畑時能の系譜    附.伊地知氏の初期系譜

(問い)『太平記』に新田義貞の家臣に畑時能と言う人物が出てきます。畑氏の出自に関しては畠山重忠の子孫と言われていますが、詳しいことは分かりません。
 ここで参考になるのは重忠の兄・重光を祖とする伊地知氏です。伊地知氏の伝承では重光の曾孫である時季が越前の守護になったとされています。伊地知氏が越前の守護になったことは史実に反しますが、その主筋である島津氏は越前に分家を残していますので、伊地知氏も越前に分家を残し、それが畑氏になった可能性はあります。“時”と言う名を共有しているのも証拠になります。以上のことから、畑氏の出自は平姓畠山氏であるかは別として、伊地知氏の分家であることは確かだと思われますが、いかが考えますか。
 
 (大阪在住の方より、09.9.19受け)

 (樹童からのお答え)

  畑時能は新田義貞に従い越前に行き、同国各地で奮戦して最後は大野郡伊知地(現勝山市)の地で討死しますが、武蔵の人であって、武蔵七党のうちの丹党の出であり、畠山重忠の子孫でも伊地知氏支流でもありません。ただ、畑時能の後裔という丹波の畑氏の系譜では畠山重忠の後裔だとも伝えており、時能が討死した伊知地から薩摩の伊地知氏(「地・知」の順番に留意のこと。ともに現在の訓は同じく「いじち」)が起こったという所伝があるなど、関連しそうな紛らわしそうな面がいくつかありますので、以下に順をおって記します。試論も含みますから、よくご検討いただけたらと思います。
 (以下は、である体
 
1 畑時能なる武将
 畑時能(はた・ときよし)は、武蔵から出て新田義貞一族に従って各地を転戦した南朝方の武士であり、『太平記』には相撲を好む日本一の大力の剛者として、義貞兄弟について行った越前での活躍ぶりがかなり詳しく記述される。とくに巻廿二には「畑六郎左衛門事」として一章を割いて、甥の所大夫房快舜や犬獅子と名づけられた愛犬の働きまで見えている。後代には新田四天王の一人に数えられ、「太平記絵巻」に描かれ、歌川国芳の錦絵にも愛犬とともに描かれたから、往時はかなり人口に膾炙されたものであろう。
 その活動を見ると、武蔵国(具体的な地については後述)の生まれで、後に信濃に遷ったといい(『太平記』の記事だが、やや不審)、六郎左衛門尉と名乗り、新田義貞・脇屋義助兄弟に従って各地を転戦した。近江の三井寺合戦などで戦功があり、延元二年(1337)七月に義貞が越前藤島の灯明寺綴(福井市新田塚)で平泉寺勢力のため敗死し、その後、南朝方の拠点・丹生郡杣山城(福井県南条郡南越前町阿久和)が落ちても、新田一門の一井兵部輔氏政とともに坂井郡鷹巣城(福井市高須町)などを転戦して、北朝方の足利一族の越前守護・足利(斯波)尾張守高経、高上野介師重や、能登の吉見頼隆の軍と激戦を繰り返した。
 脇屋義助が美濃に去っても、福井市街の東側に位置する、九頭竜川北岸の伊知地山(現福井県勝山市北郷町伊知地にある鷲ヶ岳で、標高769m)に砦を築き、郎党十六騎で立てこもって戦いを続けた。南朝・興国二年(暦応四年。1341)十月、斯波高経が伊知地山へ三千余騎の軍勢を差し向けたので、畑時能は少数の兵でこの軍勢との激闘し退けたものの、敵矢で深手を負い三日後に亡くなったという。この合戦の場所は、越前における南朝方の最後の戦いが行なわれた地で、「伊知地古戦場」として勝山市指定史跡となっている。
 
