頓宮氏と内藤氏

T 黒鈴様よりの来信(2015.3.8受け)の内容  

 近江の黒川氏・頓宮氏・土山氏を個人で調査、研究している者です。
 頓宮氏は新訂寛政重修諸家譜などの記録には一切残っていなく、名があるとするならば、妻は頓宮氏の娘などといったものだけで、頓宮氏はどのような一族だったのかは分かりません。これについて、なんらかの教示がえられるでしょうか。
 私が出来る限り調べて、まとめたワードを貼り付けて下記(誤記など一部修正済)にあげてみましたが、調査の糧にしていただけたら幸いです。
 
家紋:揚羽蝶?
藤原北家秀郷流?藤原北家道長流?
 
頓宮氏の発祥は近江国甲賀郡頓宮邑(現在の滋賀県)とされている。苗字は備前、備中といった現岡山県東部・西部、若狭の現福井県などに見られる。
 頓宮氏の出自については2つある。一つは藤原秀郷を祖にした秀郷流。もう一つは藤原道長の末裔というのがある。
 
秀郷流では源実朝が公暁によって暗殺された際に内藤盛政が出家し、頓宮入道と號している。その息子である肥後守盛氏も内藤から頓宮へ改姓したことが六波羅評定衆の備前において(この辺、文章のつながりが悪い?)、また、弘安7(1284)129日新日吉小五月会流鏑馬交名の記録の中に頓宮盛氏が見受けられる。
 
南北朝の動乱
頓宮という地名が出てくるのは、文治6(1190)4月の伊勢内宮役夫工作料未納について書き上げた注文の中に「頓宮」の名が見えるのが地名としての初見とされている。
「頓宮文書」には,建武3(1336)正月2日の近江国頓宮知綱着到状があり、それには頓宮肥後弥三郎知綱と記されているおり、上記肥後守である盛氏と同じ国司、肥後の名乗りのため裔と考える。この着到状は足利尊氏に呼応し挙兵したことである。南朝側に味方した頓宮弥九郎とは一族の者とされている。また応永21(1414)113日の大野光保譲状により甲賀郡大野郷が譲与されているため、その際に近江へ移住したのでは考えられる。
近江の地で頓宮氏が台頭し、南北朝時代では南朝側に前記の頓宮肥後弥九郎が五辻宮守良親王に味方して兵を挙げ甲賀郡をまとめたが、足利尊氏の命を受けた甲賀の小佐治右衛門三郎・山中橘六・美濃部兵衛三郎などが佐々木秀綱に従って攻め、頓宮肥後弥九郎は岩倉城(信楽町)へ拠るが守れず、和束(京都府)へ逃れた。再び、和束・信楽の兵を集めて、頓宮氏は近江の鮎河城に拠るが、佐々木秀綱・小佐治合同軍に囲まれ、鮎河城を支えられずに庚申山(水口町)に拠るが、ここも支えきれず和束へ退いた。再々度、頓宮弥九郎は鮎河城に拠るが、佐々木秀綱・山中五郎・柏木源蔵は鮎河城を襲い、火を放って城を焼き滅亡させられた。
 
甲賀五十三家、そして改易へ
頓宮牧荘を中心にし、豪族として大きくなった頓宮氏は、鎌倉期に頓宮治三郎正盛が頓宮城を築いた。その後、長享年間(1487〜89)に音羽野の地を領有することになり、頓宮四方介利盛が音羽野城を築いた時に頓宮城を廃城にした。
長享の乱の合戦で、甲賀衆は足利義尚の本陣である鈎の陣に夜襲をかけ、幕府軍を蹴散らした。戦いに活躍した五十三家を甲賀五十三家と称するようになり、特に六角高頼から感状を受けた家を甲賀二十一家と呼ばれ、その中である北山九家という地域連合惣の中に頓宮四方介がおり武功をあげた。その後、音羽野城は子孫が世襲していったとされているが、子孫の記録がはっきり分からない。「蒲生古蹟考」には時代は不明だが、音羽野城主頓宮内藏助政忠の記録がある。
戦国時代になり織田信長によって佐々木六角氏が攻められ没落し、頓宮因幡守守孝は信長に降ったが、天正13(1585)に豊臣秀吉によって領地は没収され改易となった。その後、どうなったかは分からないが、前記の「蒲生古蹟考」には頓宮善六や、近江水口藩の加藤家分限帳の中に頓宮氏がいた記録が見受けられたので、生き残ったものと推測される。
なお、甲賀五十三家の中に黒川氏・土山氏・大河原氏があげられるが、この三氏は頓宮氏から分家したといい、「黒川村誌」には頓宮四方介の弟が黒川久内、土山鹿之助盛忠は頓宮四方介利盛の次男といった記録があり、密接な関係であったことが分かる。
 
