□ 土佐の黒岩・一圓氏 (問い)高知県安芸市の一圓といいますが、HPの2010年8.13及び8.16の片岡氏の記事を拝見しました。少し資料がありますのでメール致します。 私の先祖は安芸市井ノ口黒岩に住して一圓右京之進と云うもので、武術指南役として安芸国虎に仕えていました。安芸国虎の落城の折り矢流合戦で討ち死したと伝えられています。当家系図には、黒岩治部とその弟で一圓右京と二人の名前があります。ちなみに安芸黒岩の一圓家の家紋は丸に桔梗です。
当家の系図には、門脇中納言平教経(黒岩系図では門脇中納言行平)以下士兵21人の名が有り、正治元年に三浦城主義澄と戦い、破れて安芸之太郎(東之太郎)安芸之次郎(西之次郎)と共に安芸に落ち延びてきたと記されています。黒岩治部もその中に名前が有ります。
後に安芸氏落城の時に、安芸国虎の子息千寿丸は阿波に落ち延びる途中、安芸郡魚梁瀬に代々伝わる門脇氏に一時匿われた事が「門脇系図」の中に記されています。
当家系図では、黒岩は先祖は藤原鎌足で時の孝徳天皇に賜冠(大錦冠?)、のち紫冠を賜り、さらに天智天皇の名代、弟天武天皇勅使に大織冠賜り、この時姓氏を賜ったと記述されています。黒岩姓は埼玉県越生町黒岩に代々住んだ藤原伊周の子孫が名乗ったものだとおもわれます。何らかの参考になれば幸いです。
又、安芸の一圓姓は佐々木源氏京極道誉の兄貞氏の子で 貞高 長岡三郎一圓能登守、その子秀貞 長岡尾張守一圓、 その子高行 太郎左衛門一圓と続きますが、そのあと一圓右京之進までの六、七代の名はわかりません。
四国守護の細川家の家臣に一圓三郎(佐伯文書)の名が有り、南北朝の戦いに土佐の大高坂城の攻防戦で守護の御手と記されています。
室町期の土佐における一圓姓の名の載っている資料をご存じであれば、ご教示頂ければ幸いです。
(一圓電気様より、2011.7.20受け) |
(樹童からのお答え) 1 一圓氏の分布と系譜
(1)『姓氏家系大辞典』には、一圓をイチマルと訓んで、@近江の佐々木一族と、A土佐の一圓氏を挙げます。しかし、この苗字自体が現在の地名に残るとはいえ、荘園ないし領地の「一円知行」に由来するとすれば、イチマルと訓む者があるにせよ、イチエンと訓むのが本来だと思われます。近江のほうはイチマルと訓むのも見えますが、現在地名の犬上郡多賀町一円はイチエンと訓まれています。 (2)さて、土佐在住の貴家の系図が近江の佐々木京極一族に由来すると伝えるとのことですから、まず近江の一圓氏について触れますと、たしかに上記辞典では『江北記』を引いて被官参入衆のなかに「一圓殿」をあげ、道誉舎兄の流れだと記しています。『尊卑分脈』に所載の佐々木氏の系図では、道誉の兄の「左衛門尉貞氏−能登守貞高−三郎左衛門尉秀貞−太郎秀行」と記していますが、
そのうち秀貞に「一圓」とあるものの、横に「法」と記されるものもあるで、法名が一圓というのではないかとも疑われますが、苗字として近江に一圓氏があったことは確かで、この系統でよさそうです。
上記の能登守貞高は、坂田郡長岡館(曽祖父満信の旧館)を本拠にし、また犬上郡一円邑を領して(『続群書類従』巻132佐々木系図)、子孫は長岡氏あるいは一円氏を名乗ったとされるようです。
この場合には、土佐の一圓氏がその子孫のはずがなく、また、年代的なつながりも符合しないように感じます(既に南北朝期に「一圓三郎」が文書に見えるということであれば特に、ということです)。摂関家一条家の文明年間の土佐下向のときに、「一圓山城守氏直」が近江から随行したとの所伝もあるようですが、上記佐々木氏系図とは名前の継続性に疑問ももたれます(「氏直」という名は、次項の黒岩種直に通じるようでもあり、片岡一族でも当初は「直」が通字で用いられた)。