2 畑時能の後裔という丹波の畑氏
 丹波国篠山の東北近隣、多紀郡畑荘(古代の宗部〔曽我部〕郷)の瀬利の地(現在の地名でいうと、篠山市街地の東北近隣の同市大字瀬利〔せり〕)には、戦国時代に八百里山城があり、その城主は畑六郎左衛門時能の子孫と称した畑氏であった。時能が戦死したのち、遺児の六郎時速は丹波にいた新田一族の江田行義を頼ったのが、丹波の畑氏の始めだと伝えられている。戦国末期には、天正三年(1575)頃から始まる織田信長部将の明智光秀による丹波攻めのなかで、畑牛之允守能は子の守国・能国兄弟らとともに、波多野氏に属して信長勢に抗したが、結局、波多野勢は敗れ、畑兄弟ら一族は明智軍との戦いに戦死したり四散し、父の守能も戦陣を逃れて僧となったという。このほか、飛騨国白川郷や越前の三国町、川崎市鶴見区などにも、時能の子孫という一族が居住する。
 丹波畑氏については牛之允家など三流があったとされ(『多紀郷土史話』など)、それぞれの出自が異なるといわれるが、系譜的には、@畑六郎左衛門時能の子孫というもの、A新田一族の大井田経氏の弟・経世の子孫というもの、B野尻氏流畑氏の流れ(『籾井家記』に鎌田兵衛政清の末孫と見えるが、これも一伝か。後述)、があるという(『丹波』四号掲載の畑経雄氏の論文など)。
 畑氏の諸家に伝わる系図は、時能以後でも大きく異なる。時能の子を『丹波志』では能速、『妙心寺史』では時純とするなど名前が違ううえに、それ以後の人名も大多数が異なるが、途中の能道や末期の能綱、守国ということでは共通する点もあるので、これらは別系とはいえない。後者に記されたところでは、時能の子・時純は新田義貞の子義興に仕えて貞和四年(1348)に刀祢山で戦死し、その子孫は細川氏に属したという。畑時能の父祖も、後者では源義光後裔の左近太夫胤時の子とあるが、胤時に至る中間世代はまるで史料と符合しないので、清和源氏という父祖伝承のほうは、まずとるにたらない。ともあれ、Bの野尻氏流でも源家の出で畑経純の末裔と伝え、畑一族には「経」を通字とする一派もあるから、総じて丹波の畑氏は清和源氏と称したもののようである。
 これらの事情からすると、丹波のほうは、実際には畑時能の子孫でなかった可能性もあろう。瀬利の南の大字畑宮には畑荘の氏神たる佐々婆神社がある。同社は延喜式内社であるから、当地の古族(佐々婆神の実体不明も、奉斎者は宗我部か日子坐王後裔の佐佐君か。「宗太郎」「宗八」などの通称も気になる)の後裔が畑氏としたほうが自然のようでもある。畑宮の東北近隣には「県守」の地名があり、これらの地域近隣を籾井川が流れ、当地の籾井氏は赤井・須知の一族に出て、清和源氏と称するものの藤原姓とも称し、その実、丹波国造後裔だと鈴木真年(『苗字尽略解』では、赤井・黒井に続けて丹波朝臣姓であげる)がいうから、その一族にあたるものかもしれない。畑氏は氷上郡にも多く分布し、桑田郡にもあるから、こうした広汎な分布の苗字は当地の古族末流とするのが自然なようである。

 ところで、東大史料編纂所には畑時能の子・畑六郎能速の流れとする「畑系図」の謄写本がある。多紀郡瀬利村の畑六郎右衛門家に原蔵の系図を明治二二年(1889)に謄写したものであって、『丹波志』掲載の系図とかなり似通うが、比べてみると、世代の欠落などの相違がいくつかあるように見える(『姓氏家系大辞典』畑の第7項も参照のこと)。
 それによると、桓武平氏の畠山治郎重忠末孫という畑六郎左衛門時能から系図が始まっており、江戸末期ないし明治初期頃の敬義(源太郎。その父・寛済に六右衛門と見える)まで至る代々のものであるが、畑時能の生地を武蔵国府中村としたり、暦応年十月二二日に越前鷹巣城下で敵箭に当たって卒したなど、誤った記事が多い。こうした関連でいっても、畠山重忠末裔説は疑問が大きい。
 
