甲斐の飯富氏とその一族

(問い)我が家には、一応『家譜』といわれるものがありますが、その内容に恐らく間違いがあると思います。記述中で、江戸中期に罹災したため、江戸後期に聞書きで書直したとされており、正直そのままでは使えません。
 
 『家譜』前半の部分では、武田家の臣であった者が山城神足の星出家より妻を縁組し、戦死したため、妻が実家に戻り、息子が外祖父の養子となり、後に星出の姓を名乗ったとされています。
 江戸期の熊本においては、細川家老である米田監物の家中として代々あり、明治になり一族で「飯冨」に復したとされています。星出以後は子孫として信じる他はないと思います。
 
 それ以前の飯冨について知りたいのですが、我が飯冨氏の出自について一般的な見解はどうでしょうか。
 なお、熊本では権五郎景政の末流と称していたと、同じく『家譜』に書かれています。紋は、▲▲(二つ鱗)が鎧櫃(中は空)についていました。
 
 (熊本県 飯冨様より、2010.12.2受け)

 (樹童からのお答え)

1 飯富の起源
 「飯富」の苗字は、いまは地名としても「イイトミ」と訓む場合のほうが多いが、信玄家臣の飯富兵部少輔虎昌で知られ、虎昌の苗字は「オブ」と訓み、これが本来の訓みで「飫富」とも書く(飯は飫の転訛)。この「飫富」は「オホ」というのが古訓で、古代氏族の「多(太)」臣氏に通じるとされる。多臣氏の本拠は大和国十市郡飫富郷と『和名抄』に見える。
 多臣氏は畿内のほか、東国の信濃や常陸・房総などに支族を分出したことで、「飫富、飯富」という地名や苗字が全国にいくつかあっても不思議はないが、中世に「飯富」の地名が残るのは常陸国那珂郡(もと大部。現水戸市飯富町)、上総国望陀郡(現袖ヶ浦市飯富)と甲斐国巨摩郡(現南巨摩郡身延町飯富)であり、これら常総の地に古代、多氏族が根ついた。常陸では那珂国造が出て、房総では望陀郡に式内社の飫冨神社、『和名抄』飫冨郷があり、安房の長狭国造、下総の印波国造があったが、これら三国造家はおそらく科野国造の分岐で、倭建命の東征に随行してきて常総に定着したものとみられる。常陸と上総とで、中世武家の飯富氏が起こり(常陸は平姓というから常陸大掾一族と称したか)、上総の飯富氏に関係ある源宗季が甲斐の武田一族・逸見光長の猶子となったことで、甲斐の南巨摩郡飯富村に住んで、この地にも飯富氏があった。このなかで著名なのは最後にあげた甲斐の飯富氏であり、中世で名前が見えるのは殆どこの氏である。
 
 貴家の先祖が武田家臣の飯富氏とのことであるが、信虎・信玄・義信の三代に仕えた飯富虎昌が著名なわりに、この氏の系譜はほとんど伝わらず、今の段階で分かった範囲で、飯富氏の系譜を記してみたのが、次項以下である。
 
