□ 薩摩の谷山氏とその一族 (問い) 私の祖父・谷山純忠の出身地が鹿児島県東市来で、太平洋戦争で硫黄島の戦いで戦死しました。先祖は島津家の家臣と聞いており、幼いころ家系図(巻物)を見た記憶があります。鹿児島の古いお墓に「平朝臣・・・」と記されており、出は平家だと思います。近い世代ですと、西南戦争に西郷隆盛と同行して、西南戦争の出兵(?)の碑(西郷隆盛の墓の近く)に名前がありました。谷山金次郎又は孫右エ門です。 インターネットで谷山城と南北朝の戦いや懐良親王のことを拝見して、わが先祖の発端を知りたく、ご連絡しました。
(東京都 大江様より 2010.8.1受け) ※問いは趣旨を踏まえて若干変更。
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(樹童からのお答え) 薩摩南部に繁衍した薩摩平氏(伊作平氏、川辺平氏)は、平安中期の著名な武士・伊作平二貞時の後裔であり、島津荘を開いた平季基などを出し、平安後期からこの一族の活動が薩隅で長く見えます。なかでも、南北朝期には谷山隆信が南朝方として征西将軍懐良親王を奉じて北朝方の島津氏と対抗し、大いに活躍しました。その後は低迷して、守護の島津氏に属しましたが、薩摩藩士に残りました。以下に、もう少し詳しく記してみます。(以下は、である体)
1 伊作平二貞時は、東国から出て京にのぼり、さらに鎮西に下った。その武名の高さは『二中歴』にも武者として「胆沢平二貞時」とあげられ、安和二年(969)の安和の変に際して謀反党類として追討をうけ、
越後に配流となった。その子孫は大宰府官人として活動したが、主に薩摩で定着し繁衍した。
貞時の系譜は、難しい面もあるが、桓武平氏と伝えられ、「坂東諸流綱要」(『系図綜覧』下巻に所収)では、平姓武家の祖・平高望の子の下総介良持の子として、致持と貞時をあげ、後者には「子孫在鎮西」と記事があり、その子に宗俊、その子に宗行(大宰少弐)とあげる。なお、「加世田氏系図」や「谷山氏系図」(鹿児島市鴨池町の谷山ハナ氏蔵)などでは、良持の兄弟にあたる村岡五郎良文の曾孫が貞時(良文−忠道〔後改貞道〕−孝輔−貞時)とするが、これでは世代が少し多すぎる。
ともあれ、このとおり受け取ると、系譜は桓武平氏で問題なさそうであるが、薩摩平氏一族が諏訪明神を祭祀した事例が多いので、この祭祀事情から考えると、時代と名前からみて、貞時は、源頼光四天王の一人とされる碓井荒太郎貞道(相模の三浦氏の祖で、忠道ともいう)の一族(その弟か)と推される。碓井貞道の実際の系譜は相模国造の末流とみられ、平姓とも橘姓とも称したが、『前太平記』には、「諏訪明神に祈りて碓氷荒太郎貞道を生む」という記事があるとのことである。とはいえ、貞時が平朝臣姓を名乗り、これで認められていたのはたしかであり、桓武平氏の血筋を引くか養猶子関係があったとみられる。
2 平貞時の子孫のうち、宗俊・宗行親子の流れは薩隅の山門・市来崎・救仁院・平田などの諸氏となったが、大きく発展したのは宗俊の兄弟の大宰大監貞元の流れであり、貞元の長子の従五位下大宰大監季基は、万寿年間に全国一の大荘園に発展した島津荘を開発した。私貿易を行って唐物を道長におくったことも史料に見える。季基の弟・平判官良宗も島津荘開発に寄与したが、その子孫も大隅に残って、大隅国肝属郡姶良庄に姶良・得丸・牧山・末次等の諸氏を出した。
季基の子の兼輔は肥前国神崎荘を領して、その長子の兼重は神崎平太を名乗ったが、薩摩国莫祢院郡司職につき、その子孫は莫祢院に繁衍して莫祢(阿久根)、池之上、渕上、遠矢、湯田、大石、松崎など多くの氏を出した。