3 畑時能の系譜
 畑六郎左衛門時能の系譜について、太田亮著『姓氏家系大辞典』では畑第10項の武蔵の畑氏を藤原姓としつつも、「秦氏後裔か」と記される。藤原姓というのは、『中興系図』に「畑、藤原姓、本国武蔵、紋三」とある記事に拠ったとみられる。一方、明治の鈴木真年の著作の『苗字尽略解』では「畑」について「多治比真人姓、武蔵国児玉郡人」として安保・加治などの丹党諸氏のなかにあげており、『史略名称訓義』でも「畑時能」について「武蔵丹党也、丹三冠者経房九世孫畑六郎大夫丹治時道男六郎左衛門号」(後村上天皇の項)と記して、畠山重忠と同じく秩父関連でも、丹党の出だとされる。
 祖の丹三冠者経房とは、武蔵丹党の嫡宗的な存在であって、秩父・入間郡などに分布した中村・横瀬・大河原などの諸氏の祖とされており(「武蔵七党系図」)、その活動時期は十一世紀後葉ないし十二世紀前葉頃とみられる。経房の曾孫となる中村右馬允時経は『東鑑』に見え、寿永の源平争乱のときに源範頼の配下で一ノ谷合戦に参陣している。これらの働きにより、経房後裔の下中村氏は播磨国三方荘に土着したなど、坂東以外でも動きが見える。中村一族には「時」を通字とする者が多く見えており、『新編武蔵国風土記稿』では高麗郡畑村条に、この地に畑時能・能速が住んで在名を称したかと見えており、高麗郡には同族の加治氏なども居たから、畑時能が丹党の一員であったと伝えるのは妥当であろう。畑時能の配下として共に伊知地山で戦ったなかには、児玉党の一員とみられる児玉五郎左衛門も見えるから、北武蔵の武士で近隣の新田義貞に従った事情が知られる。
 埼玉県児玉郡上里町金久保の陽雲寺には、同地の金窪城主であった畑時能の墓があるから、鈴木真年のいう児玉郡人というのは、これらの事情によるものか。
 
 同じく義貞四天王に数えられる篠塚伊賀守重広は、武蔵国の利根川対岸、群馬県邑楽郡邑楽町篠塚の大信寺に墓所があり、その案内板には畠山重忠の六代子孫で当地篠塚に生まれ、旗揚げ参加して以降伊予まで新田一族に従い活躍したことが記される。『太平記』巻廿二には篠塚勇力の条もあり、篠塚伊賀守が「畠山庄司次郎重忠の六代孫で武蔵国に生まれた」とあり、『上野国志』には多胡郡篠塚村から出たと見える。
 畠山重忠とその子の六郎重保・小二郎重秀は討たれたが、その末弟にあたるという僧円耀(慈光院別当の重慶と同人?)は子孫を残して入間郡大久保に起る大窪氏(円耀の孫に大窪七郎重村が見える)を出したという系譜もあるから、篠塚氏はこの一族か。ただ、僧円耀については確認できる史料がないようであり、むしろ重忠の弟たる長野三郎重清・畠山六郎重宗の後裔であった可能性もあろう。丹党にも大窪氏があり、下中村五郎時賢(経房の曾孫とされるが、世代対比で考えると経房の子か)の曾孫に大窪八郎時清が見える。この大窪氏や秩父郡の富沢氏、上州緑野郡の浄法寺氏に見るように、一方で畠山一族を称しながら、丹党の一員という事情があり、いわゆる秩父平氏と丹党はほぼ同地域に居住し、実はともに武蔵秩父の古族末流で同族であった。
 以上の諸事情からみて、畑時能の系譜は武蔵丹党に出たことはまず間違いなく、鈴木真年の上記記事が妥当なところとみられる。
 