だから、上記諸事情からいって、土佐の一圓氏は、近江とは無関係であって、おそらく同国の在庁官人の一族が土地の知行(領有)形態に応じて名乗った苗字とするのが妥当なように思われます。
(3)土佐の一圓氏では、長宗我部元親初陣の永禄三年(1560)の長浜合戦のときに、一圓但馬が奮戦したと『姓氏家系大辞典』に見えます。この者は元親による『一宮興人夫割張』(1571年)にも名が見え、当時は土佐中央部に八町余の領地を持っていたとされます。一圓但馬守の居城は安芸郡羽根城主(室戸市羽根町本村)と他の史料に見えますが、これは長宗我部元親に従った後に配置替えになったようです。但馬の子に太郎兵衛、父は一円隼人民部で、弟に掃部(五郎兵衛、勘助。その子に小太郎、与次郎)がいたと伝えます。
なお、ネット上のウィキペディアには、一圓但馬守について、かなり詳しい記事が見えますが、その出典も含め、多くの記事を確認しておりません(この辺の事情が分かれば、追記します)。
2 土佐の黒岩氏
(1) 貴家の家伝に「黒岩治部とその弟で一圓右京」という二人の名前があり、安芸黒岩の一圓家の家紋が片岡氏と同じく、「丸に桔梗」ということであれば、両氏が高岡郡の片岡氏の同族であったとしてよさそうです。片岡氏の系図については、別の個所で記述してあります。なお、貴家系図に見える平教経(能登守)及び安芸太郎・次郎兄弟(源氏方であったことに留意)は、皆が壇ノ浦合戦で一処で共に討死したと『平家物語』に見えており、これが史実に近そうですから、貴家所伝にはどこか転訛があると思われます。 (2)
土佐では高岡郡に黒岩の地名があり、この地で起こって安芸郡に一族が分かれて遷住し、その地の大族安芸氏に属したとみられますが、その経緯は不明です(『南路志』や長曽我部家臣関係史料などの地元の史料に、黒岩や一円について、なにか見えるのかも知れません)。
また、長曽我部元親に仕えた黒岩氏もあり、東大史料編纂所所蔵の『土佐国諸氏系図』第十二冊には「稲葉坂本黒岩姓系譜」の記載があって、そこには元親家臣の黒岩治部左衛門の子の玄蕃が、永禄四年四月十二日に元親の命によって志和勘助(名は宗茂。一条家重臣の家柄で公家難波家支流、又号は難波権之丞)を安喜浦で討ち取ったこと、治部左衛門は山内家に召し出されたことが記されています(後に、大坂の陣のときに出奔して、大坂入城という)。別の所伝では、安芸氏に仕えた黒岩越前守は主家に殉じたが、その子の掃部種直は安芸氏滅亡後に長宗我部氏に仕えて、天正十年の阿波中富川の合戦で戦死し、その子が治部左衛門・玄蕃兄弟であったといいます。こうして見ると、元はみな安芸氏に属した黒岩氏から出たことになります。
稲葉坂本の黒岩氏は、安芸氏に仕えた黒岩筑前守の系統で、その子の三右衛門の子の小三郎が香美郡山北村に移住して、その流れだと記されます。
(3)
黒岩という地名は武蔵、美作や南九州等にあるようで、各地で別流の黒岩氏が起こりました。土佐の黒岩氏は、武蔵児玉党の黒岩氏とはまったくの別流です。なお、福岡県の小郡市にも黒岩家があり、「黒岩家文書」(小郡市埋蔵文化財調査センター所蔵)を伝え、そのなかに「黒岩氏之系図」というのもあるとされますが、これがどの系統の黒岩氏なのか、未見のため不明です。
(2011.8.5掲上)
|
(応答板トップへ戻る) |
ホームへ 古代史トップへ 系譜部トップへ ようこそへ |