2 甲斐の飯富氏の通行する系譜
 甲斐の飯富氏の起源は、『東鑑』及び『尊卑分脈』に見える。すなわち、源満政流の源廷尉季貞(満仲の弟・満政−忠重−定宗−重宗−重時=季遠−季貞)は源平争乱のときに平家方に味方し、捕虜となったが、その子(『尊卑分脈』には見えないから、猶子の可能性もあるか)の源太宗季が上総国望陀郡飯富荘の外戚の縁で飯富を称し、甲斐源氏の逸見冠者光長(源太清光の子で、武田太郎信義の兄弟)の猶子となり、宗長と名乗ったと『東鑑』元暦二年(1185)六月五日条の記事に見える。宗季は矢作りが上手く、御家人に登用され、頼朝の奥州藤原氏征伐のときにも出陣した。その子が『東鑑』に見える飯富源内長能とみられるが、逸見光長の「猶子」といっても比較的弱い関係であったか、武田一族の系譜には飯富氏の系譜は殆ど記載されない。このため、鎌倉・室町期の系譜は伝わらず、甲府市太田町の『一蓮寺過去帳』寛正文明頃に飯富氏が見え、戦国時代の永正十二年(1515)、「飯富道悦、源四が討死にした」という記事が知られるくらいである。道悦の子あるいは孫ともいうのが、武田信虎・信玄の二代に仕え赤備えで有名な飯富虎昌である。
 飯富虎昌は、武田家の譜代家老衆で、天文五年(1536)に武田信虎の命で信州佐久郡の平賀源心が守る海ノ口城を晴信とともに攻めて落とし、同八年にも北信の豪族村上義清の居城である葛山城まで攻め入り村上軍と戦った。天文中に佐久郡内山の城主としてあった。天文十年(1541)の信虎と晴信の親子確執の際、板垣・甘利らと共に信玄擁立派の中心的人物として、父・信虎を追放する信玄のクーデターを成功させた。信玄の厚い信頼があって、晴信に嫡子・義信が誕生するとその傅役となったが、永禄八年(1565)八月に義信が父に対する謀反を企てた際には、虎昌は、弟の飯富源四郎を通じてクーデター計画の話が漏れるように画策して、この不発のクーデターの罪を一身に負ったかたちで虎昌は同月に自刃した。
 弟の飯富源四郎は、後に山県三郎兵衛昌景と名を改めたが、これは武田信虎に諫言して成敗され断絶したという山県虎清の跡を継いだともいわれる。山県昌景は信玄の家老として活動し、武田二十四将に数えられる。川中島の戦いや駿河侵攻など主要な合戦に参加して、駿河国の江尻城代をつとめたが、天正三年(1575)五月に三河長篠合戦で勝頼に従い討死した。『相州争乱記』に永禄五年(1562)三月の甲州勢として見える飯富源四郎景仲にあたるものとみられる。
 虎昌の子孫としては、江戸初期の浪人古屋昌光は虎昌五世の子孫(玄孫)とされ、虎昌自刃のとき四歳の遺子坊丸は、知人がかくまい、京都三条家で養われて古屋昌時と名乗った者の子孫だという。のち巨摩郡飯富村に戻って、子孫は古屋姓として続いた。
 なお、『尊卑分脈』には、源義家の子で正嫡の左衛門大尉義忠の子にあげられる忠宗が「飯富源太、内舎人」と記されるが、その子孫がまったくあげられず、忠宗の「飯富」がどこの地名に因るのかは不明である。一説に、忠宗の子に季遠を考え、「季遠−季貞−宗季」と考える見方もあるが、季貞の父・季遠については、『尊卑分脈』に重時の養子で、「刑部卿平忠盛の青侍也、本は若狭国住人」と見え、上記『東鑑』の記事からは宗季の外戚が飯富氏とされるので、忠宗の子に季遠をおくのは無理であろう。
 
3 中田憲信の史料などから考えた山県・飯富一族
 前項までは、『姓氏家系大辞典』『尊卑分脈』など記事をもとにまとめたものであるが、このHPとしてもう少し突っ込んだところを記す必要もある。そこで、鈴木真年翁関係の史料を当たったところ、中田憲信編著の『諸系譜』第六冊に所収の「甲州山県系」という系図が目にとまり、これが参考になると思われるので、これを紹介しておく。
 
(1) 甲斐の山県(山縣)氏については、清和源氏多田氏の支流とされており、頼光流の源三位頼政の叔父(多田蔵人頼綱の子、仲政の弟)の国直は、美濃国山県郡に住み、山県三郎と名乗った。その子の国賢の後、七代目に武田の支流の加賀美氏から家信が養嗣に来て応永中に家督を継いだが、この経緯で甲斐に移住して、山縣氏の本拠は甲斐に移る。家信の子孫で十四代目(初祖からにしないと、世代が多すぎる?)に山県河内守虎清がいて、武田信虎に討たれて一時、断絶したが、その家を信玄の時代になってから、飯富虎昌の弟・飯富源四郎昌景が継いで、山縣三郎兵衛昌景となる。このような系譜を『武田家旧温録』『山縣大貳・家系と出生』などが伝えている。
 『諸系譜』第六冊には、「大貳自写之本」という「山県」系図も所収されており、この系図には歴代が記されていて、国賢も家信も見えるが、昌景とその父・虎清の二代はよいとしても、それ以外の部分の系図には疑問が多そうである。山県大貳が自ら創り上げた系図かもしれない。
 
(2) 上記の山県系譜は中間に名前不明の世代がかなりあって、具体的ではない部分があるし、山県三郎国直の子には「国賢」なる者が『尊卑分脈』に見えないという問題点もある。一方、『諸系譜』所収の「甲州山県系」は貞純親王から始まり、歴代を昌景などまで記すから、「甲州山県系」のほうが信頼できそうである。
 それに拠ると、山県三郎国直以降は、その子の「国時−国盛−国綱−国氏−修理亮国経(その弟・国兼)−経持」まで『尊卑分脈』に見えるとおりであり、山県掃部助経持の子の兵庫助国宗のときに甲州に遷住し、その子・中務少輔国成−兵部少輔昌成と続いて、昌成は巨摩郡飯富に住んで長禄元年(1457)三月に死んだと見える。『一蓮寺過去帳』には、永享五年(1432)の山県主計、長禄元年の馬場合戦に討死の山県出雲が見えるが、「甲州山県系」の記事と対比すると、山県主計は中務少輔国成に、山県出雲は兵部少輔昌成に相当し、両文書の符合も分かる。
 なお、国経・国兼兄弟のときが南北朝争乱期のはじめ頃にあたり、美濃の山県氏の惣領は弟の大炊助国兼が継いだ。国兼は暦応・康永(1338〜45)の頃に活動し引付一番手の奉行をつとめ、その子の氏頼は尊氏の偏諱をもらったといい、この流れが美濃山県氏の嫡統となって、子孫には幕藩大名となった関氏も出したとされる。
 上記(1)に見える甲斐遷住の応永の主計家信は、「甲州山県系」には見えないが、世代的に見ると、兵庫助国宗が応永ごろに当たり、かつ、この者が甲州遷住をいわれるから、主計家信に当たりそうである。
 また、修理亮国経の子で経持の末弟の中務丞義持の子孫が安芸にあって、明治の元勲・山県有朋を出したという系譜が『姓氏家系大辞典』ヤマガタ条の第17項に見えるが、そこに記載の「義持−忠守−五郎為忠−小太郎国忠……」という系譜には大きな疑問があり、「甲州山県系」には義持の子に主膳正義正をあげるのみである。おそらく、安芸古来の豪族で安芸国造末裔の凡氏の出で、頼朝殿の時の『東鑑』に見える山方介為綱や同書・元久元年(1204)七月条に見える山形五郎為忠の後裔であって、毛利興元・元就に仕えた安芸山県庶族の山県元照の後裔が山県有朋であろう。
 