 ところで、「武蔵七党系図」には畑時能の祖先系譜は見えないが、上記の真年記事に近い系図が町田市の無窮会文庫にある。それは、『諸姓分脈系図』十巻のなかにある巻三所収の「畑系図」であり、横脛悪三時経に始まり、その五男畑弥六郎時広から畑氏が始まっている。
 横脛悪三時は、「武蔵七党系図」では経房の子の横脛悪三時親と見えるが、両者が同人として問題なかろう。畑弥六郎時広の後は、その子の畑六郎大夫時信、その六世孫の畑六郎大夫時道となり、その子に時能・時重兄弟(時重の子に快舜房)、時能の子に六郎太郎時定・次郎大夫時綱をあげ、時綱の子の弥九郎時氏以下がつながる(実は今から25年前のメモに拠るもので、時氏以降は記してこなかったから、その子孫がどうなっているのかは不明)。
 この系図の問題点は、時信と時道の間が五世代とやや長いうえに、「六大夫−快玄房−道儀−快善−畑四郎左衛門」という記事であって実名・事績を記さないことであるが、この辺以外はほぼ信頼してよいのではなかろうか。以上で、畑時能関係の系譜問題はほぼ解決したとしてよさそうである。

 
4 附記−伊地知氏の初期系譜伝承
 薩摩・大隅の伊地知氏の初期の系譜にも不明な点が多いので、併せて附記しておく。
 伊地知氏の系譜について、重忠後裔説(『地理纂考』。「宮之原系図」は重忠の子の重後裔説)もあるが、重忠の兄・太郎重光の後とする所伝もある。こちらもその歴代が明確に伝わらず、その裏付史料がないので、「太郎重光」なる者がかりに実在していたとしても、その系譜の確認ができない。おそらく畠山氏など秩父氏一族か丹党から出たくらいであろうし、島津氏の先祖・一族に従ってその南九州遷住があったことは肯けても、その来住が南北朝期のようであり、その経緯も明確ではない。日向の宮之原氏も畠山重忠の子孫と称し、その三男重俊の後裔と『諸家大概』に見えており、この系譜自体には疑問であるが、伊地知氏と近い一族なのであろう。同書では、伊地知氏で慶長時に秩父氏に改めた者があったことも記される。
 伊地知氏の薩隅での直接の先祖は、南北朝期に島津家五代太守の島津貞久(生没が1269〜1363)に属した伊地知弾正「季随」とされており、「重光−季光−季親−季時−時季−兼季−季清−季随」という系譜もあるようだが、季随までが単系で伝えて史料裏付けがなく、かつ、世代が若干多すぎるきらいもある。伊地知一族には、その後でも「季」を通字とする者がむしろ多く見えており、丹党にも「季」を通字とする氏(中村一族の坂田氏で、その祖を「季時」とする)があるので、伊地知氏が畠山一族から出たという所伝には疑問も感じられないわけでもない。
 信頼できそうな史料では、鎌倉後期、十三世紀末の永仁六年(1298)に伊地知三郎入道が「山城長福寺蔵文書」に見えており、以降も伊地知右近将監長清が「東大寺文書」(応長二年三月)、伊地知孫弥三郎季昌が正和二年(1313)三月の「九条家文書」、伊地知右近将監親清が嘉暦二年(1327)十二月の「和泉田代文書」に見える(以上の文書は『鎌倉遺文』に収録)。これらは、中央にあった伊地知氏一族とみられるが、伊地知孫三郎季昌が薩隅の伊地知氏と関係があるかもしれない。「長清・親清」もほぼ同年代にあたるとみられる「季清」(季随の父と系図に見える)と近親であったものか。この頃の一族の名前に「重」が見えないことにも留意される。