<参考史料>
近江甲賀郡誌・頓宮文書・近江国水口藩加藤家分限帳・戰國遺文−佐々木六角氏編−・土山町史・角川日本地名大辞典・六波羅探題の研究・群書系図部集
 
 (黒鈴様より、15.3.8受け)

 (樹堂からのお答え)

U 頓宮氏の内藤氏からの分岐と内藤諸氏の動向
 
 頓宮には、主に「はやみ、とんぐう」という二つの訓みがあり(今は後者のほうが多いか)、現代の苗字の分布は岡山県が多く、次に滋賀県で、この二県で殆どを占める。頓宮がおかれたのが近江・伊勢で、地名が甲賀にしか見当たらないから、氏の起源はもとは甲賀で、これが備前等に分かれたとみられる。甲賀の頓宮の地名は、伊勢斎宮の行程中の仮宮に由来するとされ、当地には垂水斎王頓宮跡がある。仁和2年(886)以来、斎王(伊勢神宮に奉仕する未婚の皇女)が伊勢参拝に際して宿泊した仮宮跡で、一行が途中で宿泊のために立ち寄ったところが「頓宮」とされ、斎王の一行は近江国の勢多、甲賀、垂水、伊勢国の鈴鹿、一志の頓宮に宿泊し、5泊6日の行程で伊勢に赴いたという。1944年に国の史跡に指定された。
 頓宮舘跡やその近隣の頓宮池ノ谷城の跡が甲賀市土山町頓宮にある。同城は、南北朝期の築城で、頓宮正盛が築いたと伝え、長享年間の音羽野城へ移住により廃城となった。
 
2 内藤左兵衛尉盛政とその子の肥後守盛氏については、周防の内藤氏系図に見える。内藤盛政は、内藤氏がおおきく史上に現れる内藤六郎盛家(左近將監、左衛門尉)の子であった。
 盛家は、『東鑑』に見える源平争乱期の人で、周防で活動して頼朝などに仕え、嘉禄3年(1227)8月1日条に死去記事が見える、享年七三とも八九ともいう。盛家の子では、盛政・盛時・盛義が嫡出(母は摂津師茂の娘で頼朝乳母の因幡局)とされ、盛時は肥後守、盛義は豊後守と受領に任官したことが『東鑑』に見える(盛親も系図に伊勢守というが)。鎌倉御家人のなかで、内藤氏が大族であったことが分かる。
 内藤氏の出自については二伝ある。一つは藤原秀郷を祖にした秀郷流で、秀郷の子の千時の後裔で、近江の蒲生氏などの同族とされ(『諸家系図纂』などに所収)、もう一つは藤原道長の子の頼高の後裔とされ主に周防で活動したとされるが(『続群書類従』〔底本は不明〕などに所収)、ともに盛家から後は系図はほぼ同じだから、同じ家系のことと知られる。内藤氏の本拠が平安末期には周防国にあったのは確かだから、当地古族の後裔ではないかとみられる内藤氏が系図を仮冒して、道長後裔に作ったり、秀郷流の蒲生一族から出たように作ったと、当初はみていた。この一族から分かれて、三河に行って幕藩大名(幕末まで五家の大名家)になったり、甲斐守護の武田氏に仕えた内藤氏につながっているから、内藤氏の果たした役割は大きかった。
 
