□ 浄教寺出の八橋茂左衛門の素性 (問い)東大史料編纂所所蔵の『諸氏本系帳』4には、近江六角氏・佐々木氏流れの三井氏の家系図が載っています。 これによりますと、
「信尭―信良―定良―定道―義尭―定乗―乗定―乗春―氏春―光時―光忠―光正」
とあり、始祖信尭から8代目の乗春が三州八幡村(現豊川市八幡町)に移住、11代目の光忠は「生八橋村、仕神君、丸ニ三引」と記載されています。
『三河堤』などには、「永禄7(1564)年の三河一向一揆終焉後、浄教寺の八橋茂左衛門が家康家臣になった」ことが記されています。
小生が知りたいのは、この光忠と八橋茂左衛門とが同一人物ではないかということです。
この様なことを調べるための史料・方法について教えて頂けたらと思います。
(三井様より、2011.8.30受け)
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(樹童からのお答え) 1 三河一向一揆が終焉した後に、家康に敵対して一向一揆の拠点の一つとなった勝鬘寺の末寺・浄教寺(愛知県知立市八橋町神戸)の僧が、大力無双をかわれて還俗し、「八橋茂左衛門」と名乗って家康の家臣になったことは、「三河名所図会」や「三河誌」などいくつかの史料に見えるとされます。この者の素性については、具体的には管見に入っていませんので、不明です。
なお、太田亮博士の『姓氏家系大辞典』には、三河の八橋氏について、ヤハシの第2項に桓武平氏熊谷氏族としてあげ、「三河国碧海郡八橋邑より起り、「宇利熊谷実長−正直−直信(八橋を称す)」と見ゆ。」と記されます。
この関係では、実長は高力氏の祖で兵庫頭、その子の正直は簗田新三(居于参州高力郷)、その子に「高力平次郎重長−新三安長−新三(与左衛門、従五下河内守)清長……」と続き、高力清長(一五三〇生〜一六〇四頃没)は家康の家臣として名高く、一向一揆の時に土呂義宗寺の仏像・経典を戦禍から守ったことで「仏高力」と称された。
<『寛政譜』の高力氏部分> 2 『寛政重修諸家譜』にあげる旗本には、「八橋」という家はあげられず、平氏姓の矢橋が3軒(良恭、良金、成知)、見えます。これは、近江国栗本郡矢橋庄に起こった家のようです。
次ぎに、三井氏は、同諸家譜に2軒あげ、宇多源氏の高義、平氏の良直があげられます。平姓というのは甲斐の三井氏とみられます(田畑吉正手写『幕府諸家系譜』にあげられ、『姓氏家系大辞典』ミツイ第八項にも見える)。この家は四目結の紋を使うから、実際には近江から分かれた同族だったか。
3 鈴木真年翁の『諸氏本系帳』に見える三井氏の系図で、神君に仕え八橋村に生まれた光忠は「孫左衛門」という名乗りで、その子の光正も「孫左衛門、孫助」で大坂役後に紀州家に属し、その子の勘左衛門高栄の名まであげられるから、これが上記宇多源氏の高義の家につながるとみられる。というのは、この家が四ツ目結いの紋を使用したことも記事に見えるが、これが近江佐々木氏の紋章であるからです。太田亮博士も、『寛政重修諸家譜』に半右衛門高敬から見えるとし、以下は「高英−久勝−高道」として、越後屋三井氏と同族だと記しており、この家が四目結の紋の使用したことが記される。
そうすると、勘左衛門高栄かその兄弟一族の子孫が上記の半右衛門高敬とか清左衛門高義(高敬の六世孫)の系統につながる可能性が高い。半右衛門高敬自体は、台徳院将軍(秀忠)のときに徳川氏に仕えたと『寛政譜』に見える。
<『寛政譜』の三井氏部分> 高敬の父祖は記されないが、これらの者にも「八橋」の苗字の使用はなかったと考えられる。ただし、これでも「八橋茂左衛門」がこの三井一族であったかどうかは否定できるものではありません。 4 以上の諸事情を考慮すると、「八橋茂左衛門」は熊谷・高力一族の可能性が高そうであるが、三井一族というのも必ずしも否定できるものではないというところではないかということです。三河一向一揆のときに、酒井氏、本多氏などの一揆側有力者に加えて、これらの中小諸氏の動向が分かれば、なんらかの手がかりが得られるかもしれませんが、いまのところ、管見に入っていません。