 「伊地知」というのが地名に起こった苗字として、それが越前の「伊知地」に通じることはありえよう。「白河本東寺文書」の正和三年(1314)七月には伊知地右近将監が見え、嘉暦二年(1327)八月の「海老名文書」にも伊知地弥三郎が見える(以上の文書も『鎌倉遺文』収録)。南九州でも、『日向記』には「伊知地殿、高城御婿子縫殿助」と見えるといい、「縫殿助」は伊地知季随の孫の縫殿季豊かその子孫(重周、重興など同じ号の者が多い)に当たるか。薩隅では、永和元年(1375)八月頃から伊地知民部が史料(「山田聖榮自記」など)に見えており、この「民部」は年代的に伊地知季随の子の季弘に当たるとみられる。なお、島津一族の支流に越前島津氏があり足羽郡足羽山に居たといわれるものの、伊地知とそれとの関係も不明である。

 ところで、伊知地山(鷲ヶ岳)と浄法寺山とは福井市街地の東側に立てた屏風のような存在で、福井の景観を決定する重要な山だという指摘がある。畠山一族から出たものに陸奥国二戸郡浄法寺に起る浄法寺氏があり、重忠の子の滋光院別当重慶の子孫という系譜を称するが、実際には重忠の弟・重宗の後裔にあたりそうでもある(『姓氏家系大辞典』所引の『郷村記』)。長野三郎重清の後裔は武蔵に残り、弘安八年(1285)の「豊後国図田帳」に見える大分郡阿南庄吉藤名の畠山十郎重末は畠山六郎重宗の流なるべしと後藤碩田は指摘する(ただし確証がない)ように、重忠親子は滅ぼされても畠山一族は鎌倉期に存続した事情があるから、それが陸奥や越前などに分岐した可能性もあろう。「重末」は「重季」にも通じそうでもある。
 浄法寺の氏・地名の起源が緑野郡浄法寺ばかりではなく、越前の浄法寺にもあったとしたら、浄法寺氏と伊地知氏とが同根であったことも考えられる。まったくの偶然なのかもしれないが、福井県の伊知地山と浄法寺山の地理配置は面白いと感じるものでもある。
 
 (09.9.23 掲上)



 <大阪在住の方からの返信> 09.9.23受け

 畑時能と伊地知氏の関係については長年気になっていましたので、誠に有り難うございます。

 ところで、樹童様は、同じく新田義貞の家臣である篠塚重広の出自に関しては畠山重忠の弟から出たのではないかといわられますが、個人的には以前の浄法寺氏の件で質問したのと同じく、同じ秩父氏でも高山党の出自ではないかと考えています。
 何故なら、篠塚重広の出生の地とされる多胡郡篠塚村は高山党の勢力圏であり、現に新田義貞の家臣に高山重栄がいます。共に畠山氏の子孫を称しているという共通点もあります。以上のことから、篠塚重広は浄法寺氏同様に本来は高山党の出自だと考えられるのですが。

 新田義貞の家臣には畠山・小山田氏の末裔を称している者が多くいることに気付きます。例えば、湊川合戦で義貞の身代わりとなって討死にした小山田高家なる人物がいます。ただ、小山田氏は畠山重忠事件で族滅してますので、高家の出自は畑時能と同じく丹党だと思われますが。


  (樹童の感触)

1 高山党栗須氏の一族
 篠塚重広の出生の地とされる多胡郡篠塚村(藤岡市篠塚)は、栗須村(藤岡市の上・中・下の栗須一帯。高山から東北方)のすぐ西に位置しており、その地に起こった栗須氏は、高山党の祖となる高山三郎重遠の子・栗須四郎有重を祖とする事情にあります。
 だから、高山党の一派であった可能性もありますが、管見に入った高山党関係の系図には、篠塚氏の分岐が見えない事情にあります。栗須四郎有重の子の世代が源平争乱時を活動期としていたとみられますが、系図には重家(泉四郎太郎〔一に十郎〕)、重村(栗栖四郎五郎)、重景(中村二郎)、重清(小林二郎)が見え(以上は順不同)、一部は彼らの子の世代まで上げられるというなかには、篠塚氏は見えません。鎌倉中期以降に分岐していれば、系図に出てこないということでもありますが。