頓宮氏は内藤庶流とはいえ、第二代目の盛氏には肥後守と系図に見えるから、支族のなかでは有力であった。『鎌倉遺文』には、文永10年(1273)正月、建治2年(1275)6月に頓宮左衛門尉が見え、応長元年(1311)7月に奉行人頓宮弥次郎盛康(肥前後藤家文書)、元亨元年(1321)8月に頓宮肥後彦六郎(興福寺の福智院家文書)、が見える。
 備前では、鎌倉後期の嘉元二年(1304)の頃、和気郡藤野保(和気郡和気町の藤野・吉田あたり)の地頭に頓宮肥後六郎義綱がおり、八塔寺と境界を争ったと見えるから、義綱は盛氏の孫くらいに当たるものか。これらの通称から見て、頓宮氏に「肥後国司」に任じた者が出たことは、認めてよかろう。南北朝頃には『太平記』に頓宮六郎忠氏が見えており(16)、備中にも頓宮又次郎入道とその一族らしい田中藤九郎盛兼・同舎弟弥九郎盛泰が見える(巻8)から、吉備では頓宮一族は有力であった。備中では浅口郡人という(『備中府志』)。この備中の一族は赤松氏家臣であった模様。義綱の後裔らしき頓宮四郎左衛門義幸は、細川清氏に仕えて、文和(1352〜56)頃に若狭守護代で見え、その一族らしい孫太郎義氏や左衛門義嗣もいた。『太平記』には、備前の福岡庄は頓宮四郎左衛門尉が所領なりとあり、頓宮が、「細河に属して忠有しかば、細河是を贔屓して、安堵の御教書を申与ふ」と見える。この頓宮四郎左衛門が舎弟の右馬助とともに若狭に在国して小浜に城を構えたとも見える。
 吉備や若狭の頓宮氏はその後はあまりはかばかしくはなく、近江甲賀の頓宮氏が戦国時代まで残ったにすぎない。建武3年の着到状に見える頓宮知綱については、系図に見えないが、内藤兵衛尉(後に右馬允)知親(もと朝親)の後裔に当たるか。知親は1205〜13年に『東鑑』に見えており、年代等からいうと盛親の近親(兄弟か)にあたるのかもしれない。とすれば、甲賀の頓宮氏がすべて内藤盛政の後ではなかったことになる。
 
 現在に伝わる内藤氏の系図については、盛家の前の数代の部分は、道長流のほうが秀郷流よりも妥当そうである。というのは、源平争乱期には既に内藤一族が周防にあったことが『東鑑』などに知られる。具体的には、文治3年(1187)4月頃の周防国都濃郡の得善・末武の地頭として筑前冠者(太郎)家重が『東鑑』に見え、続けて内藤九郎盛経の名もあげられる。末武郷は内藤氏の本拠であり、九郎盛経は六郎盛家のおそらく弟で、筑前冠者家重は盛家の近親一族とみられるからである。続群書の「内藤系図」には、盛家の長子の位置に内舎人家定が見え、これが家重と同人かもしれない。
 同系図には、盛家の祖父に筑前守盛遠をあげ、鳥羽院の御宇(在位が1107〜23)に内藤の氏を賜るとも見える。その兄に従五位上肥後守盛重があげられることにも留意されるが、この肥後守盛重は、『尊卑分脈』藤原氏の良門流で、筑前守国仲の子の位置におかれる従五位上肥後守盛重と同人とみられる。信濃・相模・石見守を歴任したが、もとは周防国住人で、童形のときに北面に伺候し、白河院の寵童として元服の後に近習したとある。盛重の子孫は長く武官をつとめ、この一族に「盛、有」の名乗りの者が多く、右馬允の職につく者、「肥後十郎」などの通称にも留意される。しかも、肥後守盛重が「近藤」右衛門尉と号したとも見えて、近江に縁由もありそうである。
 続群書「内藤系図」などに拠ると、盛重・盛遠兄弟の父を伊予内供奉祐寛といい、山伏として諸国を遍歴して周防国末武庄に留まり、庄主福井検校大中臣光忠の娘を妻とすると伝える。祐寛の父を悪禅師覚祐(あるいは祐寛同人ではなかろうか)といい、その父が右少将頼高で、これが御堂関白道長の子とする。もちろん、道長の子に頼高なる者はいないから、この個所は明らかに系譜仮冒なのであるが、頼高以降の系図は案外正しいのかもしれない。一方、『諸家系図纂』掲載の内藤系図では、従五位下藤原頼清以降では、その子の「頼俊(内舎人、左近将監)−内藤検校行俊−左馬允惟季−盛俊−盛家」となるが、惟季・盛俊二代の存在確認がとれない事情にある。内藤検校行俊の弟とされる右馬允季俊及びその子の腰滝口季方は河内源氏の家人として名高く、源頼義・義家親子に従って奥州合戦に参加している。季方の曾孫(途中に養子関係有り)には大族蒲生氏の祖で頼朝に仕えた蒲生俊賢(惟賢)も出ている。
 蒲生俊賢の子には、甲賀郡儀俄庄より起る儀俄氏の祖・権五郎俊光がおり、その養子には岩室九郎俊行が系図に見える。そして、頓宮氏の苗字の起源、頓宮邑は甲賀郡岩室荘のなかにあった。こうして見ると、頓宮氏は蒲生一族との結付きも知られるわけで、『諸家系図纂』内藤系図に見える祖先部分も、まんざらデタラメとも言えない。しかも、源三位頼政の家人に内藤太盛助・小藤太重助もおり(『源平盛衰記』の宇治橋合戦)、内藤氏の起源は京都付近にあって、先祖が北面武士で内舎人であったとみるほうが自然でもある。
 このように考えていくと、周防内藤氏の祖先にあげる頼高は、近江発祥とする内藤氏の祖先の頼清と近親一族にあたる可能性が考えられてくる。
 