三河関係の地元史料も『三河国二葉松』や『勝鬘寺文書』(勝鬘寺系図も含まれる)など、かなりありますので、その辺を丁寧に当たってみたらなんらかの手がかりに結びつくものがあるかもしれません。
(11.9.3 掲上) |
<三井様からの返信>
史料の開示・御考察をありがとうございました。
高力氏については、今まで考えたこともございませんでした。
「仏高力」は一揆に対して家康側に立っていたいたこと等得心いかぬ所もございますが、八橋を称した直信について調べなければと思った次第です。
『神君に仕え八橋村に生まれた光忠は「孫左衛門」という名乗りで、その子の光正も「孫左衛門、孫助」』であったとのこと、江戸時代初期の我が先祖にも孫左衛門がおりちょっと気になりました。
また、『勘左衛門高栄かその兄弟一族の子孫が上記の半右衛門高敬とか清左衛門高義(高敬の六世孫)の系統につながる可能性が高い。』とのこと、よく考えてみなければと思った次第。
家康側室於牟須の方の父・三井吉正は甲斐山県昌景の臣で平氏支流とのことで、この系統は近江三井氏とは異なる系統と小生ずっと思っておりました。
『三河関係の地元史料も『三河国二葉松』や『勝鬘寺文書』(勝鬘寺系図も含まれる)など、かなりありますので、その辺を丁寧に当たってみたらなんらかの手がかりに結びつくものがあるかもしれません。』 とのこと、関係史料が見られるかどうか全く自信ありませんが、これからやってみたいと思います。
<樹童の感触>
○東大史料編纂所所蔵の田畑吉正編『幕府諸家系譜』第35冊には、甲斐の三井氏の系譜が掲載されますが、三井吉正の祖父で信玄に仕えた三井十右衛門吉勝から記載がありますが、その先は記載がありません。
甲斐の三井氏の最初の部分は、次のとおりです。 <甲斐の三井氏冒頭部分> (2011.9.4 掲上)
<三井様からの再来信> 2011.09.05受け
早速貴重な情報をお送り下さいまして、ありがとうございました。
甲府に入った織田の将川尻肥前守秀隆を討取った三井弥一郎が、吉正の父だったとは。初めて知りました。 なお、余分なことではありますが、美濃土岐家家臣で、美濃三井山城主であった、同姓同名の三井弥一郎がおりましたが、1548年(天文17年)織田信秀に滅ぼされております。こちらの情報は殆ど皆無で忽然と歴史から消えておるのが、ずっと気になっております。
甲斐三井氏については、三井武比呂著「薬師庵と三井牧」の19頁に、「足利義尚は長享元年九月、近江の守護大名六角承禎(佐々木)高頼討伐の陣中で病没する。このため小山蘭之助は浪人し、甲斐辺見へ入り、逸見冠者として召し出され、この時、武田氏は小山蘭之助を遇して「三井」の姓を賜い、武田の家臣として武川筋十騎に加えられる。」とある三井氏の家系については、知っておりました。甲斐や信濃の三井氏の多くがこの系統と思っておりました。家紋は乙事三井氏が武田菱井桁、山之神三井氏が武田菱井桁三ツ引です。
余談ですが、八日市市史第二巻215頁には「長享元年(1487)9月20日足利義尚を迎え撃つべく、山内政綱配下の三井らが近江山田に陣取る。」また、「長享元年(1487)9月24日、武田・京極・富樫・伊賀・細川の諸大名連合軍(義尚軍)が近江八幡山の六角軍を攻撃した。」とあります。
つまり、小山蘭之助(甲斐三井氏の元祖)は、足利義尚の部下として、武田軍と共に、六角承禎の家臣であった近江の三井氏と相対峙していたと思われ、歴史の不思議さに驚きました。
近江の三井氏は主君の六角氏と共に、その後天正元年(1573)織田信長軍により滅ぼされています。逃亡した六角義弼は甲斐の恵林寺に匿われていましたが、天正10年(1582)織田軍の引き渡し要求を拒んだ快川和尚(美濃土岐家出)は、織田軍が放った火の中に入滅されましたが、義弼は生き延びたと史書にあります。恵林寺の信玄の墓の背後に甲斐三井氏の元祖蘭之助の子・助七郎と但馬守信友の石碑があります。
(2011.9.8 掲上)
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