平子氏の系譜

(問い)「吾妻鏡」に見られる武蔵国の平子氏の系譜については、当初、 武蔵七党横山氏から出たとされ、「武蔵七党系図」によれば、横山時広の嫡子広長が、平子野内を称し、その子に平子有長、石川経長があるとされます。ところが、「越後平子系図」では、武蔵国久良岐郡に進出した、三浦為通の子、通継を祖とすると主張しています。鎌倉時代、周防に移動した平子氏は、仁保氏を苗字とし、後年、元忠の代に三浦姓に復しています。
 平子氏の本来の系譜について、どのように考えたらよいでしょうか。

  (安部川様より、09.9.3受け)

 (樹童からのお答え)

 平子氏は、相模の三浦氏の初期分岐支族ですが、武蔵を中心に分布した小野姓横山党ともなんらかの養猶子関係があったようで、系譜はかなり複雑です。私も、かつて周防の仁保氏を中心に検討したことがありましたが、そのときは納得すべき結論には至らず、問題意識をもちつつ今日まできておりました。貴問もあったことで、このほどまた検討をしてみて、横浜市歴史博物館が展示や検討成果の公表をしたことなどを踏まえてみると、分かってきたところも多いものですから、現段階の検討を以下に記してみます。ただ、一部は推測であり、再考の余地のあること、新たな史料が出てこないと確認できないこともあることにご留意下さい(以下、である体)。
 
1 平子氏の動向と系譜の概略
 その概観をまず述べると、平子氏は、武蔵国久良岐(くらき)郡平子郷(横浜市南区平楽〔現在の訓みは、へいらく〕を中心とする南・中・磯子区の一帯)に起こった氏で、たいらこ、たいらく」と訓むが、「太楽、大楽」(訓は「たいらく」)とも書かれる。氏の発生は平安後期で、治承の源平合戦頃から活動が知られるが、『東鑑』では元暦二年(1185)の条には、「馬允有長」(平子有長)が頼朝の推薦をまたずに任官したので勘気を被ったと見えるのが初出である。この者は、建久元年(1190)十一月に野平右馬允、建久四年五月・同六年三月に平子野平馬允、平子右馬允として見える。建久四年五月の記事では、富士裾野の巻狩の際に曾我兄弟が仇討ちをしたときには、曾我十郎祐成らのために傷を負ったと見えるが、それでも敵と最初に太刀を合わせた勇者として名を残した。『曾我物語』にも、「武蔵国住人たいらのゝへいまのすけ(傍線部分は一に「平楽野」)」と見える。
 平子右馬允有長は武蔵七党の横山党の系譜のなかに見えて、その曾孫の世代まで記される。この系図には見えないが、子孫は武蔵に残ったものと越後国魚沼郡山田郷に地頭として移遷したものがあり、越後では戦国期まで続いて越後守護上杉氏の主な家臣のなかに見えており、米沢藩上杉文書にも平子牛法師丸などが出てくる。
 一方、『東鑑』では、建久元年十一月条には「平子太郎」が見えて、これは有長とは別人の重経とされる。平子太郎重経は建久八年(1197)に周防国吉敷郡仁保庄(にほ。山口県山口市の市街地東北方)に所領を与えられて当地に下向し、その嫡流は仁保氏となり、一族は大内氏次いで毛利氏に仕えて、その有力家臣として長く活動する。こちらは後に三浦氏も名乗るから、相模の三浦一族の出と知られるが、その分岐過程の系譜は必ずしも明らかではない。
 平子を名乗る、これら両流はまったく別流のようにもみられるが、越後でも周防でも同じく「太楽氏」が見えるので、やはり同族ではないかとも考えられる。幕末期の長州藩士で、大村益次郎暗殺事件の首謀者の嫌疑を受けた大楽源太郎(だいらく・げんたろう)という者がおり、吉敷郡台道村の大楽助兵衛の養嗣子とされるから、その末流であろう。
 『東鑑』では上記のほか、鎌倉中期の建長二年(1250)三月に、京都の閑院殿造営の記事で平子氏が二件見えており、二条面南油小路西に「平子左衛門が跡(後継家族の意)」、西鰭に「平子次郎入道が跡」があげられる。前者は勅使河原後四郎の後ろに置かれるので武蔵の平子氏とみられるが(「左衛門」は有長の子の有員か)、後者は周防の楊井左近将監の後ろに置かれるので周防の平子氏(「次郎入道」は「三郎」の誤記で、重経の後嗣の重資にあたるか)とみられる。
 平子一族については、それ以降明確にその動向を伝える史料がなく、あとは後世に残る系譜史料などをもとに見ていかざるをえない。
 周防の平子氏の系譜は、『大日本古文書』家わけ14の「三浦家文書」のなかに見えており、一方、越後の平子氏の系譜のほうは、山形県長井市に在住の平子家に伝えられた「越後平子系図」が、最近知られるようになってきた。両方の系図は少し違う面もあるが、三浦為道(為通)の後の平子三郎通継の子孫という事情は同じであって、周防・越後両者の同族性はまず間違いないとみられるようになってきた。
 最近では、横浜市歴史博物館で200310月〜11月に「鎌倉御家人 平子氏の西遷・北遷」という特別展や関連講座が開催されており、常設の展示もなされている(この当時はこれらに出席していないので、具体的な内容は不明であるが)。
 
