名)で80俵高などとされており、之則の実定で養嗣として第三代となった唯右衛門之峰が遺跡を継いだ後に御勘定に転じて碌米百俵と見えるから、この家は下の方の鳥見だったのであろう。
 
 物部氏族の出なのに橘姓を称したことに奇妙な感じをうけるかもしれないが、平安中期に純友追討の功があった橘遠保(伊予の小市国造支流の出で、従六位上美濃介に任じた)の例に見るように、駿河・遠江や伊予あたりの物部氏一族で橘氏を冒姓するものがかなりあったし、佐夜部首氏も駿遠や伊予に関係した(遠江の佐夜直・久努国造や伊予の風速国造と近い一族)から、その意味でとくに問題はない。
 
  (2015.4.23 掲上)
 
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