(3) 甲斐の山県氏に話を戻して、兵部少輔昌成の後は、その子の兵部少輔昌信、その子に虎清(山県二郎、河内守、兵部大輔)・昌清(飯富兵部少輔)の兄弟がいたとされる。虎清は永正十六年(1519)九月に忠死し、昌清の子に飯富虎昌・山県昌景兄弟があげられる。この系図に拠れば、山県昌景は伯父の虎清の跡を継いだことになる。
 その子孫については、長篠の戦いでは昌景と嫡男・甚太郎昌次が討死して、家督は次男の源四郎昌満が継いだが、織田信長による武田氏討滅で処刑された(1582年。藤沢山県氏の祖)。その後、一族縁者は散り散りとなり、越後の上杉氏に仕えた者、越前松平家の家老となり越前山県氏の祖になった者、徳川家臣となった者等々がいた。また、上野国豊岡・藤川に逃れて、豊岡の山県氏の始まりとなったともいう(『群馬県姓氏大辞典』)。江戸期の山県大弐も甲斐北山筋篠原村(山梨県甲斐市)に住んだ族裔だという。
 
(4) 「甲州山県系」には余白部に飯富氏についても書込みがあり、一説に武田氏の祖・逸見源太清光の子の飯富光賢の末裔といい(『尊卑分脈』には光賢の名は見えるが、後裔に飯富氏は見えない)、文明中の人、飯富兵衛太郎某の子に縄長(飯富帯刀左衛門尉、入道道悦)がいて、永正十二年(1515)十一月に武田信虎に従って大井庄合戦で討死し、その子の飯富某の子が飯富虎昌ともされる。上記の(3)と併せ考えると、飯富道悦・源四郎親子が死んだことで家が絶えた飯富氏の跡に同郷の山県氏から昌清が入って飯富兵部少輔となったものであろう。
 昌清の子の虎昌の子には飯富三郎虎景と古屋弥右衛門尉昌時(坊丸)の二人があげられており、飯富虎景は父に先立ち、天文七年(1538)七月の韮崎合戦のとき享年二十歳討死し、その子の景友は大木新兵衛と名乗って駿州大宮に住み、その娘は大木三郎昌忠の妻となったと記される。
 『諸系譜』第33冊の1に所収される「八代家系譜」には、清光の子に光賢をあげ、「飯富七郎、修理亮。居巨摩郡飯富村。初出家禅師房還俗」と譜註があり、その子に飯富右馬允康光を記すから、こうした一派もいたものか。ただし、後述するように、飯富兵部虎昌の系は、この系統ではない。ちなみに、この系譜には、光長の末子に宗長をおき、「飯富源太 実源大夫判官貞男、光長為子」と記事がある。宗長の子孫は記されない。
 
(5) 貴家の先祖が山城神足の星出家と縁組みして、「星出」を名乗ったというが、この苗字も少なく、系譜不明であるが、熊本細川家の先祖藤孝が山城の西岡の勝龍寺城主であったことから、京都近郊の武家諸氏が多くこれに従ったものであろう。室町幕府滅亡までに藤孝に従った武士のなかに、勝龍寺城の隣村、神足村の土豪であった神足掃部もいた。
 また、貴家が権五郎景政の末流と称していたという事情は、飯富源四郎昌景や飯富三郎虎景という「景」の名をもつ先祖がいたことの訛伝ではなかろうか。
 なお、米田氏は大和の越智一族の出であるが、壱岐守求政ははじめ将軍足利義輝に仕えた御膳番であったが、永禄十二年(1569)から細川藤孝に仕え、子孫は熊本藩主細川家の重臣として続いた。 

 (2010.12.4 掲上。12.7追補)
  
  応答に続く

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