甲斐の飯富氏とその一族 (2) 応答など



 <飯冨様よりのお返事  2010.12.5受け>

 有難うございました。いろいろ調べていただき大変うれしく思っています。
確かに甲斐の飯富兵部の眷属は、甲州武田軍団の代表格とも言え、当時からまた江戸時代にあってもかなり価値のあるブランドとして珍重されていたと思います。その系譜に繋がると謂われれば、確かにそうなのかなと思いたいところです。
 
 ただ一つお伺いします。貴方は、他の可能性をすべて消去する論拠をお持ちでしょうか。
 戦国の武田家としたら他にもあります。安芸と若狭とそれと伊豆かな?。
そこにも飯冨(いいとみ)が家臣として仕えていた可能性はないのでしょうか。実は、我が家の家譜にも、先祖を甲斐の武田家臣としています。
 であれば、我が家の先祖は兵部の眷属ということになりますが、先年、私は山梨県の南巨摩郡身延町飯富にお住いの兵部の子孫にお会いし、平姓の鎌倉権五郎景政についてお伺いしたところ、首をかしげておられました。
 家紋も「月星」とは違いますが、そのことにはお答えではないようですね。
兵部誅殺に当たり、ご説明の事情であれば、山県昌景が弟(義理としても)として、ほとんどの眷属は彼が受継ぐでしょう。であれば、その中の我が家だけが敵方の織田勢力下の武家と易々と縁組ができるでしょうか。
 
 私は、家譜のその辺りに疑問を持ち、再検討を始めました。
今までも各方面からご指摘を得ながら考えてきましたが、少なくとも、甲斐の飯富(おぶ)氏につながるというのは、事実ではないと考えます。恐らく、江戸後期の系図の復元に当たって、その頃でも盛行していた甲州武田ブランドに肖ったのではないでしょうか。
どうも貴方を試すような問いかけをしてしまったような気がして、申し訳ない思いです。
 勿論一般的にといえば、やはりよく知られている飯富兵部に辿り着くということになるのですね。
 

 (樹童からのお答え)

1 飯富氏についての記事
 最初のお答えは、「飯富」の苗字について、分かるところを記したものであり、貴家の具体的な系図は不明であり、これについてお答えしたものではありません。
 また、一般論として言えば、ある家がその主君とともに滅亡して、歴史の表舞台から消えた場合には、それ以上の追跡は不可能な場合が多いものです。また、平家の落人、頼朝の落胤などといった、落人・落胤の伝承は、まず殆どが後世の作り事にすぎない場合といえそうです。系譜には訛伝も多いので、少し誤りがあったからといって、全てを否定してよいわけでもありません。
 ただ、武田家の場合は、同家家臣団の武名が高かったせいか、徳川家康が積極的に召し抱えたものが多く、あるいは戦った上杉氏の家中にあったり、関ヶ原で大碌となった土佐の山内氏などが召し抱えたりという例が見られたから、少し例外かも知れません。だから、個別に具体的な所伝を検討する必要があると思われます。

2 諸国の飯富氏の例
 中世の武家の移動や分岐のなかに、主君の任地・領国に付いていくことで、その起因となった例が見られ、例えば、足利一族に従った遊佐氏が諸国にあるのもそうしたものとしてあげられます。武田氏の場合には、甲斐のほかに守護となった安芸、若狭があり、上総にも有力な支族がいましたから、これらの地に甲斐からその家臣団の分岐があった例は見られます。逸見や山県などは若狭にも見られます。
 ただ、甲斐の飯富氏はあまり有力ではなかったせいか、『姓氏家系大辞典』イヒトミ条に見られるように、甲斐から諸国への分岐はなかったようで、常陸・上総に別族の飯富氏があげられるのみです。

 貴家の先祖については不明ですが、諸国の諸氏においては、著名な氏や者がいると、系図をそれに仮冒する例が多くありますので、事実は家伝どおりではないことが多くあります。貴家の江戸期に名乗っていたという「星出」については、かなり稀少な苗字で、山口県辺りに少しあるようですが、この辺の事情分かれば、あるいはなんらかの手がかりになるかもしれません。
 飯富兵部の遺子が京都の三条家にあったというのは、公家の三条家と武田氏が縁組みをしていたことからいって、ありえないわけでもなく、『諸系譜』第6冊には、遺児坊丸が古屋弥右衛門昌時となり、その子以下が「古屋吉左衛門昌安−市之丞昌尹−市之丞(与次右衛門)昌光」と見えております。山県昌景の男系も、「源四郎昌房−大木三郎兵衛昌忠−四郎右衛門昌広−昌善」、源四郎の弟の「三郎右衛門尉正重−太郎右衛門尉昌尚(実は野沢豊後守長男)、ここでは省略も、昌尚五世孫に山県大貳昌貞」という後裔が記載されています。

3 甲斐の飯富氏についての系譜
 『諸系譜』第6冊を改めて調べ直したところ、甲斐の飯富氏について具体的な系図が記載されており、以下に記しておきます。なお、兄弟の記事は殆ど省略しましたが、諸国に分岐して新たな系統を起こした者は見えません。

  同系図は、貞純親王から始まり、満政、重時、季貞などを経る形になっており、季貞の子の飯富源太宗季(改宗長)からは次のとおり(兄弟・傍系は省略)。
「飯富源太宗季−源内左衛門尉長能−源内兵衛尉長兼−源内左衛門尉長清−主馬首康清−内匠頭遠清−小二郎清延−源内兵衛尉長安−二郎左衛門尉長松−太郎、造酒正季長−造酒正季賢」「季賢の弟の太郎二郎季信−源二郎行季−民部丞季有−民部左衛門尉信正(入道道悦)」。なお、別の系図には、信正について、昌成の子で昌信の弟におくのもあるから、信正は民部丞季有の養嗣であった可能性もある。
  信正の子に飯富兵部少輔虎昌・昌景(飯富源四郎、山県三郎兵衛)をおくとともに、書き添えで、造酒正季賢の娘が山県中務少輔国成妻となり昌成を生み、外孫の昌成を季賢の嗣子として、その子の昌信の子に虎清・昌清兄弟をおき、昌清の子として虎昌・昌景兄弟をおいている。

 (2010.12.7 掲上)
  
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