2 円耀の後裔
 ご指摘を受けて、秩父一族関係の系図を見直したところ、紀州南葵文庫旧蔵の「八平氏並諸家系図」には、重忠の末子にあげる円耀について、「飯塚祖」という記事があり、円耀の孫には大窪七郎重村もあげられます。
飯塚氏については、『姓氏家系大辞典』イヒヅカ第2項に、桓武平氏畠山流とし、「家伝に「畠山重能三男男衾重宗が後裔、重世・秩父郡飯塚の郷に住せしにより家号とす」と、重世十代孫泰貞の子貞重、佐野昌綱に属す。」と見えます。下野国佐野郷にも飯塚村があり、秩父郡飯塚の地名が移されたのかもしれません。
 こうして見ると、円耀後裔たる飯塚氏が男衾重宗の後裔でもあれば、円耀は重宗の子あたりにおかれるほうが実際には妥当ということになり、この一族が武蔵北部から両毛地方にも出て行った可能性も考えられます。大久保(大窪)氏は、武蔵国高麗郡や男衾郡にもあるとのことですが、その具体的な系譜は不明です。『東鑑』では、畠山重忠が討たれたときに「弟の六郎重宗は奥州にあり」と記されていますので、武蔵や陸奥に子孫を残したことはありえます。
 なお、大窪氏は上野国群馬郡大久保村から起こったものもあり、『平治物語』巻三にも見えますが、こちらの大窪太郎は源平争乱前に生じていた模様で、その系譜は不明です。

3 小山田氏のその後
 小山田氏は、小山田別当有重の子で稲毛(小山田)三郎重成の弟・小山田五郎行平あるいは小山田八郎重親の後裔とされますが、畠山重忠・稲毛重成の事件で勢力を失ったようで、その後の系図は不明です。ただ、「承久記」に「をやまだの太郎」が見え、甲斐国都留郡の戦国期までの有力豪族小山田氏が平姓で秩父氏の族という(『鎌倉大草紙』応永二五年十月条に「平氏小山田弥二郎女が武田信満の妻」など)ので、小山田別当有重の子孫が族滅されたわけではなさそうです。
 『東鑑』では、稲毛重成が讒言で討たれたときに重成親子、及び弟の榛谷四郎重朝親子がほぼ同時に討たれたと見えますが(元久二年六月条)、小山田氏については言及されていません。ただ、その後の同書には小山田氏が見えませんので、勢力をおおいに失ったということでしょう。このことは、梶原景時の親子がすべて討たれても、その後にもまだ梶原一族が残り『東鑑』に見えるのとほぼ同様に考えてよいのでしょう。
 中田憲信編『各家系譜』三所収の津川系図には、稲毛重成の弟に小山田五郎行重をあげて、「安貞二二三死」と記されますから、これが信頼できるのであれば安貞二年(1228)まで生きたことになり、年代的に見て、承久の「をやまだの太郎」はその嫡男にあたるのだとみられます。『大日本史料』 6編(44冊166頁)には「小山田家系図」(宮崎県史史料編中世一所收)を引いて、永和元年(1375)九月八日に小山田治部左衞門尉重宗の軍忠のことを記しますから、「重」を通字とする小山田氏が存続したことが知られます。

  ご指摘のように、新田義貞一族の配下として、高山氏など秩父党・高山党の武士がかなり見えますが、この一党の武士が北武蔵から両毛南部にかけて分布していた事情に因るものでしょう。武蔵という視点に限定せず、広域に考えていく必要性を感じます。

 (09.9.24掲上)  

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