2 周防や越後で発展する平子一族
 武蔵の平子氏については、その後も室町期の永享十一年(1439)、永享の乱の時に鎌倉公方足利持氏の近臣として戦い討死にした平子因幡守の名が『相州兵乱記』に見える程度である。とはいえ、平子氏の菩提寺であった宝生寺(南区堀ノ内町)の文書などから、室町期から戦国期まで平子氏が平子郷を支配していて、最終的には永正九年(1512)までその存在が確認できるとされ、これを境にその消息は途絶えると総括されている。こうした事情だから、子孫を近世まで伝えている周防と越後の両平子氏の両面から、平子氏を考えていく必要がある。
 次に、周防の平子氏は、平子太郎(木工助)重経が祖とされる。その系図によれば、治承四年(1180)の石橋山の合戦などで重経は七度忠節をはげみ戦功をたて、その賞として周防国吉敷郡内の仁保・深野・長野・吉田・恒富と佐波郡多々良という計六箇所の所領を賜り、建久八年(一一九七)に仁保荘に下向し、源久寺を開き船山八幡宮を勧請した。その後、重経の子孫が同荘を拠点とし、一族を分立して支配体制を確立していき、南北朝期以降は周防守護大内氏の有力な家臣となり、同氏の中国地方での勢力伸長とともに、その所領も拡大し周防国楊井・豊前国吉田なども領した。のち室町期には嫡流は仁保氏を名乗り、大内氏・陶氏が毛利氏によって滅ぼされるとその家臣となり、近世に至っているが、毛利一族から養嗣が入ることから、その有勢ぶりが知られる。永禄年間に討死した仁保上総介隆在の跡に吉川元春の二男元氏が娘婿としていったん入り、仁保少輔三郎元氏は出て繁沢氏(後の阿川毛利家)の祖となったが、その跡を継いだ娘婿の神田惣四郎元忠は三浦兵庫頭を名乗り、江戸期に萩藩士として家系をつなげている。一族には、深野・吉田・恒富・下蒲生・山田が見える。
 越後への平子氏の入部時期については、南北朝期の平子左衛門尉有氏(ないしはその頃までに)が移住したもののようであるが、早くも鎌倉前期の寛喜三年(1231)に石川太郎入道経季が子息の平左衛門太郎経久に譲った所領の中に越後国山田郷地頭職が見える。これは承久の乱の後の新補地頭として賜ったとされる。経久は平子氏の庶子家で、平子有長の弟・石川二郎経長(久良岐郡の本牧・石川を領)の孫であり、まず支族のほうが進出したものとみられるが、石川氏は後に越後守護上杉氏の四家老の一とされるから、これも軽くみてよいわけではない。
 鎌倉時代の平子一族の越後での動向はこの後は不明であるが、南北朝期頃から活躍を示す史料が見られるようになる。十五世紀になると守護上杉氏の有力家臣として小千谷の稗生城ひう・じょうを居城として政治の表舞台に登場しており、その後の長尾為景や上杉謙信の時代では、その武将として平子右馬允房政(牛法師)・若狭守房長親子の名が見える。大永年間(1521〜28)の稗生城主大楽平馬之丞は、『温故の栞』には平子右馬允と見えており、房政に当たる者か。房政の父の朝政は十五世紀後葉に活動が見え、「平左衛門尉」と称していた事情もある。謙信没後の「御館の乱」においては、平子氏は景虎派に気脈を通じていた模様である。
 上杉景勝が会津へ転封になったときに、平子氏がどうなったかは不明であるが、長井市の平子氏の家伝に、関ヶ原の戦いに敗れて米沢領に落ち延びたとあるのは、慶長五年(1600)の関ヶ原合戦のときの上杉遺民一揆に平子氏が加担したことを示唆するものか。この頃で越後における平子氏の歴史は幕を閉じたとみられている。
 