 秀郷流と称する江北の箕浦・泉・今井・新庄(幕藩大名につながる)などの一族が内藤氏の同族とされており、これら諸氏はその先祖を藤原頼清の子の頼俊としているが、この親子あたりからの実在性はほぼ信頼して良さそうである。しかし、頼清が秀郷流の正頼(ないし久頼)の子とする系図には疑問が大きく、実際にはこの両者の間に断絶があるのではないかとみられる。すなわち、秀郷の子の千時(ないし千晴)の流れにはそもそも疑問があり、秀郷の子の千常の流れで、下野にあった兼光の子で鎮守府将軍に任じた頼行が正頼とも同人ともされるが、頼行の後裔に足利・小山という大族が出たから、この系図はあたらない。
 さて、藤原頼俊は、平安後期の史料に見える。永承2年(1047)2月21日付けの「藤氏長者宣」(五位以上の官位をもつ者の列記)のなかに「頼俊右近」と見える。また、それより一世代ほど前の時期に近江に右近将監藤原頼行なる者がおり、『小右記』には三位中将能信の従者を射殺した者で、件の頼行は近江国にて強?せんとせし者であったと記される。この頼行が同じ音の頼高に通じるのかもしれない。ほかに史料がないので、推測しかしようがないが、周防内藤氏の祖の頼高とは、近江の右近将監藤原頼俊の近親であった可能性がある。その悪行が祟って備前とか周防に転居せざるをえない状態であったかもしれない。 右少将頼高の没年を延久四年(1072)と伝えるものがあり、これが正伝なら、頼俊と同世代に頼高があたることにもなる。
 なお、永承2年の「藤氏長者宣」には「頼元近江」と見える者もあり、近江で「頼」を名前に用いた一族がかなり優勢であったことが分かる。しかし、この一族は藤原姓を称しても、中央の藤原朝臣氏ではなかった。具体的な系図が知られないから、おそらく当地の古族後裔として次にまた推測を重ねることにもなるが、江北坂田郡の箕浦・泉・今井・新庄あたりは、古代の息長君一族(息長真人、坂田真人など)の根拠地であった。この一族の動向は平安前期頃まで見えないが、仮に平安後期まで勢力を保っていたとしたら、この時期までに藤原氏を冒姓した可能性も考えられる。
 
 内藤氏の一族は全国各地に雄族として存続しており、なかでも周防の内藤氏は、周防・長門の守護大内氏の重臣として続いて、長門の守護代家であり、江戸期には萩藩の家臣としてあった。毛利輝元の母も内藤一族から出ている。この系統は、内藤氏の嫡統で肥後守盛時の子の七郎有盛の子の孫六郎時信の後裔となる。三河の内藤氏は、豊後四郎左衛門尉家清(『東鑑』に見える内藤権頭親家の子)の後というから、豊後守盛義や内藤豊後三郎の族裔であったか(系図では、盛時あるいは盛親の子の盛継の子が親家とする)。甲斐の内藤氏は、諸伝あるが、肥後守盛時の子の肥後六郎左衛門尉時景の後となる。丹波の守護代内藤氏は難解で諸伝各様有り、惟季の後とか、季方の子の季勝の後とかの系図もあるが、あるいは三河内藤と同族で、内藤権頭親家の後裔というほうが妥当かもしれない。どうもこの一族には一人が別の複数の名前で系図に記載があるようでもあり、決め手に成りがたい難しさがある。私も、今回、周防の内藤氏を再検討してみて、初めて近江の内藤氏と同族という感じをもったものである。