兼重の弟・七郎大夫良忠の子の川辺平次大夫良道は伊作本領主で、その諸子が平安後期に大きな活動を見せる。なかでも、平権守忠景は薩摩国押領使となり猛威を振るって、平治元年(1159)には追討宣旨を受けて硫黄島(鬼界ヶ島)に落ちていったほどである。忠景の兄弟は、上から川辺平太道房、給黎次郎有道、頴娃三郎忠永、阿多平四郎忠景、別府五郎忠明、鹿児島六郎忠吉とされ、それぞれ有力者であったが、なかでも頴娃三郎忠永と別府五郎忠明の子孫が栄えた。頴娃忠永の子孫には、頴娃のほか、揖宿(指宿)・山川・知覧・木佐木・薩摩・是枝・串木野・若松などの諸氏が出た。別府忠明の子孫が谷山氏であり、一族には加世田・大浦・坂本・宮原・仁礼などの諸氏があった。
3 別府五郎忠明は、薩摩の加世田別府(平安末期に阿多郡から加世田別府が分出)を領して別府を名乗ったが、その子に加世田太郎忠真、谷山次郎忠綱、別府弥平五信忠がおり、信忠の子の兵衛尉忠光が谷山郡司となって同職をその子の忠能、資忠、隆信(忠高、忠隆。現在に伝わる系図には、「隆信」の名が見えない)と代々世襲しており、南北朝期に活躍したのが隆信(五郎、左衛門尉)であった。
谷山郡は『和名抄』には谿山郡と見え、古代末には田地の大半が島津荘寄郡となっていた。現在の鹿児島市南部の谷山一帯の地であり、JR慈眼寺駅のホームにの北側にある山には、谷山氏の居城、谷山本城(千々輪城、愛宕城)跡がある。近隣の上福元町諏訪にある諏訪神社は、谷山郡司谷山隆信が長野の諏訪より勧請したのが創祀だと伝えられる(『谷山の歴史と文化財』)。
征西将軍懐良親王は、興国三年(1342)五月に薩摩の津に上陸して、谷山隆信の本拠、谷山城に入られ、城に隣接した御所ヶ原に九州平定の最初の征西府を置いたと伝えており、正平三年(1348)には肥後の隈府城に入って征西府を開いた。この頃では、九州でも南朝が盛んな時期であった。
その半世紀後の応永四年(1397)には、谷山氏は守護島津元久に敗れて谷山を去ったというから、隆信の後の谷山氏の系譜は不明であるが、長子の勘解由左衛門尉貞信、その子に忠雄がいた。貞信の弟には平四郎泰隆・五郎忠香がおり、忠香の子の小五郎良忠の後が仁礼氏となったが、谷山氏をついだのが貞信か忠香かは不明である(後者か。その場合は、忠香の子の平五郎忠氏の後が谷山氏として続くことになる)。
薩摩の仁礼氏からは、明治期の海軍大臣・海軍中将で子爵に列した仁礼景範が出ている。仁礼景範の家は、日向にあった楡井氏で清和源氏村上氏族の出と称していたかもしれないが、平姓仁礼氏にも江戸期に「景、頼」の通字が見られるので、平姓仁礼氏としてよさそうである。
江戸期の薩摩藩士谷山氏の祖先の動向については、『諸家大概』などに見え、天正の頃に谷山紀伊介・次郎右衛門親子が桂忠ムに加勢して平佐城に籠もったとあり、その一族に頴娃氏の家人の谷山孫右衛門もいたと記される。
『姓氏家系大辞典』には「谷山氏系図略」をあげ、薩摩国日置郡市来より高山に移居、通字は「忠」であって、「平左衛門−市兵衛−平左衛門」とあげる。
最後に、谷山氏関係の主な史料をあげておくと、次のとおり。
@加世田不二男著『加世田系譜並びに文書』(1976年刊、鹿児島県図書館などに所蔵)
A『鹿児島県史料』「旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集三 諸家系図文書四 加世田氏」
B九州大学所蔵の長沼文庫 167雑集に「谷山氏記録」(薩摩国谷山家の由来及び同家墓碑銘を写す)
なお、鹿児島県内の県立・市立の公共図書館には、各市町村史や鹿児島藩の各種史料を収録した『鹿児島県史料』などがあるので、こまめに見ていくと参考になることが多いと思われる。その際には、一族の加世田氏や別府氏などから広く見ていったほうがよい場合もある。
(2010.8.2掲上)
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