3 平子氏の実際の出自とその系譜
 以上に見てきたように、周防と越後の平子氏は同系統で、その出自は桓武平氏と称した相模の三浦一族の初期分岐ということでよさそうである。ところで、三浦氏の系図では、三浦大介義明兄弟以前の支族分岐は記されることが殆どないことに加え、武蔵七党のうち武蔵北西部・相模北部に勢力を有していた横山党から平子氏が出たとする系譜がある。
 『武蔵七党系図』によれば、横山出雲権守時広の子におかれる広長が平子内を号し、その子に平子平右馬允有長、石川二郎経長があげられる。横山氏嫡流は武蔵国横山庄(八王子市元横山町・横山町の一帯)に居館を構えて起こったものであり、その近くには「石川」「太楽寺」などの地名があるということから、これらの地が平子一族ゆかりの地とも考えられる。しかも、平子野平右馬允有長という表記で『東鑑』にも見えており、小野姓を称した横山党諸氏の通称から考えて、「野平」というのは小野氏出自を示している。
 とはいえ、平子は武蔵国久良岐郡の平子とみるのが、石川・本牧やゆかりの宝生寺、磯子の真照寺などの存在などから妥当であり、この地は三浦半島に近いし、三浦氏と同族と伝える鎌倉党の景通(三浦為通の兄弟とも伝えるが、実際には従兄弟か。梶原景時の曾祖父)には平子民部大夫という号も見える。
 平子野内広長が横山時広の子とされるのも、年代的に疑問がある。横山時広が文治五年(1189)卒去と伝え、その姉妹が和田義盛の妻とされるので、建暦三年(1213)の和田合戦で、執権北条一族と戦った和田義盛に加勢した横山時兼(時広の嫡子)とその一類は鎌倉で全滅させられた。これに対して、系図で時兼の甥におかれる平子野平右馬允有長は、それより早い時期の元暦二年(1185)から建久六年(1195)の期間に『東鑑』に登場している。かつ、『続群書』巻166所収の「小野系図」では、平子野平右馬允は横山時広の従兄弟の女性(横山時重の弟・小倉次郎経隆の娘)を妻としている事情もある。そうすると、平子広長は、実際の世代としては横山時広と同じ世代かその父の世代に属したとみるのが妥当である。だから、横山党の系譜で平子広長が横山時広の子に置かれても、実際にはその間の親子関係は不在であったということになる。ただ、三浦弥太郎弘長すなわち平子野内広長は、横山時重か時広との間で猶子関係があった可能性があり、それゆえに本人が「野内」、その子有長が「野平」と号したのであろう。
 なお、和田合戦で没落した横山氏嫡統の家系を、血縁関係にある広長の系が受け継いだことを『武蔵七党系図』は示すものかという見方もあるようだが、横山荘は大江広元が受け継いでおり、平子氏が横山党の惣領になったわけでもないので、あまり説得的だとはいい難い。
 
 さて、平子氏が三浦氏から何時どのように分かれたのであろうか。これについては、世代や命名などで納得のいく系譜は見つかっておらず、きわめて難解であって、若干の推測をいれながら考えざるをえない。その材料として、上記の周防の「三浦家文書」所収系図や「越後平子系図」、「三浦系図(内題:三浦八右衛門家譜)」、「武蔵七党系図」などを考えておく。(おそらく、この辺までは横浜市歴史博物館関係者の考察も及んでいないと思われる
 「三浦家文書」所収系図では、村岡五郎忠道から始めて、その子に平次大夫為道、その子に景名(鎌倉甲斐権守)、景村、為名(三浦平太郎)の三人をあげ、為名の子に平太郎為継(その子に義継−義明−義澄と続ける)と平子三郎通継をおき、平子通継の子を重経として、仁保氏の祖とする。一方、「越後平子系図」では、「三浦為通−久良気三郎次長−同大掃次長−三浦弥太郎弘長−平子弥平右馬丞有長」(「大掃次長」は太郎次長の誤記か。どちらかの「次長」も誤記か)と続くとされる。また、周防の仁保氏関係では、「平子通継−行時−家行−広長−有長−継長−経宗−重経」とも伝えるが、上記のように、有長と重経とはほぼ同世代とみられるのに不自然な配置であって、世代数が多すぎる。「武蔵七党系図」では、石川経季の子に「為継−盛経−貞継」(盛経は記事のママ)とも見えるが、この為継は三浦為継にあたる可能性も考えられる。
 これらに「三浦八右衛門家譜」の記事を加味して総合的に考え、初期三浦一族の系譜を整理してみると、次のように考えられる。
「@村岡貞通(忠道。ただし、平良文の子ではない)−A三浦平太郎為名(弟にA鎌倉景名−B景通・景村・景成〔その子にC鎌倉権五郎景政〕)−B平太郎為通(為直)、平次郎為輔、平四郎為清、駿河守為俊、平六兵衛尉為継−C平六庄司義継−D大介義明−E荒次郎義澄(兄にE杉本太郎義宗−F和田小太郎義盛)」というのが三浦氏の嫡系であって、平子氏のほうは、「B為継−C盛継−D貞継−E通継−F重継(重経)」と続く周防系と「C盛継−D太郎継長(次長)−E弥太郎広長(弘長)−F有長」と続く武蔵・越後系があったのではなかろうか。
(※このほか、可能性としては、「B平太郎為通−C平子〔久良岐〕通継−D太郎継長〔以下はE広長−F有長〕、その弟・三郎行時−E太郎家行−F重経」とか、「D太郎継長−E継宗あるいは経宗−F重継(重経)」とかいうケースもあるかもしれない)
 
 以上見るように、現存史料をもとに種々推測をしてみたが、平子氏の分岐については、確たることが言い難く、新資料の出現を期待するものである。肥前国彼杵郡の深堀氏も、三浦一族からの初期分岐と見られるが、その分岐過程が明らかではなく、三浦一族の系譜にはその祖系も含めて多くの問題点を残している。
 
 (09.9.5 掲上)
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