 以上、多くの内藤氏に触れてきて、鈴木真年・中田憲信関係にも、『百家系図』第41冊、『百家系図稿』第5冊や『諸系譜』第13冊に関係系図の掲載があるが、どれもイマイチ納得がいくものではない。こうした謎を解く手がかりが、支流の頓宮氏にあったとも考えられるのである。
 
 (2015.4.6 掲上)


<黒鈴様よりの来信、2015.04.07受け>

 私ももう一度、手元にある資料と「頓宮氏と内藤氏」を見て改めて調べてみました。 頓宮氏が藤原姓にしているということで、甲賀武士の中で藤原姓としている一族を調べてみました。「県社油日神社誌」の中にある「油日神社濫觴記」(一部抜粋)によれば天元2年(979)には、高野藤原氏、相模大原氏、佐治平氏、岩室藤原氏、上野伴氏の5家が既にいたとのこと。 その後、藤原氏と称したのは―鵜飼氏、多羅尾氏、池田氏、頓宮氏(黒川・土山)、長野氏、内貴氏、大野氏、新庄氏で、更に藤原秀郷を祖としているのは―新庄氏(秀郷より十二世孫)、池田氏、頓宮氏(黒川・土山)であり、新庄(新城)氏の祖は「信濃守基顯」としており、調べましたら後藤基顯がおりました。基顯は嘉元の乱(1305年)時に確認でき、当初は宇多源氏の佐々木泰清の五男でしたが、後藤基政の養子となっております。それから近江佐々木氏に属し、「豊後守信貞―伊賀守宗定―伊賀守宗重」と繋ぎ、宗重の軍功により新庄を居となり、そこで新庄氏と改めた。家柄は藤原姓ですが、血筋では宇多源氏の血筋なので、一見では分からないことですね。

 また「県社油日神社誌」の中に興味深いのがありました。神社関係者の中に瀬古氏が見受けられ、系図を確認しましたら藤原季方の子に瀬古俊方がおり、系図はそこで打ち止めになっていましたが、藤原氏の関係者が多くいたことを考えれば、その方の子孫や縁者という可能性はゼロではないと思います。 「近江甲賀郡誌」の中にある[近江興地志略](一部抜粋)に、「頓宮村、下駒月村の北にある村なり。頓宮因幡守孝政、此地を鎭す。孝政は御堂關白道長公の苗裔にして此地の産士なり。佐P・土山氏は其子孫なり」と見えます。 新たに佐瀬氏が頓宮氏の子孫ということが分かり、更なる支流へなっていきます。ただ、佐瀬氏は平姓千葉一族から生まれているので、調べるのは難しそうです。

 頓宮氏以外になってしまい申し訳ありません。以前「近江の寺倉氏と今井・新庄一族」という記事を見かけ何かの手掛かりになると思い、新庄氏について記しました。

 <樹堂の感触>

 ご連絡等、ありがとうございました。貴信についての感触やとりあえず気づいた点などを以下に概略、記してみます。
 「油日神社濫觴記」については、天元2年(979)当時に5家が既に在ったというのは、疑問が大きいと思われます。例えば、甲賀伴氏の系統では、その祖の安芸権守資乗が承安3年(1173)4月に他人殺害に依って三河国設楽郡から甲賀郡大原村に遷住したとされており、伴のほか大原・上野・多喜(これが伴の4家)・馬杉・毛牧などの伴一族が出たとされます。もっとも、「立川氏文書」の応和3年(967)4月の甲賀郡司解状には甲賀郷長伴宿祢資守、主帳伴宿祢宗俊が見えますが、この文書には疑問があります。
 
 後藤基顕の系統は、『尊卑分脈』等にその子の顕清・基貞・顕貞の兄弟があげられるのですが、豊後守信貞はこの兄弟の子孫になりそうです。後藤氏嫡裔は六角氏に属した大族で、筑後貞重などが知られます。
 
 佐瀬氏が千葉一族に出ていることは系図に見えますが、この氏が甲賀に展開したことは管見に入っておりません。おそらく、甲賀は別の系統とみられます。
 
 多羅尾氏は、もと高山といい、近衛摂関家の流れと称しましたが、近衛家の所領であった地に起こったことに因み、甲賀古族の末流ではないかとみられるものの、実際の系譜は不明です。

 (2015.4.12 掲上)

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